三本線の誇り~名門・市岡高校野球部が受け継ぐ伝統と挑戦(後編)
1994、95年の市岡は強かった。
「秋、春、夏とすべての大会で決勝まで勝ち進んだ府立校は、過去になかったんとちゃいますかね」
そう語るのは、当時、市岡のエースでクリーンアップを担った井上雅文さん(現・浪速高校監督)だ。
【PLと死闘を繰り広げた伝説のエース】
「2年秋の大会では、準決勝で、のちに楽天の監督を務めた三木(肇)さんがいた上宮と当たるはずでした。上宮は最強と言われていたんですが、その上宮が浪速に負けたんです。うちは浪速に勝って、PLとの決勝になりました。ところが、4対14の完敗でした。あのショックはよく覚えています。力の差を見せつけられて、準優勝の喜びよりも『これじゃ、あかんな』という思いのほうが強かった。4番の福留(孝介)はとにかくすごかったし、1、2番の選手でもすごい打球を飛ばす。『なんじゃこりゃ』と思いましたね」
それでも近畿大会で1勝を挙げ、PL学園とともに8年ぶりの選抜大会出場を決めた。秋以降は「PLを倒す」ことだけを目標に、猛練習を積んだ。選抜後の春季大会では準決勝でPL学園を破ると、決勝では大阪桐蔭も下し、大阪の頂点に立った。
そして夏、決勝でPLと雌雄を決することになった。
「春は僕が先発ではなくリリーフで勝ったので、『そのパターンでいこう』ということになりました。
55年ぶりの夏の甲子園出場は果たせなかった。卒業後は立命館大へ進学し、打者として活躍。その後はアメリカのトライアウトに挑戦したり、日本の社会人クラブチームでプレー。26歳の時には横浜ベイスターズ(現・DeNA)の入団テストも受けた。「獲ってもいいが、二軍どまりかな」と言われ、将来を見つめ直した。
父も兄も教員で高校野球の指導者だったこともあり、大学に戻って教職課程を履修。28歳で浪速高校の教員となった。
野球に携わることへ強いこだわりがあったわけではなかった。社会科の教員として教壇に立つ一方、30代で数年間、部長として野球部に関わった。その後は入試広報を担当し、生徒募集に奔走した。
野球部を離れていた期間は長かったが、2024年に監督だった遠山奬志さん(元阪神など)が他校へ転任したことで、急遽、井上さんが監督としてチームを率いることになった。
【心を動かされた部員9人の全力疾走】
大阪は大阪桐蔭、履正社を筆頭に私立の強豪がしのぎを削る。公立校は、夏は1990年の渋谷、春は1995年の市岡を最後に、甲子園から遠ざかっている。そして今年の市岡のエースは、井上智文という。井上さんの長男だ。31年前の父と同じ背番号1を背負う。
「家には父が甲子園(選抜の日南学園戦)で打ったホームランボールが飾ってありました。でも、小さい頃は野球にそれほど興味がなかったんです」
父は息子に野球を勧めることもなく、幼い頃は親子でキャッチボールをすることもほとんどなかったと、父と息子は口を揃える。
「家で絵を描いたり、プラレールで遊んだりしていました。休みの日は『電車に連れて行って』と言って、あちこちへ電車を見に行っていました」
そんな智文が小学4、5年生の頃、父が臨時で短期間、浪速高校野球部の監督を務めた。
「『野球を教えられるんや』と思ったんでしょうね。そしたら家で壁当てを始めるようになって、『中学になったら野球をやりたい』と言うようになったんです」
中学では軟式野球部に入り、ポジションは投手。それまでほとんどなかった親子のキャッチボールも、この頃から日常の光景になった。
高校でも野球を続けると決めた息子に対し、父は「自分の好きなところへ行けばいい」と進路は本人に任せていた。一方の智文も、「父が市岡で活躍していたことは知っていましたが、是が非でも後輩になろうという気持ちはなかった」という。
公立の4校を進学候補に挙げ、それぞれの部活動体験にも参加していた頃のことだった。
