野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・高木豊(後編)

前編:「走らないなら使わない」 高木豊が明かす近藤貞雄の"鬼采配"はこちら>>

 1番・高木豊、2番・加藤博一、3番・屋鋪要──。横浜大洋(現・DeNA)監督の近藤貞雄は、この俊足3人を「高性能な3台のスポーツカー」と命名した。

1985年シーズン開幕間もない頃。スピードを前面に押し出そうと3人を"ノーサイン"で走らせ、走らないと怒り、時には「使わないぞ」とまで言い放った。当時の状況は、どうだったのか。前年に56個で盗塁王の高木に聞く。

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【盗塁って、疲れるんです】

「もうヘトヘトですよ。常に走らなきゃいけないっていうのは。バッターボックスで集中して、走者としても集中しなきゃいけない。もちろんみんな集中しているんでしょうけど......とくに、塁に出たら集中しなきゃいけない立場にあったので、試合が終わったらヘトヘトになっていました。盗塁って、疲れるんです」

 球場に足を運んだファンは、選手の疲労までは想像していない。初回の攻撃で3人の足で点が入れば、横浜スタジアムは俄然、盛り上がった。注目されるなか、近藤が3人を「スポーツカートリオ」と呼び始めると、マスコミが「スーパーカートリオ」と呼び替え、その名が広まった。もっとも、選手には相当なプレッシャーだった。

「『うまくスタート切れないな』と思ってベンチを見たら、近藤さんが顎で『行け行け』みたいな動きして。

だから、顎で使われてましたよ(笑)。だけど、走って、アウトになっても、怒られることはなかった。最初に『アウトになってもいいから走れ』って言われていたし。そのあたり、近藤さんは徹底していましたよね」

 極端とも言える近藤の方針で機動力が増し、打線の長打力不足をカバー。得点力が向上し、前年最下位のチームは前半62試合を終えて28勝29敗5分と健闘していた。当然、足を使うためには塁に出ることが前提であり、その時点で好打者の高木は打率.343、加藤は.312、屋鋪は.270。この中でプロ16年目のベテラン、加藤はどんな存在だったのか。

「加藤さんはうまくつないでくれました。僕が走る時もアシストしてくれて、キャッチャーが投げにくいような動きをしたり、走るまで待ってくれたり。僕が出た時にバントもありましたけど、どうしても先取点がほしい時ぐらいで、加藤さんも打って、出て、走っていたので。3人の中で真ん中に入っているパイプ役として、いい働きをしてくれたと、感謝しています」

【信念を貫いたレオン放出劇】

 この年の加藤はリーグ最多の39犠打を記録した一方で、大洋のチーム犠打数は116でリーグ3位。141犠打で1位の阪神に比べれば少なかった。その阪神はリーグ断トツの219本塁打が奏功して優勝した。

反面、大洋は最少の132本。当時の横浜スタジアムは最も広く、フェンスも高く、本塁打が出にくい球場だった。ゆえに近藤は機動力を武器にした「トリオ」を形成した。とはいえ、長打力不足は最後まで埋まらなかった。

「足を使っていくという、近藤さんの考え方は正しかったと思いますよ。当然、僕らが塁に出たら警戒されて、牽制も多かったですけど、相手はとにかくフォアボールで出すのを嫌がってましたね。打たれるのは仕方がないと、どんどん勝負にきて。だから打ちやすかったといえば打ちやすかった。ただ、もう少しホームランバッターがいてくれると楽でしたね」

 最終的に高木は打率.318、出塁率.416で42盗塁。加藤は打率.280、出塁率.350で48盗塁。そして屋鋪は打率.304、出塁率.366で前年4本塁打が15本と激増し、58盗塁。「3人で120個」という近藤の期待を超え、148個。

チームでは188盗塁でリーグ1位となり、機動力が売りの広島より10個多く、得点は前年比で105点増えた。しかし"投手力不足"で失点も増え、4位に終わった。

「頭数はいましたけど、巨人のピッチャーと比べると球速が10キロぐらい違いました。それを僕らが打っていって、向こうは10キロぐらい遅い人たちを打つんだから、ちょっとハンデあるよなって感じていましたね。広島のピッチャーも速かったし。遠藤(一彦)さんぐらい速い人が3~4人いてくれたら全然違ったと思いますけど......。辛かったですね、バッターとしたら」

