2026年4月、アメリカの航空会社JetBlue(ジェットブルー)が、たった一件のSNS返信で全米を巻き込む騒動を起こしました。
発端は、ある利用客のX(旧Twitter)への投稿です。
「JetBlueは大好きだけど、チケットが1日で230ドル(約3.5万円)も値上がりするのはおかしい。葬式に行こうとしているだけなのに」

これに対してJetBlueの公式アカウントは、こう返信しました。「キャッシュとCookieを削除するか、シークレットウィンドウで予約してみてください。お悔やみ申し上げます」

Cookieやキャッシュとは、どのページを何度見たかをブラウザに残す「閲覧の足あと」のようなものです。つまり公式が「足あとを消せば安くなるかもしれない」と言ってしまった。客の閲覧履歴で値段を変えているのではないか、という利用者の長年の疑惑を、企業自身が認めたように見えたのです。

■航空会社の“うっかり返信”が全米を炎上させた

返信はすぐに削除されましたが、スクリーンショットは拡散し、わずか4日後には「閲覧データで価格を吊り上げていたのではないか」として集団訴訟に発展。JetBlue側は「個人情報や閲覧履歴で価格は決めていない。返信は一人の担当者のミスだった」と全面否定していますが、騒動は収まっていません。

こうした手法はアメリカで「サーベイランス・プライシング(監視価格)」と呼ばれます。AIが「この人はいくらまでなら払うか」を計算し、その人専用の値札を作る仕組みです。

米・航空会社のミスで露呈した「AI値上げ」の真実。AIが”高...の画像はこちら >>
疑惑は一社にとどまりません。2025年末には、食料品の配達アプリ大手Instacart(インスタカート)をめぐる調査結果が公表されました。
同じ店の同じお菓子を、同じ時刻にアプリでカートに入れる。それだけで、あなたと隣人のスマホには最大23%違う値段が表示されることがある──400人以上のボランティアが参加した実験で、そんな実態が明らかになったのです。舞台のひとつは、ぼくの住むシアトルのSafeway(大手スーパー)でした。Instacartは批判を受け、この価格実験の終了を発表しています。

そう、今アメリカで起き始めているのは、AIがデータをもとに、一人ひとりに違う価格を提示する時代なのです。

■「1人ひとりの値付け」は企業の長年の夢

そもそも、なぜ企業は「人によって違う値段」をつけたいのか?答えはシンプルで、同じ商品でも「払ってもいい金額」は人によって違うからです。

あなたが「1万円までなら出す」と思っていた商品を8千円で買えたら、2千円得した気分になりますよね。企業から見れば、その2千円は「本当は取れたはずのお金」です。一人ひとりに、その人専用の値段を付けられれば利益は最大になる。これは企業にとって100年来の見果てぬ夢でした。

実は、人によって価格を変える工夫は昔からあります。学割やシニア割は「学生や高齢者は払える額が少ない」という属性で割り引く仕組みです。航空券が出発日に近づくほど高くなるのも同じで、「直前に買う人は急いでいて、高くても払う」ことを見越した値付けです。
葬式で急に飛行機が必要になった人が高い運賃に直面しやすいのは、まずこの昔ながらの仕組みのせいです。

ただし、こうした仕組みはどれも「同じ条件の人には、同じ価格」というルールで動いていました。直前に買えば誰でも一律に高いし、学生なら誰でも同じ割引です。企業には、あなたという個人が「いくらまでなら払うか」を知る方法がなかったからです。

その限界を壊したのがAIとデータです。閲覧履歴、検索の回数、住んでいるエリア、過去の買い物。米議会の調査では、企業がこうしたデータから消費者の「感情状態、購買意図、支払い可能な上限額」まで割り出しうると指摘されました。要するに「急いでいる」「迷っている」「最後は結局買う」といった心の中まで、です。

JetBlueに向けられた疑惑も、まさにここでした。同じ便を何度も検索した履歴から「この人は事情があって、必ず買う」と見抜き、その人にだけ高い価格を出していたのではないか、と。ルールが「全員向け」から「あなた個人向け」に変わる。これが決定的な違いです。


つまり監視価格の正体は、AIがあなたのデータから「いくらまでなら諦めずに払うか」を推定し、その上限すれすれまで値段を引き上げる仕組みです。あなたが「高いけど、仕方ない」と思う、その一線を狙ってくる。技術の暴走ではなく、企業が昔から見ていた夢が、AIでようやく実現可能になったのです。

その代金を払うのは消費者です。Instacartの調査では、価格のばらつきが積み重なると4人家族で年間約1200ドル(約18万円)の負担増になりうると試算されています。サブスクのように毎月請求書が届くわけではありません。だから気づかない。少しずつ、静かに、あなたのお金が消えていくのです。

米・航空会社のミスで露呈した「AI値上げ」の真実。AIが”高くても買う人”を勝手に選んでいた
閲覧履歴などからAIが勝手に”高くても買う人”を選ぶ…驚愕の未来が来ようとしている(画像/Adobe Stock)

■学割はよくて、“葬式割増”はなぜダメなのか?

