『ゼーノの意識』(岩波書店)著者:ズヴェーヴォAmazon |honto |その他の書店

◆外界に直結する中年男の心
イタリアの作家、イタロ・ズヴェーヴォが一九二三年に発表した『ゼーノの意識』は、邦訳文庫で上下二巻、数百頁におよぶ長篇である。主人公のゼーノ・コジーニは五十七歳。
証券取引所の経営にかかわり、外面的な成功は得てきたものの、心のほぐれない状態に陥り、フロイトを連想させる精神科医の勧めで「なんの変化もしないたったひとつの音色しか提供できなかった」人生を振り返る手記を書いている。

執筆の現在は、一九一四年。舞台は第一次大戦勃発前のトリエステである。じつは医師への不信から治療を中断したあと、一九一五年五月から翌年三月までの日記が添えられているので、ゼーノの意識のうち、最上層の現在時は二つに分けられ、最後に、日記のなかで批判された医師による、本書が「復讐のため」の出版だと述べる序文に回収される構造になっている。

過去を振り返る出発点として医師が勧めたのは、「いつから喫煙への嗜好が生まれたかを分析すること」だった。煙草のけむりのなかから、ずっと思い出すことのなかった人生の細部にゼーノは目をむける。実質的な回想の冒頭である第三章「煙草」が、やがて戦争勃発後の禍々しい砲煙につながることも作者は「意識」していただろう。禁煙に失敗しつづけ、二度と吸わないことを決意しても、その決意の鮮度は、失敗を前提にしなければ保ち得ない。このあと語られる彼の半生の心理の紋様は、恋愛においてさえ、煙草を止めると言いながら止められない弱さと結びついている。

ゼーノは証券取引所の上司ジョヴァンニ・マルフェンティの、みな名前がAではじまる四人の娘のひとりと結婚する。アーダ、アウグスタ、アルベルタ、アンナ。ゼーノのZから最も遠く、最も縁遠い頭文字を、いかに自分のものにするのか。
ゼーノは美しいアーダに執心し、結婚を申し込んで拒まれると、よく似たアルベルタにプロポーズし、それも受け入れられないと知るや、彼にとっては魅力の感じられないアウグスタに、二人に断られたことを告げたうえで求婚する。

愛されていないことを承知で、アウグスタは申し出を受ける。精妙な心理の変遷が、どこまでも平らかに語られ、しかも退屈さを感じさせない。父親の死、アウグスタとの結婚、愛人との関係、義兄グイードの自死を通じて明らかになるのは、悪意とも冷淡ともつかないゼーノの「意識」である。

しかし、秘められていた細部の、べつの側面が、戦争に突入したあとの第八章で触れられると、「意識」の問題は「良心」の問題であることに気づかされる。老いの到来を恐れる中年男の内なる心の動きが、外界の大きなうねりや、「根本まで汚染されている」現代の生活に直結しているところに、この小説の力があるのだ。

ズヴェーヴォは、義父の経営する船舶塗料会社に勤めていた頃、トリエステの語学学校で英語教師をしていたジェイムズ・ジョイスと知り合った。一九二二年刊行の「意識の流れ」で知られる『ユリシーズ』の主人公のモデルのひとりはズヴェーヴォだとされている。両者の小説を読み比べて、作家の意識と良心の浸透圧を確かめるのも一興だろう。

【書き手】
堀江 敏幸
1964年、岐阜県生まれ。作家、仏文学者。現在、早稲田大学文学学術院教授。
主な著書として、『郊外へ』『おぱらばん』『熊の敷石』『雪沼とその周辺』『未見坂』『河岸忘日抄』『めぐらし屋』『なずな』『燃焼のための習作』『その姿の消し方』、書評・批評集として、『書かれる手』『本の音』『彼女のいる背表紙』『余りの風』『振り子で言葉を探るように』などがある。

【初出メディア】
毎日新聞 2021年4月24日

【書誌情報】
ゼーノの意識著者:ズヴェーヴォ
翻訳:堤 康徳
出版社:岩波書店
装丁:文庫(370ページ)
発売日:2021-01-18
ISBN-10:4003770099
ISBN-13:978-4003770092
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