都心部を中心に、バブルとも表現したくなるほどの不動産市場が過熱し、住まいを購入する選択肢のハードルは上がるばかり。一方各地で処分に困る「空き家問題」や「実家問題」が深刻化しています。
東京郊外の団地に誕生した、とことん非日常な白昼夢的空間
東京のターミナル駅から電車に乗って30分ほど。到着したのは、生活に欠かせないショップと、ちょっとワクワクするような飲食店などがほどよく集まる、大きすぎも小さすぎもしない郊外の駅です。休日の午後をのんびりと過ごす老若男女が行き交っています。
各地に存在していそうな懐かしい雰囲気の団地(写真撮影/相馬ミナ)
駅から歩いて10分足らず。見えてきたのは、どこか懐かしい佇まいの団地。ゆったりとした敷地で周囲には緑豊かな樹木が。だれもが見覚えのありそうな、郊外の穏やかな原風景。しかし、エレベーターを上り、その1戸の扉を開いたら、広がっていたのは完全に「非日常」な空間でした。
玄関から廊下、リビング方向を見たところ。モザイクタイルの土間がかわいい(写真撮影/相馬ミナ)
素材がシームレスにつながるので、モノトーンながらのっぺりした印象にはならない(写真撮影/相馬ミナ)
「ホテルライクでスタイリッシュ――」
マンションの販売広告などでよく目にする表現ですが、それとは一線を画する雰囲気。とにかく、先ほどまで見ていた駅まわりのにぎわいや、団地のレトロな景観を記憶から一瞬で消し去っていきました。
「蜃気楼のような見え方、境界の曖昧さを意識してデザインを考えました。この空間に暮らしていること自体が、まるで白昼夢になるイメージです」。そう話すのは、この住まいの施主であり、設計を手がけた川内聡士(かわち・さとし)さん。27歳。建築設計事務所に勤める会社員です。実は、団地の一戸であるこの住まい。もともとは、川内さんの祖母が暮らしていました。すでに売却が決まっていますが、川内さん自身も数カ月前までここに暮らしていました。つまり、祖母の家を、孫の川内さんが引き継いで、自身の設計でリノベーションして暮らしていたのです。
「普段は、学校や庁舎など、公共の建築物の設計に携わっているので、個人住宅は畑違い。
社会人になって数年。日々の仕事とはまったく違う、個人宅の設計に取り組んでみたい。そんな思いからスタートしたリノベーション。日々の業務とは、規模も手法も違いますが、施主は自分です。妥協を強いられるクライアントはいません。建築家として、住み手として試してみたいアイディアをすべて詰め込み、自らの理想の空間をつくり上げたというわけなのです。
■川内さんのおうちDATA
住所 神奈川県川崎市
築年 約50年
間取り 2LDK(元は3DK)
面積 約57平米
リフォーム完了年 2024年
工事費 1500万円
世帯構成 本人(ひとり暮らし)
設計 本人(設計費はゼロ)
リノベーション前の様子。和室と洋室が南側に並ぶ、昔ながらの田の字型の間取り(画像提供/川内聡士)
間取り図Before→After(画像提供/川内聡士)
25歳の独身男性が、思い出の祖母の団地を買い取った理由
川内さんの祖母は、夫(つまり川内さんの祖父)が亡くなり、ひとり暮らしになった際に一軒家を売却。娘家族の家のそばにあるこの住まいに引越してきたんだそう。
「僕が小学6年生のときのことです。祖母はこの団地の明るさ、駅からの近さ、そしてなにより、のどかさがいいと気に入っていました。家が近かったのもあり、僕もよく遊びに来ていた思い出の場所です」と話す川内さん。
敷地内外に樹木が多いのは、古き良き団地の長所(写真撮影/相馬ミナ)
時を経て祖母がひとり暮らしに不安を感じるようになってからは、しばらく空き家状態に。
この抜けのある眺望は将来的に確保される(写真撮影/相馬ミナ)
購入の決め手になったのは6階からの眺望。向かい側は公園で、その先は高い建物が建てられない第一種低層住居専用地域。この先も見晴らしはずっと確保されています。もちろん、祖母の思い出も大きいですし、自分ひとりの設計で空間をつくり上げてみたかったというのも強い動機になりました」
相続ではなく、正式に祖母から買い取る形を選択。物件購入費は住宅ローンで、リノベーション費用は融資でまかないました。親族間売買で住宅ローンを組む手続きは大変だったと川内さんは振り返ります。
