日本国内に外国人労働者や移住者が増えている昨今、逆に日本人が海外に移住するケースも少なくない。事情はさまざまで、起業や語学留学がよくある理由。
ほかにはその国が好きで引っ越したり、若い人の中には就職先がそもそも海外という場合もある。
 国によりけりだが、現地の人と結婚するパターンもあろう。欧米だと日本人女性、中国や韓国、東南アジアでは日本人男性と現地国籍の人との国際結婚が多いといわれる。

 渡航先としていまだ人気のタイも国際結婚を根拠に長期滞在・移住している人も少数派だがいる。婚姻したから移住という場合もあれば、今回紹介する諏訪部洋平さん(48歳)のように気に入ったタイに仕事を探しに来てから知りあって結婚するケースもある。

タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変...の画像はこちら >>
 諏訪部さんの場合、義実家がタイでもかなり珍しい家業だった。義父が革靴職人で、しかもタイ王国の国王に靴を献上した、ものすごい家だったのである。当然奥さんも革靴職人で、諏訪部さんは日本人向けにオーダーメイドの革靴注文を受ける営業担当となった。

再就職直前の滞在でタイの魅力を知る

 外務省が発表する「海外在留邦人数調査統計」(2025年10月1日時点)では7万2113人もいるタイでは、日本人長期滞在者の各「県人会」がある。その中では東京都民会はわりと最近の発足で、東京出身の諏訪部さんもまた都民会のひとつの幹事をしている(発足は任意なので都民会をはじめ、同じ地方自治体に複数県人会がある場合も)

 そんな諏訪部さんは大学の卒業旅行などでタイに来たことはあったものの、そのときはタイにさほど興味はなかった。

「大卒で玩具系のメーカーに就職しました。当時流行していた食玩やフィギュアを作るベンチャー企業です。ただ、2年くらいで倒産しました」

その後、タイに3か月ほど滞在した。
大学卒業旅行時は当時流行のバックパッカー・スタイルで安宿街のカオサン通りに泊まり、アユタヤやプーケットという王道の旅行をした。しかし、いい思い出が残念ながら少なかった。

「途中で熱を出しましてね。全体的にあまりいい思い出がなかったんですよ。プーケットでは友だちだけ泳いで、ボクはグターっとしちゃって」

海外旅行保険に入っていたので、病院もキャッシュレスで行けた。旅行保険自体、当時は高くなかった時代だ。メーカー倒産で再就職の時期もまだ航空券が安く、日本国内よりも安く海外旅行・滞在ができたので、諏訪部さんは再び訪タイ。そのときにタイのよさを感じ、長めに過ごした。

中国に目が向いていた20代後半

「4か月目になって、やっぱり就職しなきゃと日本に戻り、また玩具系メーカーに転職しました。そこから30歳まで7年くらいは働いていたんですけどね」

その企業では営業職だったが、小さな会社、家族経営だったこともあり「ちょっと先が見えちゃったんですよ」という。満員電車に毎日揺られ、役職に就いても大して給料が上がらないという悲観的未来が脳裏に浮かんでしまう。

「海外とやり取りするような仕事をしたいと漠然と思うようになりました。大学の第二外国語が中国語で、海外となにかするのなら中国語と思うようになりまして」

玩具メーカーの関連工場は当時だいたい中国にあったというのもある。
ベトナムやタイにもあったが、かつて勉強したことのある中国語をブラッシュアップしようと、30歳になる少しまえから独学をはじめた。中国語検定の級も取るほど本気で取り組んだが、ここでも限界があった。

「やはり言語は現地でやらなければならないと悟ったので、キリのいい30歳で留学を決め、大連(中国東北部)のほうで1年くらい勉強しました」

1年も学べば中国語を使った仕事に就けると思っていたものの、世界はリーマンショックの悪影響を受ける。2008年のことだ。もちろん中国も同様で、望んでいた職種は全部不景気。かといって日本に帰っても仕事もない。

「そんなときに日本人を募集していたのが、東北部にあるコールセンターでした。せっかく勉強したし、中国語を喋りたいというのもあったので、そこに就職しました」

 2000年代初頭は中国やタイに家電などのメーカーやサービス業のクレームや問い合わせを受ける日本人常駐のコールセンターが置かれた。ちゃんとビザも出るので、かつてはスキルはないけれど海外に住みたい日本人にとってちょうどいい仕事場でもあった。

