京都大学教授で元内閣参与だった藤井聡氏が、感染症対策専門家会議の尾身茂先生と、感染症数理モデルの専門家として情報の発信と政府への助言をしている西浦博先生に対して、批判文と公開質問状をネットで公開しました。内容は以下になります(以下【当該資料】参照)。
【当該資料】2020年5月21日『「新」経世済民新聞』【藤井聡】【正式の回答を要請します】わたしは、西浦・尾身氏らによる「GW空けの緊急事態延長」支持は「大罪」であると考えます。
https://38news.jp/economy/15951
藤井氏の意見と質問状のポイントを整理すると、さらに以下になります。
(1)「4月7日時点」の「8割自粛戦略という判断」そのものは「結果論」では責められない
(2)実証的事後検証は「8割自粛戦略は、無意味で不要だった」事を明らかにした
(3)8割自粛戦略は、無意味で不要だっただけでなく、単に「有害」だった(経済的に「有害」だった)(倒産や失業をたくさん出す結果になった)
(4)4月7日の「緊急事態宣言/8割自粛」の政府判断は「間違い」だった(次に感染の第二波が来たとしたら、より経済的被害の少ない対策を取るべきである。例:「100人以上のイベントのみ中止」など)
(5)西浦氏・専門家委員会が「GW空けの緊急事態解除」を科学者として主張しなかったのは国家経済破壊の「大罪」である(GW明けには実効再生産数<1がわかっていたはずである)
また新潟県前知事の米山隆一氏や三浦瑠麗氏、堀江貴文氏などメディアでの発言力が大きい人たちまでが参戦し、藤井氏と同じような議論を展開しはじめています。
藤井聡氏による、尾身氏、西浦氏に対する批判とはいったい何を根拠に語っているのか? またその批判する考え方そのものはどういう意味があるのか?
「感染の問題」と「経済の問題」を混乱させたまま進む議論に対して、感染症専門医の第一人者・岩田健太郎氏に、一度議論の内容を整理していただき、感染症専門家の立場から藤井氏の意見に対する見解をうかがった————
◼️はじめに——緊急連載における議論の整理
今回の藤井聡先生の質問書、そしてそこで批判がなされた西浦博先生についてでですが、両者のいずれについても、全面的にどちらが正しいとか間違ってるという話とは違うと思います。
藤井先生のような異なる専門性をお持ちの方がこういった批判的な提言をされることは素晴らしいことです。ぼくも、藤井先生が主張している「検証の必要性」については「正しいな」と思うところもあります。一方で再生産数に関する議論や、「西浦・尾身氏による~「大罪」だ」というのは話が違うと考えます。
個別の論点に関して、藤井先生に近い議論をされている方は他にも多くいらっしゃいますから、この緊急連載(連続全4回5/27~30)ではぼくなりに議論を整理をしてみます。
◼️西浦先生の「本当の貢献」——日本の感染症対策の巨大な前進
まずはじめに確認したいのですが、西浦博先生が日本の感染対策にもたらした貢献はものすごく大きいと、ぼくは思っています。今回の日本におけるコロナの第一波が、少なくとも先進国のなかでは相当よく押さえつけられていた理由は複数あると思っていますが、少なくともその一因が西浦先生にあるのは、まず間違いないと思います。
ただしその「貢献」というのは(ここでよく話がすり替わるのですが)「西浦先生の意見が正しい、間違っている」とか「議論・データ・推論が正確だ、不正確だ」とか、そういう意味での貢献度の話ではありません。
そもそも科学の世界においては、誰かが「100%正しい」「100%間違っている」というのはまずありえないことです。どんな科学者だって、正しかったり、正しくなかったりする。カッティングエッジな未知の領域を切り開いていく科学領域においては、特に今回のような新興感染症については当然のことです。その中で「全く間違えない」人がいたとしたら、その人は科学領域という観点からは「何もやっていない」のです。
ですから、提唱する仮説が事後的に正しかったか、間違っていたかという側面において人物を評価することはナンセンスだとぼくは思っています。「貢献度が非常に大きい」というのと、データや分析が逐一正しかったか間違っていたかは分けて考えなければいけません。
今回のコロナ対策における西浦先生の貢献は、反実仮想によって、「西浦先生がいらっしゃらなかった日本だったら、どうなっていたか」という視点で考えるべきなんです。
