福井県勝山市の発坂(ほっさか)駅は単線区間の交換駅、つまり対向する電車と行き違うために設けられた駅である。2001年6月24日、定刻より少し早くこの駅に到着した上り電車は、対向の下り急行電車を待ち、すれ違ってから出発するはずだった。
ところがこの電車は、下り急行電車が来る前に、駅を出発してしまった――。
運転士の頭からは、発坂駅で対向電車と行き違うという段取りが抜け落ちていた。駅の出発信号も当然「赤」を示していたはずだが、運転士はそれも見落としていた。
信号無視で発車した電車は、約520メートル走り、右カーブを抜けた地点で、対向してきた下り急行電車と正面衝突した。両車両の前面は大破。重傷者4名、軽傷者21名。重傷者の中には、上り電車の運転士も含まれていた。
なぜこんなことが起きてしまったのか。本記事では、この事故の背景を遡りながら、日本の鉄道安全がたどってきた歴史と、この事故が持った特別な意味について考えてみたい。(島崎敢・近畿大学教授(安全心理学))

人間の注意力で守られていた地方の鉄道

鉄道には、運転士が万一赤信号を見落としても列車を強制的に止める自動列車停止装置(ATS)というシステムが使われている。
レールの間に置かれた発信機(地上子)と、車両の床下に取り付けられたセンサー(車上子)が連動し、赤信号の時に列車が地上子の上を通過すると、強制ブレーキがかかる仕組みだ。
1927年、東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)の上野—浅草間が開業したとき、日本ではじめてATSが導入された。今から100年近くも前である。

当時は打子(うちこ)式と呼ばれる素朴な機械式の装置で、信号が赤のとき線路脇の打子と呼ばれる金属の棒が立ち上がり、打子が列車の床下から出ているレバーをはじくと、自動的にブレーキ制御用の空気圧が抜けてブレーキがかかった。
電気もコンピューターも使わない、純粋に機械の動きで実現されたフェイルセーフである(打子式ATSは東京江戸川区の地下鉄博物館で実物を見ることができる)。
ただしこれが導入できたのは、銀座線が地下を走り、車両の規格が完全に揃っており、しかも開業時点での新規設備として一気に整備できたからだった。地上を走り、雨や雪にさらされ、多種多様な車両が走る国鉄や私鉄では、当時の技術ではなかなか同じ仕組みは使えなかった。
そして1941年、日本は太平洋戦争に突入する。戦中から戦後にかけて、国の予算は戦争遂行とその敗戦処理に使い尽くされた。戦後の日本は、焼け野原を再建することに精一杯で、鉄道に高度な安全装置を入れられる経済状況ではなかった。欧米ではこの間にATSの整備が着実に進んでいたが、日本は遅れを取っていた。
その代わりに日本の鉄道が選んだのは、運転士・車掌・駅員といった現場の人間が、徹底した確認と注意力によって安全を守るというコストのかからない方法だった。
指差喚呼に代表される一連の安全文化はその時代に磨き上げられたものであり、それ自体は今も日本の産業安全を支える重要な技術である。だが「人間の注意力で安全を守る」という方針は、人間がエラーをする存在である限り、一定確率で破綻する性質のものだった。

三河島事故という転換点

その破綻が、誰の目にも明らかな形で起きたのが1962年5月3日夜の三河島事故である。
常磐線三河島駅構内で、貨物列車の運転士が赤信号を見落とし、安全側線(※)に突っ込んで脱線。
脱線した車両が本線をふさぎ、そこに後続の電車が突っ込み、さらにその電車から降りて線路上を歩いていた乗客たちを、反対からやって来た別の電車が次々と轢(ひ)いていった。死者160名、戦後最悪の鉄道事故である。
※衝突を防ぐため、意図的に脱線・停止させるための非常用側線
後の調査で、貨物列車の運転士は、実際には遅れている列車があるにもかかわらず、「ダイヤが定刻通りなら信号は青のはずだ」と思い込んでいたことがわかった。
また、鉄道の信号は道路の信号と違って、「本線は青」「側線は赤」という具合に同じ方向を向いて並んでいる。運転席の前方に巨大なボイラーがあって前が見えづらい蒸気機関車の運転士が、夜の闇の中、隣の線路(本線)のための信号機を、自分の線路(側線)のための信号機だと勘違いしてしまうことも十分に考えられた。
しかも、非力な蒸気機関車で45両のもの貨車を牽引している。運転士は登り坂で列車が失速しないように細心の注意を払う必要があり、意識は相当程度そちらに向けられていた可能性がある。
人間は信号を見落とすこともあれば、見間違えることもあるし、勝手な予測で「青になるはず」と思い込むこともある。そして、同時に複数の対象に注意を向けられない。三河島事故はそれを最悪の形で証明してしまった。
国鉄はこの事故を受けて、それまで段階的に進めていたATSの整備を一気に前倒しし、1966年までに国鉄全線への設置を完了させた。ようやく国鉄は「人間の注意力だけに頼らない」段階に到達した。

