はるか遠く昔の日本人は「色は匂えど散りぬるを」(いろはにほへとちりぬるを)と歌いました。現代の言葉に置き換えると、花は美しく香り高く咲いてもいつかは散ってしまう、と。


春、桜の花が咲く季節。

「桜は儚いからこそ美しい」とよく聞きますが、たくさんの人たちが桜の木のもとに集う光景を見ると、やがて散ってしまう花の姿に“諸行無常”(この世のものは、常に変化し、変わらないものはないという意味)を重ねるのは、遠い昔も現代も変わらないものだなと感じます。

今から8年前、私は婚約者だったある男性と桜を見上げていました。

空と辺りの建物を覆い隠すように、うすべに色の花が咲き、隣には将来家族になるであろう人間がいる。当時の「私の景色」でした。

風に揺らぐ桜を見ながら、いつか「私の景色」には子どもが加わり、ゆくゆくは孫が……と思い描き、心が温かくなったことを覚えています。

その翌年である7年前。私は、ひとりで桜を見上げていました。

空も建物も桜も、以前と同じまま。隣にいるはずの人間だけが、「私の景色」にはさみを入れたように、きれいに切り取られていました。探そうにも、見つけることはできません。

ある日の朝早く、帰らぬ人に。
心臓の発作でした。

ふたりで見上げたあの日と変わらない風景。でも、隣にいた人間が消え、「私の景色」は変わってしまった。儚いといわれ、散った桜でさえ咲いているというのに、なぜ自分だけがこんなことに……!

私は、憎悪にも似た負の気持ちを覚えかけ、同時に自らを悔いました。そして、ふと気づいたのです。

ああ、そうか。桜は儚くなんかないんだ。

発作について「発症後の1分以内の致死率は9割」と知らされました。たった1分。美しい言葉を借りていえば、人は1分でその人生を散らすことができ、二度と咲くことはないのです。

しかし、桜は季節が来る度、幾度となく花を咲かせる。

いつか思い描いたように、自分たちの子ども、孫の世代までも。
きっと、この先私がいなくなってもずっと。儚いのは桜ではなく、人の方。桜は儚いからこそ美しいというのであれば、人の一生はもっと美しい。

“儚い”という字は“人の夢”と書くように、桜がつかの間の美しさというのは、人の夢……まぼろしなのかもしれません。

とはいえ、人の一生は美しいから精一杯、前向きに生きようよ! と、達観した者の視点に立つのではなく……私は、ただ、毎年春になると、はらりと舞い落ちる花びらを手のひらで受け取るように、桜からの言づてを感じてみるのです。

うすべに色の花との対話は、時々に自分に必要な思考を探る空間なのだと思います。

 

現在、あの日から8年が経過し、世の中では、さまざまなことが起こりました。

私のように、思いをはせられる土地に立つことさえ許されない方々もいらっしゃいます。思いが詰まった場所やもの自体がなくなってしまったり、故郷を追われることになってしまったり、とても、全ては語りえません。

ここで「今いる環境に感謝」など、高らかに言葉を発してしまうのは、あまりにも簡単な気がします。そもそも、感謝というもの自体、日常において当然に行うべきことでしょう。

私は、誰に見てもらわずとも、黙々と自ら思う道をゆくことが、自分と大切な人たちのためになる生き方で、果てには、世の悲しみの“鎮魂の糧”に繋がると考えます。


まことしやかな言葉で語るより、行動で示すことこそが。

これから先、道の途中で思いが散ってしまうことがあるかもしれません。でも、生きている限りは、いくらでも甦ることができます。

散った桜は、再び咲くということを知っているのだから。

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