「市岡と、私の兄が監督をしていた槻の木高校の試合に、おじいちゃんが息子を連れて行ったんです。その時、市岡は部員9人で戦っていました。それでも、選手たちが全力疾走する姿を見て、心を打たれたようなんです。帰ってきて、『市岡で野球がやりたい』と言うので、『ほんなら、やりや』と」
【順風満帆だった親子に訪れた試練】
智文は勉強に励み、市岡への進学を果たした。こうして父の後輩となり、1年夏からベンチ入り。昨夏は背番号1を背負い、大阪大会のマウンドに立った。初戦の追手門学院戦では先発して勝利投手となる。じつは、父も1年生の初登板は追手門学院戦だった。不思議な縁である。
4回戦では、その後優勝を果たす東大阪大柏原と対戦。
「夏の大会前くらいから、智文が『ヒジが痛い』と言うようになったんです。でも、エースやし、『痛いなんて言うな』と。8月に徳島遠征から帰ってきて、『ヒジが痛いから病院へ連れて行って』と言うので診てもらったら、靱帯を損傷していました。先生からは『だいぶ前に切れていますね』と言われて。違和感があると言い始めた頃には、もうおかしかったんだと思います。
投げ方は僕よりずっときれいで、ヒジや肩は痛めることはないやろうと思っていました。東大阪大柏原戦も見に行きましたが、後半にボールが浮いていたのは、それが原因だったんですね。本人も『投げるたびに、ちぎれていく感じがする』と言っていました。本当にかわいそうでした。
病院では『トミー・ジョン手術しかない』と言われました。でも、手術をすれば完治まで1年以上かかり、その間は野手としても試合に出られなくなる。そこで温存療法を選び、『春頃から投げ始めて、夏には1、2イニングでも投げられるようになれればいい』という方針にしました。本人も『それで頑張る』と言っています。大学でも野球を続けるために、手術は高校3年の夏が終わってから受けると決めました」
【父子対決は実現するのか】
いよいよ、市岡の夏が始まる。智文はゴールデンウイーク明けから練習試合で少しずつイニングを増やしていった。
智文は、父も背負った市岡の伝統をどう感じ、どうつないでいくのか。
「日々の練習にはOBの方々が来てくださいます。本当にありがたいことです。三本線の帽子も昔から変わらない。皆勤校という伝統が受け継がれ、その歴史のうえに今の僕たちがいるんだと強く感じます。
市岡の野球は、昔から全力疾走、全力発声を実践してきました。
雅文さんも「あの頃の自分たちにはプライドがあった」と振り返る。
「能力だけで言えば、それほど高かったわけではないと思うんです。でも、野球に向き合う姿勢は貪欲でした。河合先生は技術的な指導をあまりされませんでしたが、その分、自分たちで公園に集まって、遅くまで自主練習をしていました。
皆勤校として周囲から見られているという意識もありましたし、市岡へ行って本当によかったと思っています。息子も、市岡を選んでよかったと思っているはずです。今、自分が歩んでいる道がベストだと思いますし、自分で行きたい学校を選んだことは間違いではなかったと思います」
父と子は今年3月、練習試合で対戦したという。そして、この夏の大阪大会では、真剣勝負の舞台で相まみえる可能性もある。
じつは雅文さんも現役時代、父が監督を務めていた高校と対戦した経験がある。その際、市岡の河合監督は雅文さんを先発させなかったという。そんな経験があるからこそ、雅文さんは、「複雑ですよね」と苦笑いを浮かべる。
「勝っても負けても、嫌ですね。智文はカーブが独特で打ちにくい。うち(浪速)の選手が、手を焼きそうで(笑)」
はたして父子鷹の夏は、どんな結末を迎えるのか。










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