■出来事が脳に記憶されないケース……海馬の損傷や、働きが阻害された場合
まず1つ目は、出来事を体験したときに、その内容が頭の中に残らなかった、つまりそもそも記憶が作られなかったケースです。
私たちが物事を記憶するときには、関連する全ての情報はいったん脳の「海馬」という部分に運ばれ、そこで処理された後、海馬以外(記憶する内容によって脳領域はさまざま)にある「記憶の貯蔵庫」へ移送・保存されます。
そのため、もし海馬が損傷していたり、一時的に機能していなかったりする場合には、そもそも記憶は作られません。
例えば、脳の病気で海馬が萎縮してしまった方は、見たり聞いたり体験したことが頭に残らない記憶障害が出ます。
また、大量の飲酒時にはアルコールが海馬の機能を一時的に停止させます。そのため、その間の出来事は「記憶にない」状態になります。
このようなケースは「記憶が失われた」のではなく、もともと作られなかったため、厳密には「記憶喪失」には該当しませんし、当然ですが、脳の中に元からない記憶が「戻る」こともありません。
■長期記憶された出来事を思い出せなくなるケース……脳の損傷がなければ記憶は存在
もう1つは、いったん脳のどこかに保存されて「記憶ができた」のに、思い出せないケースです。この状態こそ、本当の意味での「記憶喪失」と言えます。
もし、記憶の貯蔵庫に相当する脳領域を病気や事故で損傷してしまった場合は、情報自体も失われてしまいます。
思い出す努力を強いたり、思い出せない自分を責めたりしてはいけません。
しかし、多くの場合は「すっかり忘れてしまった」と思っていても、単に「思い出せない」だけで、記憶自体は脳のどこかに必ず残っています。長期記憶として保存された情報は、多くの場合一生脳の中に残っているのです。
■記憶喪失で失った記憶は思い出せるのか? その可能性と方法
新しいことが覚えられなくなったり、昔のことも忘れてしまったりしたように見える高齢の方でも、頭の中には何十年も前の記憶が残っています。そのため、ふとしたきっかけで、スラスラと懐かしい思い出を語り始めることも珍しくありません。
働く世代の方も、日々の忙しい環境の中では全く思い出せなくなった記憶が多くあるでしょう。
しかし、夜眠ろうとしたときや、入浴中など、緊張がゆるんでリラックスした瞬間に、ずっと思い出すこともなかった古い出来事や友人の名前などの昔の記憶が、ふとよみがえることは珍しくありません。
また、においは記憶と強く結びついているため、記憶を呼び起こすきっかけになることがしばしばあります。筆者の場合、シンナーの香りで、子どもの頃に作ったプラモデルのことを思い出したりします。
つまり、「喪失した」と思った記憶でも、ふとしたきっかけで取り戻せることがあるということです。
ただし、科学的に確実な記憶を取り戻す方法は、まだ確立されていません。
「頭のどこかに残っているはずだから、いつか思い出すだろう」くらいに考えるのが、ちょうどいいのではないでしょうか。
▼阿部 和穂プロフィール薬学博士・大学薬学部教授。東京大学薬学部卒業後、同大学院薬学系研究科修士課程修了。東京大学薬学部助手、米国ソーク研究所博士研究員等を経て、現在は武蔵野大学薬学部教授として教鞭をとる。専門である脳科学・医薬分野に関し、新聞・雑誌への寄稿、生涯学習講座や市民大学での講演などを通じ、幅広く情報発信を行っている。