(創刊編集長・奥田喜久男)
●医学部志望から
コンピューターサイエンスの道へ
昨年6月、NTTテクノクロスの社長に就任され、その経営を牽引される桑名さんですが、研究所勤務が長かったとうかがいました。
そうですね。1984年に当時の日本電信電話公社(現NTT)に入社し、横須賀の研究所(現横須賀研究開発センタ)に配属されたのが、そのスタートでした。
NTTの横須賀研究所といえば、トップクラスの研究者が集まる日本有数の研究所ですね。いわばバリバリの理系研究者の集団ですが、桑名さん自身、どのような少年時代を過ごしてそうした道に進まれたのですか。
実は、子どもの頃に考えた第一志望の人生ではなかったんですよ。
えっ、それはどういうことですか。
高知県出身の私は、中高一貫の高知学芸中学・高等学校で学びました。家から学校まで遠かったので、中学1年生のときは学校のそばに下宿し、中学2年生から高校2年生までの4年間は寮生活をしていたんです。
寮生活ですか。厳しそうですね。
そうですね。舎監の先生が常駐していて、中学生と高校生が2人1部屋で共同生活し、朝6時半起床、点呼、着替え、掃除、グラウンド1周のランニング、体操、朝食、支度をして食堂での朝の勉強を30分、そして学校に行くという生活をしていました。何度も脱走したいと思っていました(笑)。
すごい! エリート校のスパルタ教育という感じですね。
この学校は医学部志望の生徒が多かったのですが、私が理系を選んだ理由は、日本史、世界史、漢文など文系の科目が苦手で、数学、化学、英語が比較的できたからなんです。だから、消去法での理系選択なんですね。
お話をうかがっていると、どんなことに対しても理詰めで答えを出さないと気がすまないタイプだと感じます。
そういう論理的なふりをしているのかもしれませんね。つまり自分の思考回路の中で、問題が解けたことについて喜びを感じるタイプなのでしょう。高校時代は『月刊 大学への数学』という雑誌の応募問題にもよく挑戦し、その難問が解けたときはとても充実感がありましたし。
ところで、第一志望の人生ではなかったというのは……。
周囲の影響もあって私も医学部志望だったのですが、高校時代にあまり勉強をしなかったせいで医学部には進めず、一浪して当時国立大学の二期校だった電気通信大学に入学したことですね。
謙遜されている部分もあるかと思いますが、ということはNTTで研究の道に進むということも想定していなかったと。電通大では、どんな分野を専攻されたのですか。
電気通信学部の電子計算機科学科というところに入りました。今でいうコンピューターサイエンスの学科ですね。
そこに医学の道からコンピューターの道への転換点があったのですね。
●父の背中を見ながら
モノづくりに親しむ
高校時代、何かコンピューターとの接点はありましたか。
特にありませんでした。当時、コンピューターに触ったことのある高校生はほとんどいなかったように思います。ただ、私の場合はコンピューターそのものではありませんが、父の影響があったかもしれません。
お父さんは、どんなお仕事をされていたのですか。
林業関係の会社で、育苗の仕事をしていました。
育苗というと?
材木にするスギやヒノキなどの苗を、品種別につくって研究する仕事ですね。社宅の前に広大な畑があって、そこで苗を育てるのです。当時は近所から20人くらいの人が集まって、その作業をしていました。
こうした木の苗は、種からつくる場合と挿し木をしてつくる場合があるのですが、そうしたニーズに応じて、敷地内には耕運機やトラクターが置いてあり、肥料などを保管する倉庫や、父が自作したビニールハウスもありました。
ハウスまで自作するのですか。
サーモスタットを設置して自動的に温度調節をしたり、スプリンクラーで散水したりできるハウスを自分で設計し、それを大工さんや町の鉄工所に依頼して施工してもらっていました。
お父さんは、とても器用で何でも自分でつくってしまうタイプだったのですね。
そうですね。ですから、子どもの頃、そういうモノや作業の様子を見ていて、とてもワクワクしました。
そういうモノづくりのDNAが、桑名さんにも伝わっていると。
そうかもしれません。
具体的には、どんなことをされていたのですか。
例えば、昭和30年代にはテレビが一般家庭に普及し始めましたが、私の家のあたりは田舎で大きな電器店がなかったこともあり、近所の家にテレビのアンテナを立てに行ったことが何度もありました。私も小学生のとき、巻いたフィーダー線の束を肩にかけてついて行き、その手伝いをしていたんです。
何かその情景が目に浮かぶようです。子どもにとっても、桑名家はモノづくりをするのに絶好の環境だったのですね。
家の中には、オシロスコープ、テスターなどの計測機器やはんだごて、抵抗、コイルなどの部品、それにニッパやラジオペンチといった工具類もすべてそろっていました。
父は、テレビアンテナに限らず、知り合いの家で何か家電製品が壊れたと聞くと、それを直しによく出かけていましたね。私もそうした環境の中で、ラジオを自作したり、スピーカーを分解したりして遊んでいました。当時はそれが本当に面白かったのです。(つづく)
●いつも机上に置いておく
大切な本
ビジネスノウハウとして有用なものもあれば、純粋に知的好奇心を満たしたり、自らの悩みに答えてくれたりするものもあると桑名さんは語る。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。