西浦先生が厚労省の背後でいろいろなデータを解析するお手伝いを始めたのは、ぼくには正確な時期はわかりませんが、多分2014年のアフリカのエボラとか、2015年の韓国のMERSの頃だと想像しています。
2009年の新型インフルエンザの時には、西浦先生はまだ国の政策に対してほとんどコミットしていなかったと思います。そして、あの時は、西浦先生がされているような数理モデルを活用した感染対策なんてほとんどなかったんです。
当時を思い返すと、厚労省が勝手に描いた「死亡率2%のインフルエンザ」というポンチ絵を根拠に全部計画を立てました。もちろん、この「2」という数字はさしたる根拠もない「シナリオの一つ」に過ぎないのですが、厚労省はともすると、自分の想定した物語をあたかも真実であるかのように振る舞う悪弊が昔からあります。
当時は、現実・データ・ファクト・サイエンスといったものを基に政策を決めることがなく、むしろ観念や手続き、形式が優先されていたわけです(今でも、多分にそうです)。蓋を開けてみたら死亡率2%でもなんでもなかったのですが、そのせいで方向転換も遅くなって現場も大変でした。軽症、あるいはすでに治癒したインフル患者を重症扱いで対応しなければならなかったからです。
そこから考えると今回の新型コロナウイルスの対策では、データやモデルを活用し、それを基にした推論を根拠にして、いわばevidence-based health policy(エビデンスに基づいた医療政策)でいきましょう、という流れができたわけです。これは大きな前進です。
今回、専門家会議が招集される前は、政府の人たちは「コロナ対策として〇〇をします」とは言うんですが、「なぜ〇〇するのか」を説明しないし、「〇〇をすることで、△△というアウトカムを出す」という目標や狙いを一切言いませんでした。典型的にはダイヤモンド・プリンセスの感染対策がそうでした。理由や目標を言わないので、どんな結果がでてきても、感染者が増えたり、DMATや厚労省、検疫所の感染者がでても「失敗した」「間違っている」という結果にはならない。「適切だった」「問題はなかった」と言い抜けることもできました。
しかし専門家会議の招集後は、安倍首相も記者会見で「〇〇というデータに基づいて、△△の目標を目指しましょう」と明言するようになりました。例えば「8割の人の外出を減らす」などの見通しが、きちんと立つようになりました。
今までだったら目標がないんだから、現実にはどんなに失敗していてもアナウンスの上では百戦百勝なわけですが、今回は「この目標を目指します」と明言したからこそ、「うまくいった、いかなかった」という議論ができるわけです。
このように議論の土台を作り、「評価が可能になった」こと自体が、日本の感染症対策においては巨大な前進なんです。
それなのに「西浦先生が言っていた数字、違ってたじゃない」みたいなことをあげつらって袋叩きにしていたら、「じゃあ数字なんて出すな」って話になり、また元に戻ってしまう。
検証可能な数字で議論をせず、「一生懸命やります」「頑張ります」「最善を尽くします」とだけ言っていれば、なにが起きても「失敗した」という結果にはならない。そっちに戻ったほうがいいのかって話ですよ。そんなわけないでしょう。
だから、「西浦先生がいらっしゃらない世界」と「いらっしゃる世界」のどっちがまともな世界かというと、当然いらっしゃったほうがいいに決まってるんです。
我々感染症の専門家は、それ以前の暗黒時代をよく知っているので、「そっちに戻すのは論外だ」と申し上げたいんです。
今回の第一波に関して、「うまく乗り切った」と言っていいかは様々な意見があるでしょうが、少なくとも「最悪の事態は免れた」と言ってもいいでしょう。想定できるいくつかのシナリオの中で一番悪いシナリオにならなかったことは間違いない。ニューヨーク市やイタリアのような悲劇は日本では起きなかったのですから。そして、その悲劇は「最悪のシナリオの可能性」として関係諸氏の頭には常にあったはずです。
そこにはもちろんいろいろな人の貢献があります。
これが議論の前提です。
◼️科学者の役割と、その限界
西浦先生は、ドイツの感染データに基づく「R0 = 2.5」(R0:基本再生産数。次回詳しく取り上げます)という前提に基づいて、「その場合に、こういう対策をまったくとらなければ、死亡数が42万人になりますよ」というシナリオを示されたわけですが、これは「R0 = 2.5です」とか、あるいは「日本では死人が42万人出ます」という予測をしたわけではなくて、「こういう条件下では、こうなります」と言ったに過ぎないわけです。