 しかし、数年後、諏訪部さんにまた不運が襲う。今度は日本の東日本大震災が起こってしまったのだ。コールセンターに電話がかかってこなくなった。
結果、その職場は閉鎖になってしまう。

世間の潮流が諏訪部さんをタイに押し戻しはじめた

 コールセンター時代に諏訪部さんは「シンさん」という中国人男性と知りあっている。彼は大阪に留学した経験があり、日本語がペラペラだ。意気投合したものの、センター閉鎖。諏訪部さんはコネなどもなく失業となり、他方シンさんは中国人らしいバイタリティーで、閉鎖直前にさっさとそこを辞め、北京で仕事をみつけて引っ越していった。

 その後、諏訪部さんは留学時代の伝手で不動産関係の仕事に就くことができた。

「ところがアウトな会社で、給料がなかったんです、2か月くらい。同じく友人だった同僚ももらってなかったので、そこを離れました」

 諏訪部さんにはいつも不運しかないが、海外移住あるあるともいえる。こういった細かいトラブルはつきもの。いずれにしても、仕事がなければビザもない状態になるのは必然だ。

「でも、自分の中ですでに日本に帰る選択肢はなかったんです。それで北京でオンラインでホテルなどを予約できるサイトにて端末での顧客受付や電話受けの仕事をみつけまして」

 ここで5年弱くらい過ごすことになる。コールセンターで知りあった友人、シンさんも北京にいたのでしばらくは落ち着いた暮らしができた。
が、当然このままで終わらない。2012年の9月のこと。リーマンショックも9月なので、諏訪部さんのトラブルはだいたい9月に起こるようだ。

「東京都が尖閣諸島を購入するというニュースで中国国内で反日感情が危険な状態にまでなりました。会社からも市中では日本人同士であっても日本語を喋らないようにというお達しが出たくらいで」

 さすがに身の危険を感じた諏訪部さんは「もう中国では暮らせないかもしれない」と思うようになってきた。そうして、タイに移住する動きが諏訪部さんの中ではじまっていくのである。

いよいよタイに移住するも「日本人不要」と追いだされた

「旅行の予約サイトの仕事ですから、チケットを安く取ったりできたので、たまの休みにはタイとかによく遊びに来たんですよ」

 その関係もあって、同時に反日問題といった背景も考え、「ちょっと中国に一度見切りをつけて、タイに移住しようかな」という気持ちが出てくる。当然、その時点では仕事があるわけでもない。しかし、勢いで辞職しバンコクでタイ語学校に入って、2013年、移住生活がスタートした。

 とはいえ、ふんだんな移住資金があったわけでもない。そのため、バンコクにある人材派遣会社(タイでは派遣社員ではなく、企業へいわゆる現地採用という正社員候補を斡旋をする会社)を経由し、バンコク郊外にあるプラスチック成型の製品を造る会社に就職する。

「1年とちょっと働きましたが、そこと日本のクライアントがケンカしちゃったんですよね。日本からの仕事がなくなり、もう日本人いらないよ、みたいな」

 いつも自分の力のおよばないところで働き口がダメになっていく。
中国時代を含め、とことん不運の状態だが、ある意味では今現在の生活に入っていくための、運のいい流れだったともいえるかもしれない。タイ企業を追いだされたタイミングで、諏訪部さんの実父の病気が発覚。実家から帰ってきてほしいといわれていたところだった。

「父の病気がわかった段階ではガンがステージ4で、帰って2週間も経たないうちに亡くなりました。最期を看取れたので、運命に呼ばれたのかなっていうのもあります」

 葬儀のほか、いろいろな処理や手続きがあるわけで、諏訪部さんは「母ひとりではなにもできなかったでしょう」から実家で手伝いができたのはよかった。ただ、このためにタイになかなか戻れず、移住がいったんとん挫してしまう。結局1年くらい日本にいたとき、彼から連絡が来るのである。

「中国のシンさんからバンコクで会社を立ち上げたと連絡がありました。バンコク不動産の仲介業をしているので、北京で給料はもらえなかったものの不動産業に関わっていましたから、一緒にどうかって」

 ふたつ返事で諏訪部さんはタイに戻った。2018年のころだ。

工場の工員と思ったら、すごい職人の家だった

タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
年季が入った、これだけでオブジェになりそうな革製品向け現役ミシン
 もうおわかりかと思うが、次に諏訪部さんを襲ってくるのが新型コロナウイルスの世界的パンデミックである。

