◆在野の研究者説いた通史を追体験
ある年代以上の人間にとって、著者の名前は、ある種の感慨を惹き起こす伝説の源であろう。遥か昔になったが、知らない社会層が大半を占める現在、多少著者の物語に触れることから始めよう。
本書は、その著者が折に触れて公表してきた講演や文章を、例えば「科学史の基本問題に取り組んで」という項は僅か二ページ強だが、その意味では断簡零墨にいたるまで、自選の形で集めたもので、もう一巻が予定されている(本書の「あとがき」に、その内容が紹介されている)。ただ、エッセイ集としては異例の、明確に限定された課題を表現したタイトルなので、読み進めていくと、本書の後半、殆(ほとん)ど全体の半分を占めているのが、まさしく「物理学の誕生」というテーマの高校生を対象とした講演記録だったので、なるほどと合点が行った。その部分は、文字通り、著者独自の近代物理学の成立通史として読める。天文理論発展の状況を、現代流に丁寧に数式化することで、丹念に裏付けながら説いていく手法は、高校生にとって、得難い体験になったに違いないし、本書の読者もまた、それを追体験できる。
勿論、歴史は歴史家の数だけ書かれる、ということは、この場合も真で、細かい点で異論がないわけではない。例えばデカルトが「物理学としての天文学への寄与はほとんどありません」という断定(三一六ページ)はどうだろう。話が細かくなるが、古くJ・ヘリヴェルの論考でも明らかなように、ニュートンがデカルトから大きな影響を受けたことは確かだし、慣性概念も、ガリレオを超えたデカルトの把握を無視することはできないと思われるのだが。
著者が新しく提案されている大事な論点は、歴史のなかで、既存のルネサンス論と科学革命論を補完するものとしての、「16世紀文化革命」論がある(例えば本書第5章)。その最も重要なキーワードは「ラテン語」であると考えられる。この時期、人々が所謂「ヴァナキュラー」な言葉(それぞれの地域の言葉)で書くようになったことが取り上げられる(例えばガリレオの主著『天文対話』は彼の生地トスカナの言葉で、デカルトの『方法序説』はフランス語で発表された)。
【書き手】
村上 陽一郎
1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。上智大学、東京大学先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学大学院、東洋英和女学院大学学長などを経て、豊田工業大学次世代文明研究センター長。著書に『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全と安心の科学』ほか。訳書にシャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』など。編書に『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』など。
【初出メディア】
毎日新聞 2024年12月7日
【書誌情報】
物理学の誕生 ――山本義隆自選論集Ⅰ著者:山本 義隆
出版社:筑摩書房
装丁:文庫(352ページ)
発売日:2024-10-11
ISBN-10:4480512616
ISBN-13:978-4480512611