●「君が必要だ」の言葉で
安定より変化を選ぶ
1993年には、ピートマーウィックミッチェルからプライスウォーターハウスクーパーズ(PwC)に移られますが、公認会計士試験合格後、最初に面接を受けられた会社ですね。そこにはどんな経緯があったのですか。
ヘッドハンティングです。おっしゃるとおり、試験合格の日、最初に訪問した会社ですから縁を感じましたね。でも、私はピートマーウィックの東京オフィスで6年間、サンノゼで7年間仕事をし、アメリカ人の同僚と比べても早い時期にパートナーとなることができ、一定の成功を収めることができたと考えていました。
わざわざ移籍しなくてもいいんじゃないかと……。
そうですね。
リスクを、あえて取りに行くのですね。
PwCは、ホノルル事務所を私に任せるという提案をしてきました。その話は私にとっても魅力的でしたが、その前に、アメリカ進出する日本企業への支援のあり方について自分の想いを伝えておきたいと考えました。経営会議でプレゼンの機会を得てお話ししたところ、ホノルル赴任の話がなくなってしまったのです。
それはなぜですか。
当初、私にホノルル事務所の立て直しをさせようと考えていたようなのですが、私の想いを聞いて、より大きな舞台であるシカゴの事務所にパートナーとして迎え入れたいという話に変わったからです。90年代前半はトヨタやホンダなど製造業のアメリカ進出ラッシュの時期で、私はそうした企業のサポートに全力を尽くしました。
リスクをとってもひとつ上のステージに登ろうとする原動力は、いわゆる出世欲なのですか。
出世欲がまったくないとはいいませんが、お客様に幸せになってもらうためには自分にパワーがあったほうがいいし、そのほうが面白いという想いのほうが強いですね。それが、自分のミッションではないかと思うのです。
なるほど。さらに高いレベルで、自分の役割を果たすべきだと。
でも、私はこれまで、自分が嫌だと思うことはやったことはないんです。もちろん、仕事のプロセスでは努力もしますし苦しいこともありますが、振り返れば楽しいことばかりしてきたと思います。
●大企業とスタートアップ企業の
化学変化で新たなイノベーションを生み出す
長いキャリアの中で、最も印象深い仕事を挙げていただけますか。
私はその後、2005年にベリングポイントの日本法人の社長に就任しました。べリングポイントは、古巣のピートマーウィックからスピンアウトしたコンサルティング会社(旧KPMGコンサルティング)でここでも縁を感じたわけですが、米国本社が2008年のリーマンショックのあおりを受け、チャプターイレブン(日本でいう民事再生法)を申請することになってしまったのです。
子会社にとっても大変な事態ですね。
私はアジア全体を統括し、世界中の拠点で最も利益を出していたのですが、このままではこの1200人の部隊がどうなるかわからない。そこで、日本法人だけを切り離してPwCコンサルタントと合流することを目指しました。その結果、2009年3月25日に設定された期限ぎりぎりに経営統合が成立したのです。これは、もう一度やれといわれてもできないだろうと思える仕事でしたね。
綱渡りをするような緊迫した様子が想像できます。
一世一代の勝負でしたが、このとき、何かに守られているような気がしたんですよ。おそらく、さきほどお話しした自分の役割を果たすということと関係するのですが、do the right things、つまり正しいことをすることが、このときのパワーにつながったのだと思います。
その一世一代の勝負の後、内田さんはPwCの社長、会長を歴任され、このSAPジャパンに移られましたが、コンサルティングファームの世界からERPベンダーへの転身というのはちょっと意外な感じがします。
PwCで会長を務め、そろそろハッピーリタイアメントという頃に、SAPジャパンの会長にならないかというお誘いを受けました。
当初は、ERPの会社から社長ではなく会長として来てくれといわれて違和感を持ちましたが、話を聞いてみるとSAPも変わろうとしていると。そして、自分が会社を引っ張っていくのではなく、生え抜きの経営者を育てながら前に進めていくというミッションに心を動かされ、PwCの任期満了を待たずに、この会社に移ってきたというわけです。
ここでも意気に感じて動かれたと。
インダストリー4.0など、イノベーションを起こすための議論が盛んになってきたものの、実際に取り組む日本企業はそれほど多くありません。あるとき、SAPが提唱しているデザインシンキングの話をコマツの大橋徹二社長(当時)にしたところ、その話をコマツの役員会でしてくれと。そしてその翌年、同社がランドログという土木工事のさまざまなデータを集約し、サービスを提供する会社を設立するので、NTTドコモなどと一緒にSAPも出資してくれと依頼されたのです。
面白い展開ですね。
このとき驚いたのは、この新しい会社のパートナーに70社も手を挙げたことです。日本におけるイノベーションは、大企業主導で進んでいくのだと感じました。そこで考えたのが、この大手町ビルの6階にオープンしたInspired.Labです(前号のコラム参照)。三菱地所がフロアを大リフォームしてつくり、SAPジャパンがコミュニティの運営にあたっていますが、大企業の新規事業担当の若手社員とスタートアップベンチャーの経営者やエンジニアが集い、化学反応を起こす場所、日本のイノベーションの発信基地になると期待しています。
SAP自身の変革は、どのように進んでいるのですか。
ただERPを売るのではなく、SAPが伴走者になって経営を手伝うというスタンスが新しいDNAになってきています。
それはいいですね。長年のコンサルティングで培われた内田イズムが、ここでも生かされたわけですね。この先のご活躍も楽しみにしております。
●こぼれ話
内田士郎さんに会いたいと思った。週刊BCNの「行きつけの店」というコラム欄で、お気に入りの蕎麦屋を紹介しておられたからだ。外資系コンサルタントのプロとして世界中を股にかけ、大企業の中枢にメスを入れてきたキーパーソンも「蕎麦を食べる人なんだ」と、意外に思ってしまった。
なぜなんだろう。蕎麦は日本人なら誰もが食する身近で美味しい食べ物なのに、内田さんの記事に敏感に反応してしまった。外資系企業の経営者で成功しておられる人は多い。ただし、世界の多様な分野の大手企業の経営者に数多く会って、その人たちを人脈として持っている人は少ない。メディア関係者もそれに似た面はあるが、経営者の事業運営と深く、濃い密度で関わることはあまりない。私自身、これまでに何人かのトップコンサルタントに会っている。こうした経験から、この分野の人は何かが異質なのだ、と思っていた。だから、“蕎麦を食べる人”に反応したのだろう。今回、内田さんに会って、何が異質なのかを認識したつもりである。
それはゴールに到達するまでの工程の洞察力と、ゴールに対する執着心だと思った。
内田さんに質問をする。用意されていた回答はすぐに返ってくる。用意されていない質問に対しては全身にエネルギーをみなぎらせて、わずかな時間をおいて返事が打ち返される。その返事以上に、全身のエネルギーに特別なパワーを感じた。これまでにも感じたことはあるが、例は少ない。この力の源はどこにあるのだろうか。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。