ただし、このATS設置の動きは地方の中小私鉄には及ばなかった。運行本数が少なく、最高速度も低い地方私鉄は、ATSの設置義務が事実上免除された。これには後述する理由がある。

置き去りにされた地方私鉄

戦後の高度経済成長期の入口あたりまで、地方の鉄道は実はかなり儲かる商売だった。
人が遠くへ移動する手段は、徒歩を別にすれば、ほぼ鉄道しかなかった。通勤、通学、買い物、行楽、出張、冠婚葬祭、そして観光。日々の生活で発生する人の動きのほとんどを鉄道が担っており、列車は連日たくさんの人を乗せて走り、駅前の商店街は賑わっていた。
それが1960年代に入って急速に変わりはじめる。マイカーの登場である。一部の大金持ちのものでしかなかった自動車が、徐々に「庶民の手に届くもの」に変わっていった。
鉄道への影響は人口密度の高い都会ではゆるやかだったが、地方私鉄を直撃した。利用者が減れば収入が減る、収入が減れば運行本数を減らし、運賃を上げる。すると利用者はますます減っていく——負のサイクルが、全国の地方私鉄を覆っていった。

冒頭の事故を起こした京福電鉄越前本線も、まさにこの渦中にあった。1964年に年間約1500万人だった利用者は、2000年には300万人程度まで落ち込んでいた。
国鉄がATSを設置するのとは裏腹に、地方の鉄道がじりじりと体力を失っていく。地方鉄道にATSの設置を義務付けられなかったのは、その普及がモータリゼーションの波と重なっていたからである。

起き続けていた事故

京福電鉄越前本線は、苦境の中にあった地方私鉄の中でも、際立って多くの事故を起こし続けていた。本記事の主題である2001年事故までの主な出来事を順に見ていこう。
1964年8月——3両ずつに分割して運転する予定だった貨物列車を、分割の手間を省くために6両編成のまま運転した。その結果、急勾配を登りきれずに途中で止まってしまった。もう一度勢いをつけるために後退したのだが、それを後続の列車に伝えなかったために、後続列車が追突した。現場の独断で手順やルールを無視した末の事故である。
1977年1月——電車が誤って赤信号で発車してしまったが、運転士が100メートル走ったところで気づき、急停車した。対向の電車も何とか止まることができた。しかし運転士はこのインシデントを会社に報告せず、5日後の乗客の通報で発覚する事態となった。

1977年8月——老朽化したレールが破損し、走行中の電車が脱線するという事故が、わずか4日のうちに連続して2回発生した。内規ではレール頭頂部の摩耗が一定の値を超えたら交換することになっていた。当初京福電鉄は、定期点検を行ったときは異常がなかったと説明していたが、実際には点検時の頭頂部の実測の手順は省略されていた。
1993年から2001年まで——運転士が信号を見落として駅を早発する事案が8年間で5回も発生していた。いずれも事故には至っていないが、組織的に重く受け止められることはなく、必要な安全対策は取られないまま放置された。
2000年12月——走行中の電車のブレーキロッドが破断し、ブレーキが効かなくなった。電車は下り坂で加速し、対向してきた電車と正面衝突した。乗客を車両の後方に避難させ、最後まで運転席でブレーキ操作を試みた運転士は殉職した。9年前に同型車両が同様のブレーキロッド破断を起こしていたが、部品の交換は行われず、点検方法も不十分なままだった。

