※本稿は、澤田誠『科学的根拠で証明する上手な脳の使い方』(かんき出版)の一部を再編集したものです。
■日常的に起こる「ど忘れ」の根本原因
リビングにいてふと思い立って寝室に来たのに、何しに来たのかわからなくなってしまった。仕方がないのでリビングに戻ってソファに座った途端、スマホの充電器を取りに行ったんだったと気がついた――。
よくある「ど忘れ」という現象ですね。ど忘れは、いったん覚えたことを思い出すのが困難な状態を指します。
似たような現象に「物忘れ」という現象がありますが、「物忘れ」はある事柄を覚えようとしても覚えられない状態で、「記憶障害」と呼ばれます。一方、「ど忘れ」は覚えている事を思い出せない状態で、専門的には「想起障害」と呼ばれます。
取りに来たものを忘れる程度のことならいいのですが、重要な場面で言葉が出てこないとなれば、悲惨なことになってしまいます。
なぜこのような事態に陥ってしまうのでしょうか。
本記事では、「アウトプット」をテーマに、いくつかの脳の特性を見ていきたいと思います。
まずは日常的に起こる「ど忘れ」の話から始めましょう。
さて、「ど忘れ」が起こってしまう原因には、脳の機能の1つである「周辺抑制」が関係しています。
この機能は、例えるなら小学校の朝礼のようなものです。
朝礼が始まる前は、子どもたちが勝手に走り回ったり、大きな声で喋ったりしています。
非常にカオスな状態で、これでは校長先生の話は聞こえません。
そこに怖い体育の先生が「整列して静かにしなさい!」と一喝します。すると、子どもたちはちゃんと並んで、喋らなくなります。
すると、校長先生の話が聞こえて朝礼が成立するというわけです。
脳の中でもこれと同じようなことが起きています。
■クマに出会ったらこの情報を取り出す
神経細胞は、もともと勝手に活動したり休んだりしています(これを自発活動と言います)。
そこに、体育の先生の役割をする神経細胞が、重要な情報がちゃんと伝わるように、関係のない神経回路の活動を抑制する働きをします。
これが「周辺抑制」です。
脳はより重要な事柄に集中するために、邪魔になる情報は思い出さないようになっています。これによって、私たちはその時々で最適な対応ができるようになるのです。
例えば山道でクマに出会ったとします(最近は人里でも出会ってしまうのですが)。
私たちは脳の中で、クマに関する知っている情報を記憶しています。しかし、クマに遭遇したときに「目の前の動物はクマ」とか「このクマの種類はツキノワグマ」とか「ヒグマより歯の数が少ない」といった情報を思い出していたら、襲われる危険性が増してしまいますね。
このとき、私たちにとって一番重要な情報は「クマは人を襲う」でしょう。種類や歯の数といった記憶は必要ありません。
その瞬間に最も必要な情報以外を抑制して、「逃げる」という適切な行動を取れるようにする。そのために「周辺抑制」という機能があるのです。
■神経細胞を調整して静かにさせる役割の細胞
この周辺抑制を支えているのが「抑制性神経」と呼ばれる神経細胞です。
先ほどは怖い体育の先生に例えましたが、今度は少し専門的に解説してみます。
神経細胞は、活性化すると「インパルス」と呼ばれる電気信号を作り出して次の神経細胞に伝えることで情報伝達を行っています。
神経細胞の中には、活性化するとほかの神経細胞のインパルスの発生を抑制する物質を作り出す神経細胞があって、神経細胞の過剰な活動を制御しています。
これが「抑制性神経」です。
脳を構成する神経細胞の多くは、刺激がなくても活動電位を発生する「自発活動」という性質を持っているため、 そのままでは統一的な思考や行動が取れないのです。
これを調整して静かにさせる役割が、抑制性神経細胞です。
抑制性神経細胞は、神経興奮を抑える働きを持つギャバ(GABA)やグリシンといった神経伝達物質を放出することで過剰な神経活動を調節します。
チョコレートや睡眠サプリメントなどの成分として知られている、鎮静作用を持つ物質です。人の大脳皮質では約20パーセントの神経細胞が抑制性の性質を持っていて、相手の神経細胞のどこを調節して抑制するかによって、5種類に分けられています(シャンデリア細胞やダブルブーケ細胞など、見た目によって付けられた面白い名前がついているので、興味がある人は調べてみてください)。
抑制性神経細胞はあまり注目されることがないのですが、神経細胞の活動を要所要所でコントロールしているわけですから、彼らの働きは脳が本来の力を発揮するうえでとても重要です。
さらに、人と霊長類だけが持っている抑制性神経細胞があることも報告されています。抑制による脳の活動の調節が高度な知能を持つことにつながったという仮説もあるぐらい、抑制性神経細胞は脳の機能を説明するうえでとても重要です。
■不快の感情が強いほど扁桃体の活動が増大
プレゼン中にかなり酷い「ど忘れ」に陥ってしまい、パニック状態に近い状態になる――そんな経験はありませんか?