 しかし、すでに運気は変わっていたのかと思う。

 シンさんの仕事を手伝っている最中、移住したその年に知りあいの紹介で、のちに妻となるベンさんと出会った。


 そして、2年ほどでパンデミックとなり、東南アジア各国は物流以外はほぼ完全な鎖国状態に入る。パンデミック以前は中国の富裕層がバンコク不動産を買い漁っていたけれど、そもそも外国人が来ない状態になり、シンさんの仕事も休業状態になってしまった。シンさんはその後タイの文化や歴史を紹介する中国語圏で有名なYouTuberとなった。諏訪部さんはベンさんの実家の仕事を手伝うようになる。

「もちろん妻が靴の仕事をしていることは聞いてました。てっきり工業団地などの大きな製靴工場のライン工のようなものだと思ったんですよ」

 タイ語で職業を説明する際、製造している製品を作っているとだけいうことがよくある。たとえば冷蔵庫製造の経営者も工員も「冷蔵庫を造っています」というので、見た目でどっち側の人かを判断しがちだ。さらにベンさんが「父も母も妹も靴を作っている」といっていたので、諏訪部さんは「大変な家族だな」くらいにしか思っていなかった。

 しかし、ワニ革だ、牛革だ、ブーツだ、軍靴だという単語がよく出てくる。警察やタイ軍への納入もあるというので、諏訪部さんはますます混乱した。そうして2019年、諏訪部さんはベンさんの実家に足を運ぶ。バンコク郊外の、タイ湾に近いエリアである。

「初めて来たときにびっくりしましたよ。家族経営で、義父はもちろん、妻も義妹もゼロから革靴を作る職人でしたから」

義父は国王、タイ軍、タイ警察、県に認められた職人


タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
国王陛下も認めている革靴職人の義父
 義父は何十年も革靴職人一筋で、デザインから製靴まですべてこなせる。もともと企業つきのデザイナーだったのだが1985年に独立し、この『mexica』(メキシカ)を立ち上げた。当初の主要顧客はタイ警察とタイ陸軍だ。タイの制式軍靴を手がけていた。国のお墨付きであるわけだが、それだけではない。

「これを見てください。国王からの感謝状です」

 工房内の壁には軍や警察幹部との写真が飾ってある中、一番高いところには現国王陛下のお礼の手紙が飾られている。現国王ラマ10世王の皇太子時代、義父が革靴を献上し、それに対する手紙である。王国において国王が認めた靴職人のひとりが義父というわけだ。

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国王陛下からの手紙が飾られている(写真中央)
「初めてこの工房を見て、これでなにかできるのではないかと思っちゃいまして。そこからネット販売をやっていくようになりました」

 とにかく、mexicaにはすごい職人さんが揃い、タイではたくさんのファンもいて、元警察官や軍人はもちろん、映画の衣装用、芸能人の私服にとたくさんの実績がある。

 タイには『OTOP』(オートップ)という地域振興の制度がある。ワン・タンボン・ワン・プロダクトの略で、日本語でいう「一村一品運動」だ。県、郡などのほか、個人、法人など任意の単位で特産品・名産品を造り販売し、それを国が後押ししてくれる。イベント開催やアンテナショップの設置などをする地方自治体もあり、優秀製品や製造者には毎年賞が与えられる。mexicaもまた5つ星を得ているサムットプラカン県(バンコクの南側に隣接する県)を代表するショップになっている。

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仕上げを確認している義母。工房の奥で義妹も作業していた
 とはいえ、日本人にはまだあまり知られていないし、義実家は奥さんも含めて日本語は誰もできない。諏訪部さんは早速日本人向けに革靴の販売を手伝うようになった。その時点ではまだベンさんと交際している段階だ。諏訪部さんが結婚したのはコロナが落ち着いた数年まえである。

「2019年くらいからネット経由で日本語で注文を受けて、タイ国内の配達はもちろん、日本にも発送しています」

 とにかくすべてが手作りだ。さすがに靴底のソールは他社製品になるが、それ以外はすべてこの工房で、義父、ベンさん、義妹が手分けし、義母が仕上げの部分を分担する。基本的に休みはない。それでも1日3足完成すればいい。革靴職人には繁忙期もあって、mexicaでは10月から翌1月は特に注文が殺到する。それ以外であれば、受注から2か月くらいでできあがる。