ですから、その結果にならなかったのは当たり前です。「対策をまったくとらない」なんてシナリオはありえないわけですから。
これは科学論文の世界ではよくやることで、例えばダイヤモンド・プリンセスでの感染に関しても、「対策をまったくとらなかった場合には感染者は〇〇人だっただろう」というシナリオが作られています。「それに比べて日本政府は検疫をこうやったので、こうなりました」という形で評価をするわけです。
このように、「こういう条件下では〇〇という計算値がでました」ということを言い続けることは、科学者の責務です。
前提条件の正確さには当然限界がありますし、数理モデルは現実に起きていることを完全に表現することはできません。ただし、仮説として何かを代入しなければ話が全然できないので、まず話の俎上に「こういう条件下ではこうなりますよ」というものを置くわけです。
だから「条件を変えてやれば当然違う結果が起きますよ」ということを、モデルと条件と結果を、提示された我々一人ひとりが議論すればいい。前提をまったく見ないで、その結果だけを見て「NO」というのは乱暴な議論です。
日本には疫学における数理モデルの専門家が非常に少ないですし、厚労省も西浦先生のグループにべったりで解析・助言を頼んでいます。
ですから西浦先生が数字を出すと、厚労省も含めて我々はつい「魔法の箱の中から数字がぼんぼん出てくる」かのようなイメージで見がちです。
けれども本来は、その前提としている条件を含めて、解釈者もちゃんと吟味しないといけない。完全なる予測などないから、当然外れることもあるわけですよ。だから「外れる」という前提でプランを立てればいいだけの話であって、外れたことをもって西浦先生を批判するのは数理モデルというものに対する、また科学者の役割に対する期待過剰だと思います。
◼️「正しい予測」ではなく「正しい判断」を
さらに言えば、普通は未来の予測をする場合は、最悪のシナリオを想定して、「そうならないようにしましょう」と警告を立てるのが定石です。だから「いいほうの数字で計算すればもっといい話になっていたはずだ」みたいなのはまったく間違った考え方で、プロっていうのは普通は、「悪いほうのシナリオ」で想定を立てて対策を打ち、「そうならなくてよかったね」という状況に持っていくわけです。
例えば「胸が痛い」と言って病院に来た患者さんに対して、医者はまず「心筋梗塞はないか」と考えて、例えば患者さんを入院させて一晩様子をみて、その間に血液検査で酵素の数値を確認して、「心筋梗塞でした」「そうじゃありませんでした」と判断します。つまり、実際に心筋梗塞だった時に、「心筋梗塞の患者さんを家に帰して、そのまま家で亡くなってしまう」という最悪の結果を避けるための判断をしているわけです。
ですから検査の結果、あとから「やっぱり心筋梗塞じゃありませんでした」となったときに、「じゃあなんで入院させたんだ!」って怒り出すのは間違った考え方ですよね。
医療従事者にとって大事なことは「正しい予測をする」ことではなくて、拙著『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ、2020)の中でも強調したように、「正しい判断をする」ことなんです。
「正しい判断」とは、必ずしも「未来を正しく予測する」ことではなく、いくつかの未来予測のシナリオがあった時に、どのシナリオが来た時でも破局的な結果にならない、最悪のシナリオを免れるために手を打つことです。
我々は魔法使いではないので、未来を正確に予測することなんてできっこない。当然、西浦先生にだってできっこないですよ。それができると思っているほうがおかしい。
ただし、正しい判断をすることはできる。最悪なシナリオを想定して、それを回避しようとすることです。
ですので、最悪のシナリオを想定して、その回避にかかった西浦先生の判断そのものはまったく正しかったわけで、その最悪のシナリオがやってこなかったらから怒るというのは話が違う。心筋梗塞のシナリオでいうと、「なんで、この患者さんは心筋梗塞じゃなかったのに、家に帰さなかったんだ」と後付けで文句を言ってるのと同じなんです。
第2回では「感染爆発を押さえられた要因について」語ります(本文構成:甲斐荘秀生)