◆霧が覆い隠す記憶と忘却の物語
カズオ・イシグロが十年ぶりの長編の舞台に選んだのは、六世紀ないし七世紀のグレート・ブリテン島、アーサー王伝説と地続きの時代だ。鬼と竜と精霊が人々と共存していたころの物語。
主人公は、アクセルとベアトリスと呼ばれるブリトン人の老夫婦。村の外縁にひっそりと住む彼らは、あまり村の人々にだいじにされていない。息子が一人いたがいなくなった。老夫婦の記憶はぼんやりしている。
年齢を考えれば仕方がないという話でもないらしい。記憶を奪う不思議な霧が村中を覆っているのだ。人々は昨日のできごとさえ忘れてしまう。
失われていく記憶に抗(あらが)うようにして、ある日、夫婦は旅立つことを決める。息子に会うために。なぜいなくなってしまったのか、本当に夫婦を受け入れてくれるのかもわからないのだけれど。
旅を始めると登場人物が一気に増え、ファンタジーの構えがいきいきと機能し始める。
いつしか老夫婦は活劇の渦中へ巻き込まれ、読者には、手に汗握る展開が待っている。ファンタジー小説として楽しませてくれるだけではない。なにげなさの中の、どこに重要なことが隠れているのかわからない独特の文体が、あっちにもこっちにも謎をかけつつ進むから、読み手は最後の最後まで、緊張しながら吊り橋を渡っているような読書を強いられる。
さて、この魅力的なファンタジーが扱うのは、冒頭に書いたように、記憶と忘却である。老夫婦は「ブリトン人」で、少年は「サクソン人」だと書いたが、この小説の背景でもっとも重要なのは、これが「ブリトン人対サクソン人」の戦いの後、「戦後」の物語だということだろう。ブリトン人側から見た物語の中で、輝かしきキング・アーサーは、侵略者サクソン人を撃退したということになっている。本作では、その戦いの後、サクソン人とブリトン人は違う集落を作って、しかし地理上は入り混じる形で暮らしている。ブリトン人の隣村に住むのはサクソン人で、仲がいいとは言えないが、交易も、交流もある。
それが可能なのは、ブリトン人とサクソン人が、ともに記憶をなくす霧の中に暮らしているからとも言える。しかし、それではその霧とは、ある種の欺瞞(ぎまん)ではないのか、あるいは一種の救いなのか。
イシグロは英紙のインタビューに答えて、この作品の主題を思いついたのは、9・11同時多発テロの直後で、しかも日本滞在中だったと語っている。あたかも雌竜の息をかけられたかのような、戦争の記憶の著しい衰退に見舞われているいまの日本でこの作品を読むと、私たちが記憶すべきものと、忘れてもよいものについて、考え込まざるを得ない。忘却しないまま、記憶にとどめたまま、赦(ゆる)す、あるいは赦される可能性についても。
アクセルとベアトリスの話に戻ろう。老夫婦は、記憶も薄れつつある自分たちの息子に会うために旅を始めた。旅の途中で、こんな話を聞きこむ。彼岸と思われる場所への渡し船の船頭が、長く連れ添った夫婦に別々に質問をする。一番大切に思っている記憶は何か、と。答えに、年月を越える不変の愛を見た場合のみ、夫婦は彼岸でも共に過ごすことができるのだと。
その話を聞いて以来、ベアトリスは、どうしても記憶の霧を晴らしたいと願い始める。
しかし、ここでも「ブリトン人対サクソン人」と、同じ問題が見え隠れする。そもそも過去とは美しいばかりではない。では、すべてを思い出したとして、二人の関係は変わるのか。記憶と忘却の物語は、愛と死の物語でもある。
考えながら読み進むと、少しずつ、封印が開くように、意外な過去が立ち現われてくる。このあたりで味わう戦慄は、イシグロ作品を読む醍醐味と言えるだろう。
最後に、複雑な余韻を抱きとめた後、もう一度、最初から読み直したくなってくる。
【書き手】
中島 京子
1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。出版社勤務を経て渡米。
【初出メディア】
毎日新聞 2015年5月31日
【書誌情報】
忘れられた巨人著者:カズオ・イシグロ
翻訳:土屋 政雄
出版社:早川書房
装丁:単行本(416ページ)
発売日:2015-05-01
ISBN-10:4152095369
ISBN-13:978-4152095367