◆「尾ひれ」にこそ人間社会の本質
江戸時代、パンデミックは珍しくなかった。浮世絵師の歌川広重(初代)も画人の鈴木其一(きいつ)も1858年の「安政コレラ」で死んでいる。
仮名垣は立派。ちゃんと長崎の出島にいたオランダ軍医・ポンぺの奉行所への勧告書を入手。コレラが隣国中国で流行し、来航したペリー艦隊のミシシッピー号での患者発生を報道。この船からコレラが日本に持ち込まれたと匂わせ「日本国のみ右病の流行するにあらざる…世界のわづらひ(パンデミック)」であると示した。さらには欧州で行われている感染対策を掲載。キュウリ・スイカ等の食禁、寝冷え防止、疲労防止、節酒、下痢をみればすぐ治療の五つだ。感染が激烈だった8月については日別の感染死者数まで載せている。
ところが、このルポは後半になると、現代人には理解不能な記事のオンパレードになる。現実には存在しないはずの幽霊や疫病神、コレラの正体とされる狐狼狸(コロリ)なる意味不明の獣などが次々に登場する。話はそれるが、先日、私は勤務先の国際日本文化研究センター所長の井上章一さんと「歴史のミカタ」について対談した。話すうち、自分すなわち歴史学者の悪癖に気づいた。歴史学者は「事実」ばかりを重視して追いかける。井上さんは言った。事実から派生する「尾ひれ」が大事なのだ、と。事実でない「尾ひれ」がどのように付くか。そこにこそ人間社会の本質が現れるというのだ。
幕末、コレラの病原体は見えない。
【書き手】
磯田 道史
歴史学者。1970(昭和45)年岡山市生れ。国際日本文化研究センター准教授。2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。
【初出メディア】
毎日新聞 2021年7月10日
【書誌情報】
安政コロリ流行記: 幕末江戸の感染症と流言著者:仮名垣 魯文
出版社:白澤社
装丁:単行本(172ページ)
発売日:2021-05-11
ISBN-10:4768479855
ISBN-13:978-4768479858