◆言葉の錬金術を照らす87の証言
内田百閒(ひゃっけん)は一九七一年四月、八十一歳で死去した。今年は没後五十年。
一八八九年(明治二十二年)、岡山の造り酒屋の長男として生まれた百閒こと内田栄造は、十代半ばから漱石に傾倒し、雑誌『中学世界』に投稿した写生文で早くから注目されていたが、六高時代には俳句に熱中し、俳号を地元の百間川にちなんで百間とした。ここで疑問が生じる。筆名の門のなかは「日」か「月」か。
高校の同窓生で哲学者の出隆(いでたかし)によると、東京が焼け野原に帰す前は「日」、その後が「月」になっているのだが、著者から贈られた本の直筆署名では「昭和十二年以来、日は月に化け、戦後にはさらに鬼になっていた」という。百間・百閒・百鬼園。日と月を凝視し、その違いを正確きわまりない言葉で表現しうるこの作家の眼力を示すエピソードだ。
一九一〇年に上京して東京帝大に進学し、ドイツ文学を学びながら漱石山房に出入りしはじめた百閒にとって、師の文学は「絶対的なもの」だった。
なんの用もないのにただ汽車に乗り、みずから課した規則を理不尽に押し通すあの阿房(あほう)列車シリーズの奇妙なユーモアと、無から有を生む錬金術としての借金をめぐる逸話がかなりある。目的のない無為な旅をいかに楽しみ、いかに金を借りるか。尋常ではない手管とそれを正当化する屁理屈の美しさについては、中村武志の一文で堪能できるだろう。
百閒の文学をそうした生身の作家と切り離し、言葉そのものの力を注視する読みも可能である。明晰な言葉による明瞭な描写が、自意識も内面もない「何か異様な空虚」(松浦寿輝)を感じさせる凄み。「日」と「月」のどちらも隠しておける深い穴の奥には複数の鬼がいて、「私」の肉体を奪う。とはいえ身体感覚なしで骨に刻む校正文法などできはしない。本書に集められた証言のすべてが、読みを抽象に偏らせない百閒の、言葉の錬金術のありかを示している。
【書き手】
堀江 敏幸
1964年、岐阜県生まれ。作家、仏文学者。現在、早稲田大学文学学術院教授。主な著書として、『郊外へ』『おぱらばん』『熊の敷石』『雪沼とその周辺』『未見坂』『河岸忘日抄』『めぐらし屋』『なずな』『燃焼のための習作』『その姿の消し方』、書評・批評集として、『書かれる手』『本の音』『彼女のいる背表紙』『余りの風』『振り子で言葉を探るように』などがある。
【初出メディア】
毎日新聞 2021年3月13日
【書誌情報】
百鬼園先生-内田百閒全集月報集成著者:佐藤 聖
出版社:中央公論新社
装丁:単行本(513ページ)
発売日:2021-01-07
ISBN-10:4120053741
ISBN-13:978-4120053740