いつの頃からか、短歌は身につまされる詩型だと僕は思っている。
それは長い歴史のなかで培われてきた韻律が、独特な効果をもたらすからか、僕の母が錯乱の渕をさ迷いながら、縋りつくようにして歌を詠んでいたのを知っている僕が、体内に記憶として残している短歌への、偏った認識の影響のせいなのか。
しかし、篠弘の全歌集を読んでいる時、僕が受けたのは、短歌そのものの「身につまされ方」に加えて、作品と生き方を分離し得るものとして分離した上で批評し、されることを拒否する、彼の鼓動の静かな強さであった。
“向日葵に挑みしゴッホの二十点黄の色をもていのち確かむ 『至福の旅びと』”
と詠む時、篠はゴッホになりきっている。おそらく責任者として『世界美術大全集』を編んでいるさなかの作品であろうが、そのような姿勢のなかから、
“孤立さへ欲望としてうべなはむ闇を乱してボートが航けり 『至福の旅びと』”
が生れてくるのである。
篠は海を見ている。少し高いところから見下しているのかもしれない。一隻のボートが白い航跡を曳いて出発していった。闇は篠弘の胸中の闇である。彼は自分が孤立していると感じている。彼に孤立を感じさせたのは交渉相手の無理解かもしれないし、職場の同僚との意思疎通のむずかしさかもしれない。
ボートの残した白い水尾は拡って闇に紛れていった。その時、篠の心のなかに、お前は孤立を求めていたのではなかったかと囁く声が聞えてくるのだった。そうした声は、はりつめて生きている者にしか聞えない声なのだが。
篠弘の書いた『現代短歌史』全Ⅲ巻(『Ⅰ戦後短歌史の運動』『Ⅱ前衛短歌の時代』『Ⅲ六〇年代の選択』)、『自然主義と近代短歌』をはじめとする歌論、歌史論は、それを読むことなしには今日の短歌を語り得ないと言われる仕事だが、同時に彼は、『日本百科大事典』をはじめとする百科辞典『世界美術全集』等に、編集者としても経営者としても並々ならぬ力量を示し、かつ歌人であるという二重、三重の活躍を展開してきた。
彼の場合は、その異種類の仕事が互いに密接に絡まっており、そこにないのは、自己の才能を展示しようとするケレン味とその裏返しである自虐の姿勢だけであった。それ故に篠弘の社会詠、人間関係詠の調べは澄んだ響を読む者に伝え、その作品は宗匠的な臭みの替りに透明感に満ちているのだ。彼の言う〝体性感覚〟に裏打ちされた新しいリアリズム論はそのような自己との格闘の中から生れたものである。
この事実を再確認した上で
“しろがねにひるがへり翔ぶ海鷗亡命をわが希ひしことなき 『凱旋門』”
を読むと、この亡命は外国への亡命というより、自らの才能の故に課せられた二重三重の生活という宿命からの亡命というふうに読める。そうした宿命に敢然と立向っている姿こそ彼の歌風そのものであるのだ。
【書き手】
辻井 喬
(1927-2013)詩人、作家。1955年に詩集『不確かな朝』を刊行、以来数多くの作品を発表。詩集に『異邦人』(室生犀星詩人賞)、『群青、わが黙示』(高見順賞)、『鷲がいて』(現代詩花椿賞、読売文学賞詩歌俳句賞)、『自伝詩のためのエスキース』(現代詩人賞)、『死について』など、小説に『いつもと同じ春』(平林たい子文学賞)、『虹の岬』(谷崎潤一郎賞)、『風の生涯』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『父の肖像』(野間文芸賞)、評伝に『司馬遼太郎覚書』『私の松本清張論 タブーに挑んだ国民作家』、評論・エッセイ集に『新祖国論』、回顧録『叙情と闘争』などがある。英語をはじめ、フランス語、ロシア語、中国語、韓国語、アラビア語への翻訳作品もある。2006年に第62回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。2007年日本芸術院会員に選ばれる。
【書誌情報】
篠弘全歌集著者:篠 弘
出版社:砂子屋書房
装丁:単行本(563ページ)
発売日:2006-03-01
ISBN-10:4790408884
ISBN-13:978-4790408888