とはいえ、そのかいは大いにありました。当時の川内さんは、20平米の1Kにひとり暮らし。ローン返済額に管理費・修繕積立金を合わせても、月々の支払い合計は、その家賃プラス数万円。少ない負担増で、3倍近い広さと、理想を追求したクオリティの高い住まいを手に入れたのです。
パイプスペースや冷媒管を逃すためにつくった段差はものを置くスペースに(写真撮影/相馬ミナ)
自分のための空間だから、とことん妥協なしでこだわり抜く
川内さん宅に入って、まず“ハッ”とするのは、独特の色トーン。白壁のようでいて、ほんのり青みがかったニュアンスがあります。青系の白と聞くと、寒々しくなりそうなところ、ぎりぎりのラインでリラックスできる色合い。ビニールクロスではなく、ペンキ塗装をした壁だということも、空間に奥行きと豊かな表情を生み出している理由でしょう。
質感にこだわった仕上げのおかげで、空間が特別な空気をまとう(写真撮影/相馬ミナ)
キッチン側の壁に採用したのは、オーストラリアの塗料ブランド「ヘイムスペイント」。色味のよさだけでなく、左官で仕上げたかのような凹凸を感じるテクスチャーで、見る角度によってもニュアンスが変わり、上質な雰囲気になっています。さらに腰壁は全面タイルを採用したというこだわりぶり。
自然なムラや凹凸が味わいを生む(写真撮影/相馬ミナ)
床材に選んだのは、グレー系の「マーモリウム(リノリウム)」。塩ビなどの合成樹脂とは異なり、天然由来の原料からつくられる素材です。高い耐久性や環境負荷の少なさに加え、抗菌・抗ウイルス性能の高さから医療・教育施設で重宝されています。素材自体が高価で施工の難易度も高いため、価格面で導入のハードルは上がりますが、「さらさらとした肌触りで、ビニール床よりも暖かいんです」と川内さんは語ります。
アーチ状の開口部の奥が、川内さんが寝室として使っていた洋室(写真撮影/相馬ミナ)
曲線の壁は視線を奥へと広げ、光を拡散させる効果も期待できる(写真撮影/相馬ミナ)
こだわりは素材選びにとどまりません。
玄関を出ると外廊下からも豊かな木々が目に入り、出かけるときも気持ちいい(写真撮影/相馬ミナ)
ヴィジュアルの美しさだけでなく、間取りの使いやすさ、コストを押し上げてしまいがちな壁や床の質感までも諦めなかったおかげで、川内さんにとっての理想的な住まいになりました。リノベーションにしっかり予算をかけたことの成果でもあります。
初めての住宅設計にあたり、先輩建築家の内覧会やメーカーのショールームに足を運ぶなど、事前の勉強に力を入れたという川内さん。「ヘイムスペイントは講習を受けて自分で塗りましたし、寝室の壁の一部はあえて構造壁をそのまま残してラフな仕上げにしています。また扉をなくし、カーテンでゆるく仕切ったことで、結果的にその部分がコストカットに貢献しています」
予算を削るための苦肉の策というよりは、「なにが自分にとってよりよいか」を突き詰めた選択からの結果。インナーサッシに関しては、国の補助金制度も賢く活用しています。
自分が住むための家であり、日々のQOLを上げるためのリノベーション。大きな妥協はなかったようです。
造作洗面台。
ちょっと腕試しのつもりが、とんとん拍子にリセール成立
「リノベーション後は、友だちがよく集まってくれるようになりました。リビングの壁にプロジェクターで映像を映せるのでキッチンから観ながらみんなで料理をして、食卓を囲む機会が増えました。年越しもここでワイワイと過ごし、そのまま海まで初日の出を見に行ったこともありました」
ここに立って作業をしているときも、リビングの壁に映した映像を鑑賞できる(写真撮影/相馬ミナ)
飛躍的に暮らしの質が上がった川内さんの日常。スタイリッシュな空間での快適な暮らしです。とはいえ、まだまだ20代。最初から、終のすみかにしようと思っていたわけではありません。自分の心地よさのためにこだわり満載で全力投球でつくった住まいではあるものの、ライフステージに合わせた「リセール(再販)」は最初から織り込み済みでした。
ウォークインクロゼット兼書斎として使っていた洋室(間取り図内の洋室1)(写真撮影/相馬ミナ)
