「別居したら、夫は“親切なご近所さん”になりました」
自ら設計した6帖のスモールハウスで夫と別居生活を始め、東京都・檜原村で暮らす内田恭代さん(58歳)。「もう離婚したい」と思うほどストレスフルだった夫婦関係は、別居を機に一変。
現在は円満な関係を維持できている。

だが、その飄々とした語り口からは想像もつかないほど、波乱万丈な人生を歩んできたらしい。思いもよらない裏切りを経験しながらも、たどり着いた“小さな家で豊かに暮らす”生き方とは――

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夫と別居して始めたスモールハウス生活

「自分で家を建てて夫と別居した」58歳女性の波乱万丈な歩み。一時は借金1億円を背負うも「不安はなかった」
弟さんの別荘として建てた家
――宮崎県で6帖のスモールハウスを建てて旦那様と別居されていたそうですが、その経緯を教えてください。

内田:長年インテリア職人として働き、天然素材にこだわった建築を追求しているうちに、伝統構法に辿り着きました。まず、弟の別荘を伝統構法で建てようと、できる限り自然素材の木材を使って造ったんです。でも当時の建築基準法には制約があって、なかなか納得のいくものができませんでした。

のちに10㎡以内の木造建築であれば建てられると知り、「それなら私専用の家を6帖で建てよう」と思いついたんです。3帖のリビングに3帖のロフトと台所。図面を描いて、材料を集めて、職人さんを探して……。工期はわずか2ヶ月。ようやく自分が納得できるスモールハウス「六帖軒(むじょうけん)」を完成させました。400万円のローンも私一人で完済しました。その後、隣に焚き火をするための小屋「二帖所」も造りました。


当時、夫と暮らしていた自宅から徒歩1分ほどの場所にある120坪の土地を親から譲り受けていました。隣には別に、弟の別荘として建てた100坪の土地もありました。その120坪の土地に6帖のスモールハウスを建て、私がそこへ引っ越したことで、当時は親から120坪の土地を譲り受けていて、その敷地には弟の別荘と、夫が暮らす母屋、私のスモールハウスが建っていました。私がその6帖の家へ引っ越したことで、夫との別居生活が始まったんです。

今は「楽しくてしょうがない」

――実際に別居生活を始めてみて、旦那様との関係はどう変わりましたか。

内田:もう、楽しくてしょうがない。一緒に暮らしていた頃は、「離婚したい」と思うくらい、しょっちゅうイライラしていたんです。夫は私より14歳年上で、鼻をすすったり、口をぺちゃぺちゃさせたりする音が気になって。

でも、別居すると夫が「親切なご近所さん」に変わるんですよ。たまに料理を作り過ぎたら分けてあげたり、ご飯を食べに来たりする程度の関係性に。夫も「一人は気楽で楽しい」と言っています。

息子2人とも社会人になって独立したんだから、私たち夫婦も独立しよう、と。私は夫に「達者でね」と言って、それまで住んでいた家を後にしました。
お互いにいっさい干渉しない暮らし。ストレスもなく、楽しいですよ。

「必死に働かなくても暮らせる」日常を満喫

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屋台を呼んで自宅でパーティーをした時の様子
――スモールハウスで暮らす魅力は何でしょうか。

内田:国民三大義務から解放された気分になる(笑)。家が小さいと、電気、ガス、水道が年間7万円で済みますし、近所の人たちが食べ物を持ってきてくれるから、必死に働かなくても暮らせる。笠地蔵みたいにね、朝起きるとテラスに野菜とかが置いてあるんですよ。

スペースが限られているので、ものの整理も進みます。洋服は半分捨てたけど、結局、まったく着ていない服ばかりだった。掃除機も邪魔で、ほうきと雑巾と抗菌剤があれば十分。掃除が楽になるだけで、こんなに自由な時間ができるんだって思いました。