これには主に「ど忘れ」を増強してしまう2つの要因が影響しています。
1つは不快の感情による抑制系の増強。もう1つは、睡眠との関係です。
ここでは感情、特に不快の感情と抑制系の関係について解説します。
記憶のインデックスとしての役割を持つ海馬は、関連情報を大脳皮質に広く結びつけています。一方、思い出すときには思考や記憶の検索を担う前頭前野が「どの記憶を取り出すか」を制御します。
ところが、不快な感情によってこの制御機能がうまく働かなくなってしまうことがあります。
感情のうち、不安や怒り、恐怖、恥ずかしさなどの不快な気分を感じると、脳内ではまず「扁桃体(へんとうたい)」が強く活動します。扁桃体は危険やストレスに関わる信号を感知し、注意や行動を「今、対処すべきこと」に集中させます。
その結果、前頭前野(特に背外側前頭前野や前部帯状皮質)の働きが抑えられ、思い出そうとしていた情報へのアクセスが難しくなります。
不快の感情が強ければ強いほど扁桃体の活動が増大し、前頭前野の働きがより抑えられることになってしまうのです。
■思い出そうとすればするほど、思い出せない
さらに、不快な感情はストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を促します。
コルチゾールはストレスや緊張によっても分泌され、一時的に扁桃体を活性化し、同時に抑制神経系の活動を強めることで海馬や前頭前野の神経活動を低下させます。
こうして海馬のインデックス機能が落ちると、知っているはずの情報がうまく再活性化できず、「あれ、なんだったっけ?」という状態が起こりやすくなってしまうのです。
さらに厄介なことには、「思い出そうとすればするほど、思い出せない」という状況を作り出してしまいます。思い出せないことの焦りがストレスとなって、不快の感情やストレスホルモンの分泌をさらに促してしまうからです。
ただし、この状態は一時的なものなので、思い出そうとしなくなると抑制がとれて、ふっと思い出すことができます。
例えば、仕事中はどれだけ考えても思い出せなかったのに、お風呂に入っているときや就寝前にふと「そうだ、○○だった」となった経験があるのではないでしょうか。
このように、一見すると不都合な「ど忘れ」も、脳が状況に応じて情報をコントロールしようとした結果起こる生理現象です。
思い出せないと焦るような場面では、リラックスを心がけましょう。
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澤田 誠(さわだ・まこと)
脳研究者
1958年香川県生まれ。脳研究者、名古屋大学名誉教授、藤田医科大学客員教授。東京工業大学大学院総合理工学研究科博士後期課程生命化学専攻修了。理学博士。専門は神経化学、神経薬理学。米国国立衛生研究所ポストドクトラルフェロー、科学技術振興事業団「さきがけ研究21」研究員、藤田保健衛生大学(現藤田医科大学)総合医科学研究所教授等を経て、2005年名古屋大学環境医学研究所教授に。2012年同所所長に就任。脳の免疫機能を担うグリア細胞の一種ミクログリアの研究を30年以上にわたり行っている。
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(脳研究者 澤田 誠)

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