dynabookは「DynaBook J3100 SS001」から始まった。1989年に東芝が発売した世界初のノートPCだ。A4ファイルサイズで2.7kg、液晶画面は当然ながら「モノクロ」だった。PCといえばデスクトップが中心の時代。「ラップトップ」という可搬型PCもあったが、5kg前後もあり重く、気軽に持ち運べるようなものではなかった。そこへ颯爽と登場したのがSS001だ。3kgを切る「軽さ」は驚異的だった。実際に仕事で使っていたが、特にキーボードが素晴らしかったのをよく覚えている。
実は「Dynabook」という名前はオリジナルではない。PCの父ともいわれるアラン・ケイが1972年の論文で提唱した理想のPCの名称からきている。現在のタブレットPC、あるいはスマートフォンに近い形状のPCだった。世界初のノートPCとはいえ理想にはまだまだ遠い。それにdynabookという名称を冠するとは、大胆不敵な所業だと思ったものだ。同様に批判する声も、そこそこあったように記憶している。当時を良く知るDynabook国内マーケティング本部の荻野孝広 副本部長によると「まだまだ構想とかけ離れてはいるが、こんな商品をよく作ってくれた」と、アラン・ケイ自身から言われていたという。なんと、本家のお墨付きだったのだ。
実は荻野副本部長、SS001が誕生したまさに1989年の東芝入社。入社直後から現在までDynabookとともに走り続けてきた。その彼に「ダイナブック商標問題とAlan Key(アラン・ケイ)との出会い」という文書を見せてもらった。当時東芝のパソコン事業部長で、Dynabookの生みの親ともいえる溝口哲也氏が記したものだ。文書によると、初号機のSS001が発売された直後の8月、ボストンで開かれたMacWorldの会場で、東芝の社員によって、実機がアラン・ケイ本人に手渡されたという。もう一台の実機にはサインとともに「Congratulations!」のコメントを書いてもらい持ち帰った。その後も「来日された際、青梅工場で講演してもらうなど懇意にしていただいていた」(荻野副本部長)。文書の題名通り商標の問題もあった。「調べてみると、Dynabookの商標権はアスキーが所有していたが、交渉して使用できることになった。しかしアメリカでは同名の会社がすでに立ち上がっており、商標権があまりに高額だったため取得を断念。当初、日本だけで使用していた。その後、各国で商標権を取得。
dynabookのお家芸といえば「世界初・世界一」。技術が成熟してきた今でこそ、なかなかできないことだが、1990年代は日進月歩の時代。新たな技術や機器が次々と登場。技術者にとってはネタの宝庫だった。Dynabookで設計統括部 コンピューティング設計第二部 部長も兼務する、設計統括部の島本肇 統括部長も1989年入社。以降現在まで、全製品の設計に何らかの形で関わってきた。「世界初のカラーノートPC V486-XSの液晶を任せられた。それまでノートはモノクロ画面しかなかったわけで、実験室で初めてカラーでPC画面を表示させたときには、みんなで喜んだのをよく覚えている」と話す。
1992年発売のこのノートPC、とんでもなく高価なシロモノだった。荻野副本部長は「当時100万円前後はしたはず。高すぎて、どれくらい売れたのかよくわからない。
「高価なカラー液晶パネルを落っことして、大目玉を食らったことがある」と語るのは、Dynabook ニューコンセプトコンピューティング統括部の辻浩之 統括部長。1991年東芝入社で、前出の荻野 副本部長、島本 統括部長の2年後輩にあたるが、ほぼ同世代。同様にずっとノートPC畑を歩んできた。落としてしまった液晶パネルは、海外向けA4ノートPC用のパネル。1枚70万円もする「部品」。青梅工場内で運んでいる途中だった。「液晶パネルなどから出る電磁波ノイズの発信源を探るための、測定用の部屋がある。
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