なぜ事故は防げなかったのか

京福電鉄越前本線では、なぜこれほど事故が多発していたのだろうか。
京福電鉄は京都に本社があり、福井支社の路線とは事業エリアが完全に離れていた。また福井エリアはかつての稼ぎ頭から赤字部門に転じ、いずれは廃止する路線という流れになっていた。
会社の上部は「赤字だから」「廃止するから」と設備投資にも安全対策にも消極的で、その姿勢が組織の下にも伝わっていた。
現場の側が改善を提案しても上には受け入れられず、結果として自発的な確認や点検への意欲も衰えていった。
本社からの距離もあって監視の目も届きにくかった。報告は曖昧で、改善は遅く、インシデントは隠され、現場のモチベーションは下がる。そういう状況のなかで、安全装置がないまま、現場の人間の注意力だけに頼った運行が続いていた。
このような背景があっての2001年6月24日の事故である。発坂駅で信号を見落とした運転士は、1人乗務をするようになってから4か月の若手だった。彼は勤務体制と収入に不満を持ち、周囲に「辞めたい」と漏らしていたとされる。
そもそも事故当日は本来非番だったが、臨時のシフトで出勤して乗務についており、すでに2往復を終えた最後の運転での事故だった。
ちなみに、当時の越前本線のダイヤでは、ほとんどのすれ違いは発坂駅ではなく3駅先の越前竹原駅で行われていた。発坂駅ですれ違いが行われるのは、全32回中、朝夕ラッシュの2回だけだった。
エラーを誘発する要因がいくつも重なった状況で起きた信号の見落としだった。

運転士が気をつけていれば防げたのか

「人命を預かる運転士にそのような甘えは許されない」「事情に関わらずいつでも細心の注意を払うべきだ」と言う人がいるかも知れない。しかし、人間はコンディションが良くても間違える時がある。
「もっと注意喚起をして気をつけさせるべきだ」と言う人もいるかも知れない。しかし、同社は半年前にブレーキロッド破断による正面衝突事故を起こしたばかりだ。これを受けて中部運輸局からは強い指導があり、社内ではこれ以上ないくらい「気をつけろ」と繰り返し言われていたに違いない。
事故直後、中部運輸局は京福電鉄に対して全線の運行停止とバス代行を命じた。半年の間に2度の正面衝突事故、しかも片方は死者を出していたとなれば、当然の措置だった。
影響は、京福電鉄だけにとどまらなかった。国土交通省はこの事故を受け、全国の中小鉄道事業者に対してATS設置を義務付けた。経済的理由を言い訳にさせないために、ATS設置に補助金もつけた。三河島事故から40年弱が経っていた。

京福電鉄越前本線、その後

事故の後、京福電鉄本社は、福井県内の鉄道事業からの撤退を決断する。
約2年5か月にわたるバス代行輸送を経て、路線は第三セクターのえちぜん鉄道に引き継がれ、ATSを整備した上で、2003年から段階的に運行を再開した。
えちぜん鉄道は現在も健全に運営されており、2018年度には年間利用者370万人に達するなど、地方鉄道のなかでは利用者を伸ばしている例として知られている。
1927年に銀座線を開業させた時の技術者たちの考えが、実効性のある形で全国に広がるまでに、日本の鉄道はあまりに長い時間と、あまりに多くの犠牲を払ってきた。
一方で、今なお事故が起きるたびに「プロとしての自覚が足りない」「もっと気を引き締めるべきだ」といった、個人の注意力を糾弾する声が根強い。
しかし精神論のなかに答えを求め、「犯人」を糾弾することで安心するやりかたは、かつて京福電鉄を破滅へと導いた、あの「人間の注意に安全を丸投げする構造」の再生産に他ならない。
現場は徐々に変わりつつある。次は私たち社会が変わる番ではないだろうか。
■島崎敢
1976年東京都生まれ。早稲田大学大学院にて博士(人間科学)取得。同大助手、助教、防災科学技術研究所特別研究員、名古屋大学特任准教授、近畿大学准教授を経て、近畿大学教授。元トラックドライバー。全ての一種免許と大型二種免許、クレーンや重機など、多くの資格を持つ。心理学による事故防止や災害リスク軽減を目指す研究者。著書に「心配学~本当の確率となぜずれる~」(光文社)等があり、学術的知見を現場へ還元する実践の場として、トラックドライバー応援Podcast「プロフェッショナルドライブ」を配信中。


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