不忍池を琵琶湖のうつしにした江戸幕府のメンツ
(上)不忍池の端から見た中の島(下)上野・清水堂の清水寺風舞台造り
動物園や美術館、博物館などがあり、週末ともなると家族連れがたくさんやってくる上野の森。実はこの地が昔からずっと大切に残されているのには、深ーいワケがあるのだ。


『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』によれば、上野の歴史は東叡山寛永寺から始まる。江戸城からみて「丑寅」の方角、つまり鬼門にあったのが上野。幕府はその鬼門を鎮めるために、東叡山寛永寺を建てた。と同時に、この寺には「江戸における延暦寺」という意味も込められた。当時は「幕府の首都たる江戸を、天皇の首都たる京都に拮抗しうる格式によって装う」ことが求められたのだそうだ。いわゆるメンツってやつである。しかしこのメンツ、これだけで終わらなかったのがすごいところ。

その後、比叡山における琵琶湖のうつしとして不忍池を見て、さらに琵琶湖の中の竹生島のうつしとして不忍池に中の島がつくられる。上野の山にある清水堂は、もちろん京都の清水寺を模したもので、清水寺風に小さいけれど舞台造りだってある。

正確に土地の配置を考えると「どう考えても空間が歪んでしまう」そうだが、まあそこは「気持ち」ってことで。とにかく、先人がワケあって選んだ土地にできたこの上野の森、江戸時代以来、ずーっと東京の街を見守り続けてくれているのだ。
(矢部智子/アンテナ)
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