 投打のバランスは悪くとも、スーパーカートリオで"走る野球"が定着。「これからはスピードの野球だ」という信念のもと、1985年オフ、近藤は4番のレオン・リーを放出した。決して不振ではなく、同年は打率.303、チームトップの31本塁打、110打点。それだけに評論家に叩かれたが、近藤はレオンに関して、元来の併殺打の多さ、犠飛の少なさなどを理由に挙げた。

「近藤さんは『レオンは勝負弱かった』とか言ってました。で、レオンはヤクルトに移りました。

敵として対戦した時にね、近藤さん、レオンを敬遠したんです。大事な場面で勝負を避けたんで、『なんだ、言ってることとやってることが違うじゃないか』っていう批判も浴びてましたよ。ただ、そういうところも含めて面白いんです。本当に面白い監督でした」

【みんなを生き生きさせた名将】

 翌86年、スーパーカートリオに加え、新外国人のカルロス・ポンセ、ダグ・ローマンが4番、5番で活躍。4月、5月を勝ち越すと<いま、近藤大洋が面白い>とマスコミを通してもてはやされ、巨人、広島との首位争いも見えていた。その采配は"近藤魔術"と言われ、"ハマのマジシャン"とも呼ばれた。だが、6月半ばから7月にかけて13連敗を喫したなか、ベテランの田代富雄が左手首骨折してしまう。

 7連敗でスタートした後半戦には、好調だった加藤も離脱。投手陣では抑えの斉藤明夫が最優秀救援投手のタイトルを獲得するも、先発の駒不足が響いて前年と変わらず4位。シーズン中の10月8日、広島で優勝4度の実績がある古葉竹識への監督交代が発表された。近藤の2年契約は更新されなかった。

「チームは弱かったけど、近藤さんの時代は野球をやっていて充実感があって、楽しかったですよ。

やっぱり足という売りがあるし、その責任も与えられました。チームを勝たすための責任ですね。それに"ツープラトン"と言って、ベンチで遊んでる人がいなくなった。みんなが役割を与えられて、生き生きしてましたから」

"ツープラトン"とは、近藤が中日時代に発案した"アメリカンフットボール方式"を言い換えた戦法だ。すなわち、攻撃型のオーダーで試合に入り、自軍がリードしたら終盤は守備型の選手に入れ替え、抑え投手で逃げ切る。1985年は内野では村岡耕一、外野では河野誉彦が近藤に登用され、主に守備固めで一気に出番を増やした。

「固定メンバーで戦って、『今日も出なかった、明日も出ないだろう』みたいなことが続くと、控えの選手はやる気につながらないですよね。そこで近藤さんが『ツープラトンだ』と言って、守り専門の選手でも、試合に勝っていると『オレの出番だ』と、出ていく瞬間がわかって、いい準備ができる。だから、あの時の大洋は選手全員が責任を持ってプレーしていましたよ」

 投手分業制も、ツープラトンも、今の時代では当たり前の戦法である。しかし、当たり前ではなかった時代に近藤は率先して導入し、大洋では選手の意識を好転させた。少なくとも、チームの中心選手である高木はそう感じていた。晩年の1994年には日本ハムへ移籍した高木は、通算で14年間プレーし、仕えた監督は9人。

そのなかで近藤はどういう存在になるのだろうか。

「名将のひとりだと思いますよ。なぜかというと、みんなを生き生きさせたということで。古葉さんも広島では名将だったでしょうけど、カープを優勝させた時のような愛情は、たぶん横浜には持てなかったと思います。熱さがなかったというか。その点、近藤さんは常に熱い人でもありました」

 熱さのあまり、中日時代は選手をけなす監督でもあり、主力選手からは嫌われてもいた。「名将のひとり」と評される大洋時代はまた、違ったのか。

「いやぁ、けなしっぱなしでしたけど、けなし方が面白かったですからね。"瞬間湯沸かし器"も、まさに瞬間で後腐れがない。今の時代だとコンプライアンスに引っかかるでしょうけど、近藤貞雄監督も、その野球も、僕は成立すると思います。選手に対する愛情があって、戦っている時は選手を守ってくれる監督でしたから」

(文中敬称略)

高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

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