カセットブックには、小冊子とカセットテープが1本入っていた。映画「戦場のメリークリスマス」のピアノ版サウンドトラックを、坂本自身が演奏したものだ。発売は1983年6月。5月の映画公開に合わせて出版されたように記憶している。学生時代、一番多く聴いた音楽は、おそらくこのカセットテープだろう。坂本のピアノに魅入られた。とりわけ、1曲目の「Merry Christmas Mr. Lawrence」は何回聴いたことか。当時、ピアノソロの音源はこのカセットテープしかなく、文字通り、テープが擦り切れるまで繰り返し聴いた。
次に坂本に出会ったのは「energy flow」。「リゲインEB錠」のCM曲だ。リゲインといえば、バブル期のある種の象徴。「24時間戦えますか」というフレーズの勇ましいCM曲「勇気のしるし」が有名だ。89年に登場した。「リゲイン」を飲んで24時間戦うものだと誰もが受け止めた。しかし、93年のバブル崩壊で社会は一変。そんな背景から99年に登場したのが栄養剤「リゲインEB錠」のCMだ。それまでとは真逆の静かな曲調。坂本が作曲したピアノ曲energy flowだ。
2010年にリリースされたアルバム「UTAU」では、坂本との何度目かの再開を果たした。朋友、大貫妙子とのデュオだ。大貫が歌い坂本がピアノを奏でる。ゆるぎない互いの信頼からなる凛とした音楽だ。UTAUも繰り返し繰り返し聴いた。なかでも「美貌の青空」は特に孤高で美しい。音の中に吸い込まれていくような空気感がある。この曲は95年に坂本がリリースしたアルバム「スムーチー」にも収録されている。しかし、全く別の楽曲に聞こえるほど、がらりと雰囲気が変わって別の進化を遂げた。
最近では、何といってもアルバム「async」だろう。
そして「12」だ。今年1月にリリースされ、遺作になってしまった。病と戦いながら体の底から絞り出された音楽のスケッチだ。前作「async」ほど難解ではなく、少しだけ聞き手に寄り添うような印象も受けた。
ライブも含め、結局ただの一度も生の坂本に接することはできなかった。しかし、節目節目に彼の音楽があり、そのたびごとに大きく心を揺り動かされた。近づいたり遠ざかったりしながらも、心のどこかで彼の音楽は流れ続けていた。六本木WAVEの一階には、雨の木/レインツリーという、小洒落たカフェバーがあった。学生の分際には少し敷居が高かったが、戦利品のCDや書籍を眺めながら酒を飲むのがささやかな贅沢だった。今は跡形もなく消えてしまった雨の木が、かつてあった方角にビールを掲げつつ、教授の冥福を心から祈る。素晴らしい音楽を、ありがとう。