ファミリー層が多い立地ということもあり、子ども部屋もつくれることも考慮したうえで、間取りを計画していました。不動産広告上で『2LDK』と表記できるよう、建築基準法に基づく採光の条件もクリアさせています」
玄関土間を広く取ったのは、若いファミリーならベビーカー置き場が必要だろうと考えたから。川内さんがウォークインクロゼット兼書斎として使っていた洋室(間取り図の洋室1) は、シングルベッドを配置できるサイズを確保しているため、子ども部屋としてしっかり機能します。
あくまでも、単身の川内さんの暮らしに最適化させつつも、リセール時のアピールポイントもあらかじめ設計に取り入れたというわけです。
廊下に設けた、収納付きニッチ(写真撮影/相馬ミナ)
「1年半暮らしたところで、自分の設計がどう市場で評価されるのか、ちょっと『腕試し』がしたくなって。急いで売る必要はなかったので、自分としては強気な価格設定で不動産市場に出してみたんです」と川内さん。
リビング。ローテーブルの奥にはソファも置いていた。現状残っている家具は、すべて次の住み手に受け継ぐ(写真撮影/相馬ミナ)
すると、とんとん拍子で話が進行。購入希望者が複数になるほど反響があり、設定した価格のまま、値下げ交渉に応じることもなく、あっという間に売却が決まりました。
内見に訪れた人々の多くは、もともとこのエリアを検討対象にしていなかったと言います。希望価格帯で目にした魅力的なデザインと快適そうな間取りに惹かれて、想定外のエリアに足を踏み入れたということ。つまり、まったく候補になっていなかった地域へ、人を引き寄せる物件になっていたのです。
実家の思い切ったリノベは、売り手&買い手双方にメリットある解決策となった
川内さんは現在27歳。次のリノベーションもこだわりながら、楽しんで進行中(写真撮影/相馬ミナ)
「リセールのことばかりを意識すると、内装も間取りもシンプルで、ありきたりなものになっていってしまいがちです。今回は僕が住むことを第一優先にリノベーションしたのが、よい結果につながったんだと思います」と、川内さんは今回の売却を振り返ります。
「こだわりの物件に住みたい」と願う買い手がいても、限られた時間の中で知識を蓄え、ゼロからリノベーションを決行するのは、簡単なことではありません。一方で、不動産売買の事業者が販売するリノベーション済み物件は、万人に好まれる無難なデザインにまとまりがちで、ありきたりなものがほとんど。エリアや予算のハードルを乗り越えてまで住みたい!と思わせてくれる物件は、滅多に出合えないのが現実です。
洋室の奥は、あえて仕上げ壁を貼らず、構造壁を現しにしてラフに仕上げた(写真撮影/相馬ミナ)
そこに、個性が光るオンリーワンの物件が市場に投入されれば、「自分でのリノベーションは大変だが、こだわりのある空間に住みたい」という買い手の心をがっつり掴むことができます。オンリーワンな物件をつくることは、確実な売買をコンスタントに続ける必要がある事業者にとってはリスクを伴います。
外廊下から下を眺めると、ここにも緑が(写真撮影/相馬ミナ)
でも、「まずは住み手が自分のためにリノベーションをして満足して暮らす。そのうえでさらなるステップとしてリセールを考える」。このプロセスなら、自分のリノベーションに共感してくれる、たったの一組の買い手に出会えればいいのです。
(写真撮影/相馬ミナ)
売却が決まり、川内さんは次なる住まいをリノベーション中だそう。狭くはなりますが、より都心に引っ越しをすることが決まっています。今回の経験を糧にして、次は、あこがれの街へとステップアップというわけなのです。
築50年近い団地。郊外という立地。一人暮らしには広く、ファミリーにはやや狭いという約57平米という生活のイメージがしずらい中途半端なサイズ感の物件を、川内さんは見事に次世代へとつなぐ価値ある物件として再生させました。
実家(祖母の家)という既存の資産は、アプローチ次第で、すばらしい価値を生み出す宝になる。そんなことを証明してくれる事例です。
●取材協力
川内聡士さん

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