リビングにキッチンとトイレ、シャワーと生活に必要な設備は一通り揃っているので、何不自由なく暮らせます。一人暮らしを始めてからは、全国から友だちが遊びに来るようになりました。夫がいると、みんな気を遣って来ないんですよ。
でも今は気兼ねなく集まれるので、庭に屋台を呼んで30人でパーティーをしたこともありました。

――もともとミニマリストだったのでしょうか。

内田:私がミニマリストになったのは、『スモールハウス』(ちくま文庫)という書籍に影響を受けたからです。本当の豊かさとは何か、経済とは何なのかを考えさせられました。将来の理想の生き方が見つけられるかもと思って、実際に3坪住宅を作って住んでみたら、人生観が180度変わったんです。ラクで楽しい人生になりました。

そもそも、伝統構法の自然の家は、空気清浄機や加湿器、除湿器が全部いらないんです。無垢の木材や土壁が呼吸してくれるから、家そのものが湿気を調節してくれる。住んでみて、その心地よさがわかりました。

体調不良を救った自然素材での家づくり

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自宅のリビングのカーテンもすべて内田さんが縫製
――どのようなきっかけで建築やインテリアの仕事をされるようになったのですか。

内田:私が幼い頃は、宮崎県ではまだ伝統構法で建てられた家が残っている時代で、その建築現場を見るのが大好きでした。たまたま親が家具屋、テント屋、カーテン、内装業を営んでいたので、高校を卒業してすぐ家業を手伝うようになりました。19歳で結婚して、19歳と20歳で息子を2人出産。
その後も親の仕事を手伝っていたんですが、親とは折り合いがつかなくて、一度辞めたんです。

自動車部品の組み立ての仕事をしていたのですが、地域の高齢化でカーテンの縫製工場が次々となくなっていって。そんな時、親から「あんたがカーテン縫製をすればいいのに」と言われたんです。

でも、親と一緒に仕事をするのは難しいと分かっていたので、30歳の頃に独立して、自分の会社を作り、カーテン縫製を始めました。

――現在は伝統構法による家づくりをライフワークにされていますが、その考え方はどのようにして生まれたのでしょうか。

内田:結婚後に体調を壊してしまいました。親が建てた新築の家に引っ越したら、高気密で隙間がないから暖房がよく効く。それが嬉しくて窓を締め切って暖房をガンガン入れていたら、皮膚病や生理不順、ずっと微熱が続くなど、次々と体調が悪化しました。

病院では膠原病と診断されました。でも、その頃ちょうどインテリアコーディネーターと建築士の資格を取るために勉強していたこともあって、「これは引っ越しによるシックハウス症候群じゃないか」と思うようになったんです。

そんな中、自然素材の建材を使う建築士さんと出会って、現場を手伝っていたら、足がピカピカになって、水虫まで治ってびっくりしました。真似をするように自宅のビニールクロスの壁に珪藻土を塗ってみたら、5年間患っていた鼻炎が3日で治った。
さらに合板フローリングの上にスギの無垢材を張ってみたところ、皮膚の湿疹も消えたんです。

当時、長男は毎晩鼻血を出していたし、よく風邪もひいていた。次男も耳鼻科通いでしたが、一気に良くなりました。「やっぱりシックハウス症候群だったんだな」と実感しました。

建築士の資格も取ったので、天然乾燥の杉を使った床材を使うようになると、口コミで徐々に広がっていきました。宮崎県で作るようになりました。それが話題になって、全国から問い合わせをいただくようになったんです。

そうやって天然素材の木材を使った家づくりを突き詰めていくと、やっぱり最後は伝統構法にたどり着くんですね。

「実家の家業継承」を巡る混乱を経て

――ご自身の会社は順調ながらも、実家で問題があったそうですね。

内田:はい。独立してから私の会社は順調でした。周囲に競合もない状況でしたから。

ただ、息子が大学を卒業するタイミングで、親が自分の会社の後継者がほしかったんでしょうね。
私の知らないところで、京都で就職していた息子に「社長になってほしいから、帰ってこい」と言って、無理やり宮崎へ呼び戻したんです。