「タイと日本では靴のサイズが微妙に異なります。日本はセンチ単位ですが、タイはニウという単位(インチとほぼ同義だが、タイ独特のサイズ)ですし、最初はそのあたりの調整が難しかったです」

 メーカーでのモノ作り経験はあるとはいえ、靴のネット販売は諏訪部さんも試行錯誤。当初はサイズが合わずに日本から返品される問題も起こった。タイ人の足もわりと幅広の人が多く、タイの製靴は日本人とも合うのは間違いないと諏訪部さんは確信している。バンコクの顧客の返品ならまだ挽回のチャンスはあるが、日本に住んでいる人からの返品は赤字でしかない。

タイ人妻と出会い、流れがだいぶ変わってきた

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ミシンを調整している妻のベンさん
「返品があると、いくら売り上げても利益にならないわけです。義実家の昔ながらのやり方を見ていたら、とにかく来てもらってサイズを測るんですよね。本当にシンプルなやり方ですけど合理的で、じゃあボクもそれを見習おうと、ネット販売であっても足のサイズ、足の甲の幅や高さなどお客さんにちゃんと測ってもらって受注しています」

 オーダーメイドなので、ベースとなる木型に革や厚紙を貼って微調整していく。そうしてオンラインでも返品トラブルがなくなっていき、徐々に利益も出るし、リピーターも増えてきた。そういったデータはすべて手書きの手帳、パソコン上に残してあり、リピーターはまたさらに細かい調整が利くようになっている。手帳もすでに何冊にもなった。何年もまえでもちゃんとデータを取りだすことが可能だ。

「今は靴以外にもカバンや財布など、革製品ならなんでもできます」

 フォーマルな革靴だけでなく、運動靴も可能だし、最近は日本人のリピーターに頼まれてゴルフシューズ、ドライバーのヘッドカバーなども特注で作った。

タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
運動靴も頑丈で軽いし、革製なのでよく足になじむ
タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
ゴルフシューズも手がけるようになった
タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
病院の入院患者用に機能性の高いサンダルもデザイン
 義父がとにかく職人なので、たとえば「こういうものがほしい」と写真をくれたら、それだけでデザインを起こして作ることができるのだ。最近はタイの有名ブランドから義父へ直々に女性用サンダルの修理と合わせて一部デザインを変更してほしい注文もあったほどである。

「最近は海外からは中華圏、アメリカ、ネット経由ではタイ在住欧米人の個人注文も増えています。YouTubeチャンネルなどでも取りあげてもらえ、工房はバンコクから車で40分はかかるのに、今では週に何人もの日本人がわざわざ訪れてくれ、革靴オーダーやカバンなどの注文もしていただいています」

タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
特注のゴルフ用品。ロゴの刺しゅうなども対応できる
 高級ブランドの模造は受けないが、主に牛革でできるものならなんでも注文どおりに作る。基本的にオーダーメイドなので在庫がないため、発送を待つランニングシューズを見せてもらった。鮮やかな青色で、軽いうえに頑丈でなかなかいい。しかも、オーダーメイドなのに安い。

タイで現地女性と結婚した48歳日本人男性。失業続きの人生を変えた“妻の実家の家業”
アウトソールもさまざまなパターンがある
 革職人はさすがのタイでもそう多くない。すべての工程をひとりでできる職人はなお少ないうえに、国王陛下にも認められたとなればもっといない。そんな義実家に縁ができた諏訪部さん。

 日本ではいい就職先に恵まれず、中国では不運続き。しかし、タイに来て奥さんと知りあったことで流れが変わった。義実家のおかげで生活が落ち着いてきたのである。こういうレアな国際結婚のパターンもあるのだ。

<取材・文・撮影/髙田胤臣>

【髙田胤臣】
髙田胤臣(たかだたねおみ)。タイ在住ライター。初訪タイ98年、移住2002年9月~。著書に彩図社「裏の歩き方」シリーズ、晶文社「亜細亜熱帯怪談」「タイ飯、沼」、光文社新書「だからタイはおもしろい」などのほか、電子書籍をAmazon kindleより自己出版。YouTube「バンコク・シーンsince1998│髙田胤臣」でも動画を公開中
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