では、AIによる個人別価格は許されるのでしょうか。

意外に思われるかもしれませんが、JetBlueを訴えた原告側ですら、訴状の中で「監視価格そのものはアメリカでは違法ではない」と認めています。争点は、同意なくデータを収集し、それを開示していなかったこと。現時点のアメリカには、この行為の是非を正面から定めたルールが存在しないのです。だからこそ今、猛烈な勢いで線引きの議論が起きています。


学割と監視価格は、何が違うのか。ぼくは「ルールの透明性」だと思います。学割も早割も、条件は全員に公開されていて、自分がなぜその価格なのかが分かる。一方の監視価格は、なぜその値段なのか本人にすら分からない。しかも学割が弱い立場の人を安くする仕組みなのに対し、監視価格は弱った瞬間の人を高くする方向に働きます。連邦議会のギャレゴ上院議員はXでこう書きました。「JetBlueは、葬式に行かなければならないと知っているから数百ドル値上げしたと、公然と認めているのか? 悲しみにサージプライシング(急騰価格)があってはならない」

立法も動いています。4月にはメリーランド州が個人データに基づく価格設定を規制する全米初の本格的な州法を成立させ、コネチカット州が続き、2026年だけで24以上の州で40本を超える関連法案が提出されているといいます。中でも象徴的なのが、ニューヨーク州ですでに施行されている開示ルールです。個人データを使って価格を決めた場合、企業は価格の横にこう表示しなければなりません。

「この価格はアルゴリズムがあなたの個人データを使って設定しました」

禁止ではなく、まず「見える化」から。アメリカは今、その値札を見ても人が買うのか、という壮大な社会実験の入口に立っています。


■「混む日は高い」の次は、「あなたなら高い」

ぼくはシアトルのテック企業でPM(プロダクトマネージャー)として働いています。ボタンの色を変えるか、表示する順番を変えるか、文言を1文字変えるか──そんなA/Bテストは日常業務のひとつです。だからこそ思うのですが、画面上の小さな実験と、人の足元を見て値段を変えることの間に、技術的な壁はほとんどありません。あるのは倫理と開示の壁だけです。AIで「できること」が爆発的に増えた今、サービスの価値を決めるのは技術ではなく、「どこで線を引き、それをどう開示するか」なのだと思います。問われているのは「やれるか」ではなく、「やれるけど、やらない」を決められるかなのです。

そして日本でも、序章はすでに始まっています。テーマパークの入場料は日によって変わるようになり、ホテルや航空券の変動価格は当たり前、プロスポーツのチケットも需要で動く時代です。ただし、ここまでは「混む日は高い」という需要ベースの話。同じ日に買う人には、まだ同じルールが適用されています。

アメリカの騒動が突きつけているのは、その次のフェーズです。「混む日は高い」を受け入れた社会が、「あなたは急いでいるから高い」をどこで拒めるのか。
需要で変わる価格と、あなたで変わる価格。画面の中では、その2つはほとんど見分けがつきません。

考えてみれば、私たちはずっと、値札そのものを信じて買い物をしてきました。値札とは「全員に共通の約束」だったのです。同じ棚の前に立つ2人が、同じパンに同じ値段を払う。だから価格交渉もいらないし、「自分だけ高く買わされたのでは」と疑わなくて済む。定価とは、社会の信頼を支えるインフラでした。

問題は、価格が動くことではありません。なぜその値段なのかが、私たちに見えないことです。次にスマホで見るその価格は、本当に「みんなの値段」でしょうか。それとも、あなたの足元を見た「あなたの値段」でしょうか。そう疑い始めた私たちは、これからも値札を信じられるでしょうか。

【福原たまねぎ】
シアトル在住。外資系IT米国本社のシニアPM。ワシントン大学MBAメンター(キャリア・アドバイザー)。大学卒業後にベンチャー企業を経て2016年に外資系IT企業の日本支社に入社。2022年にアメリカ本社に転籍し現職。noteでは仕事術やキャリア論など記事を多数発表。初著書『世界の一流が休むためにやっていること』(朝日新聞出版)が発売中。X:@fukutamanegi
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