でも、後を継いだ息子は親にいじめられて、会社を辞めました。跡取りがいなくなった親は、今度は弟を後継ぎにしようとしたんです。

――弟さんが後を継がれたのでしょうか。

内田:弟は高校時代からゲームセンターに入り浸って問題になったり、目覚まし時計を月週に5回も分解して壊したりするような、ちょっと変わった子でした(笑)。

その後ソニーに入社して、プレイステーション2の頭脳設計やブルーレイの開発をしていた人間ですから、家業を継ぐという選択肢はありませんでした。

弟に断られ、社長がいなくなったことで、結局、私が自分の会社を畳んで親の会社を継ぐことになったんです。

――順調だったご自身の会社を閉じてまで家業を継ぎ、社長になられたわけですね。実際に会社へ入ってみて、どんな印象でしたか。

内田:ちょっとガラの悪い雰囲気の会社だったんですよ。「この会社やばいな」と思いました。

「裁判を起こした方がいい」と言われたものの…

――そう感じたのは、具体的にどんなところだったのでしょうか。

内田:従業員が10名ぐらいいたのですが、そのうちの男性従業員と女性の事務員がつるんで、横領していたんです。帳簿を見たいと言っても、私には触らせてくれない。黙って税理士に会いに行ったりもしていました。

彼らが社長である私には内緒で、「俺たちが経営者になる」みたいな話を秘密裏に進めていたんでしょうね。私が社長になって2年が経った頃、親がその従業員たちに会社を売却したんです。私には何の相談もなく。

――会社を売却されたと知ったときは、どんなお気持ちでしたか。

内田:怒りが収まらなくて、荒れてしまいました。親の車のタイヤ4本にビスを刺してパンクさせたり、玄関の絵画を割ったり、花壇に油をまいたり。不良少女ですよ(笑)。

親とは縁を切ったつもりです。もう完全に音信不通です。周りからは「裁判を起こした方がいいんじゃないか」とも言われました。でも、辞めさせられた次の日から、ありがたいことに知り合いや昔からのお客さんが次々と仕事を依頼してくださったんです。裁判どころじゃありませんでした。とにかく仕事を終わらせたい、その一心でした。

借金1億円を背負うも、不安はなかった

――その後は、どのようなお仕事をされることになったのでしょうか。

内田:私がこんな辞めさせられ方をしたことを息子に話したら、「すぐ僕の会社を手伝って」と言ってくれたんです。息子は、親の会社を辞めた後、自分で小さな建設会社を立ち上げていました。

当時は、自宅と他の工場を間借りしながら細々とやっていたので、銀行から1億円を借りて、中古ビルを買って、会社をきちんと作り直しました。アパート経営も始めて、ありがたいことに会社は急成長しましたね。

――1億円という大きな借金に、不安はありませんでしたか。

内田:不安よりも、「やるしかない」という気持ちでした。会社を乗っ取られたときもそうなんですが、私は「災害に遭ったようなもの」と考えるんです。なくなったものは、もう仕方がない。ゼロからやり直せばいい。そう腹をくくると、不思議と周りが助けてくれるんですよ。

――失うことを前向きに受け止められるのは、なぜなのでしょうか。

内田:捨てると入ってくるものがいっぱいあるんですよ。会社を乗っ取られたことも、さっと諦めました。もう本当にゼロの状態からの再出発でしたけど、そうすると、いろんな人が助けてくれる。仕事も入ってくるんです。

だから私は、「捨てること」は悪いことじゃないと思っています。

「自分で家を建てて夫と別居した」58歳女性の波乱万丈な歩み。一時は借金1億円を背負うも「不安はなかった」
内田恭代
<取材・文/秋山志緒>

【秋山志緒】
大阪府出身。外資系金融機関で広報業務に従事した後に、フリーのライター・編集者として独立。マネー分野を得意としながらも、ライフやエンタメなど幅広く執筆中。ファイナンシャルプランナー(AFP)。X(旧Twitter):@COstyle
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