【東京・港区発】「2025年の壁」というバズワードとともに、日本のIT化に内在する課題を見事に整理し、方向性を指示したDXレポート。日本のIT史に残るドキュメントだ。
巻末には研究会やワーキンググループの構成員の名前が並ぶ。しかし執筆者の名前はどこにもない。後にそのひとりが和泉さんだと判明した。すると、そのユーモラスな語り口もあいまって、日本におけるDX推進のキーパーソンとして、今やあちこちの講演に引っ張りだこだ。コンピューターの世界に入るきっかけは、軽音楽部の先輩の「TrueとFalseしかなくてええぞ」という言葉だった。
(本紙主幹・奥田芳恵)

●詠み人知らずだったからバズったDXレポート
奥田 日本にDXという言葉を広めた『DXレポート ~ITシステム「2025年の崖」克服とDXの本格的な展開~』の執筆に関与されたわけですが、レポートの中にどうして和泉さんのお名前がないんですか?
和泉 僕が産業技術総合研究所(産総研)から経済産業省(経産省)に出向して、「デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会とWG(Working Group)」をやろうとなったんですね。そのとき、青山先生(青山幹雄・南山大学理工学部ソフトウェア工学科教授、2021年没)に、座長をお願いしに行ったんです。当時、経産省に出入りしていた、いわゆる有識者があまりいい感じじゃなかったんで(笑)。それじゃあ、修一郎さん(山本修一郎・名古屋大学大学院情報学研究科教授)も呼んでやるかとなって、青山先生にメンバーも選んでいただいたんです。その成果をとりまとめたのがDXレポートだったんです。
奥田 それなら、なおさら和泉さんのお名前があってしかるべきでは?
和泉 ところが僕としては、とても不完全なレポートだと思ったんですね。もう出すのは止めようか、と考えたほどです。
そうしたら青山先生に「そんなことを言っていたら、いつまで経っても出せない。今の状態でいいから、さっさと早く出せ」と、こっぴどく怒られまして(笑)。それで、自分たち事務方の名前を落として公表することにしたんです。
奥田 「これはいったい誰が書いたんだ」となりましたよね。
和泉 詠み人知らずになって、結果的にはそれでバズったんだと思います。おかげで、経産省への出向が伸びることになっちゃいました。その後も青山先生とやり取りしながら、DXレポート2、2.1と書き進めました。ちょうど2.1を書いているときに、青山先生がお亡くなりになったんです。後で知ったんですが、当時すでに入院されていて、最後は病床で作業をされていたそうです。
奥田 そうでしたか。DXレポートは、改めて心して読まなければいけませんね。ところで、どんな経緯で経産省に出向することになったんですか。

和泉 当時、産総研にはルールがあって、准教授から教授になるときに中央省庁に1年出向することになっていたんです。でも僕は飛び級みたいな感じで、出向せずに准教授から教授にしてくれていたんですよ。産総研のシステムをリプレースしたり、愛知万博で政府館のプロジェクトを成功させたりと、実績が評価されたんです。
奥田 それなら出向する必要はありませんよね。
和泉 ところがあるとき、経産省からデジタル時代に向けて新しい政策を立案するために、ちゃんと政策が考えられる、教授職を出向させてくれ、という要請がきたとのこと。
奥田 それで和泉さんに白羽の矢が立ったと。
和泉 当然、教授の面々はすでに出向経験があるわけです。2回も行くのは嫌だと。そういえば1回も出向してない、ズルしている奴がいると、みんなで僕を指差すわけです。もう行かざるを得ない状況になって。
奥田 相当お嫌いだったんですね。
和泉 本当に辛いんですよ。
国会議員にも対応しながら、いろいろな雑用もしないといけない。朝早く行って夜中まで。また朝早く出ての繰り返し。そもそも何を言われているかも分からない。なんか、わけの分からない仕事をずっとやるみたいな感じなんですよ。産総研の職員の中には、出向が決まったとたん、鬱になって来なくなる人がいたくらいです。
奥田 そんなご苦労の中で生まれたレポートだったんですね。そういえば、ご専門はAIなんですよね。
●大学の研究室に進むまでコンピューターには触ったことがなかった
和泉 学位論文が、日本語理解を扱ったものでした。仕様書を入れて、その通りのソフトウェアをアウトプットする、というものです。当時、コンピューターによる日本語の理解ってすごくレベルが低かったんですよ。大量に文章を入力しても「はい」とだけ返ってくるとか。
古き良きAIですね。そこで、本当に入力したことが理解できているかを確かめるために、ソフトウェアを組ませることにしたんです。その過程で、たくさんのプログラムを書きました。おかげで、研究そのものというより、システムを組んだりするスキルが身に付きました。
奥田 プログラミングとの出会いはいつだったんですか。
和泉 大学は大阪府立大学で、工学部の電気工学科にいました。4年生へ進級する際、研究室を選ばなきゃいけない。僕が当時所属していた軽音楽部に、4年8回生、つまり4年も留年してコンピューターの研究室に行った先輩がいたんです。彼にどうしてそんな難しい研究室を選んだのか聞いたんですよ。そうしたら「お前、電流とか電磁波とかサイン、コサインとかインテグラルとかシグマとか理解できんやろ?コンピューターはええぞ。TrueかFalse、1か0しかないんやぞ」って。簡単そうだと真に受けて、コンピューターの研究室に入ったんです。
実はその研究室に入るまで、全くコンピューターには触ったことはなかったんですよ。
奥田 意外ですね。実際に触ってみてどうでしたか。
和泉 研究室では、周りは小さい頃からマイコンやっていました、みたいな奴ばかり。先輩も冷たくてあんまり教えてくれないんです。何か聞いても分厚い本を渡されて終わり、とか。ただ「音楽やっているんならピアノも弾けるだろうし、タッチタイピングならできるだろう」と言われたんです。やってみたらものすごく速く打てるようになった。そんな感じでコンピューターと出会ったわけです。
奥田 それから面白さに目覚めていくんですね。
和泉 学位論文のテーマが良かったんです。例えば、ウルトラマンの家系図を入れて、ウルトラマンタロウの父親は誰かとか、バルタン星人とは兄弟か、みたいなことを答えさせるんです。
最初はとんちんかんな答えを返したりするんですが、それを修正していくわけです。ある意味、出来の悪い子どもを育てるみたいなものです。徐々にコンピューターで、こんなことまでできるんだ、ということまで実感できるようになって。楽しかったですね。
奥田 学位は無事受けられたんですか。
和泉 これがいろいろありまして。永田先生(永田守男・慶應義塾大学理工学部教授、2003年没)がいらっしゃらなければ、おそらく学位は取れなかったでしょうし、今の私はないのかもしれません。(つづく)
●書籍『福澤諭吉の「サイアンス」』『成功するプログラミング』
 『福澤諭吉の「サイアンス」』は、和泉さんの「バイブル」。恩師、永田守男先生の著書。先生の葬儀の際、香典返しとして配られたもので、晩年、病床で執筆された。時代と技術が変わっても普遍的な本質が述べられている。『成功するプログラミング』は、永田先生が翻訳に携わった。現代でも全く変わらないプログラム開発の要諦が整然と整理されている。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第372回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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