経世論研究所所長の三橋貴明氏による、緊急寄稿第三弾。最後となる今回は、民主制が成立する上で必要不可欠な、ある意識について考察する。
■「国家」を必要とする3つの理由
前々回、前回と、「国家」の重要性について書いてきたが、筆者は別に国家主義者というわけではない。とはいえ、主に三つの理由から、我々が「国家」という名の共同体を必要としているのは、疑いないのだ。
一つ目は、前回も取り上げた「権利」の問題である。
我々の権利は、所属する共同体が認めてくれているからこそ、存在している。人間が生まれながらにして、何らかの権利を所持しているわけではない。
そして、我々の権利を維持するためのルール(法律)を定め、ルール順守を強制するのが権力で、現在は「国家」という形をとっている。
別に、国家がなくても構わないが、我々の権利を認めてくれる何らかの共同体が必要なのは間違いない。
となれば、国民一人一人が(一億分の一以下とはいえ)主権を持つ「国民国家」という共同体の在り方は、ベストとは言わないが、「マシな方である」と考えざるを得ない。
同時に、我々は、
「同じ国民の権利を守らない限り、自分自身の権利も守られない」
という事実について理解しなければならない。自己責任論、国民選別論、企業の新陳代謝論など、同じ国民を見捨てることは、自らを殺しているのと同じである。
ちなみに、「同じ国民を守る」と聞くと、長引くデフレと貧困化で、心がすさんだ国民の多くは、
「でも、あの我々を苦しめた○○までをも守るのか?」
と、対象の選別を始めてしまう。すなわち、国民選別論だが、日本国民である以上「全ての国民」を守らなければならない。
正直、筆者にも「さすがに、○○はなあ……」と、見捨てたくなる「日本国民」に心当たりがないわけではない。それでも、国家は全ての国民を例外なく守らなければならないのだ。
理由は、例えば今回のコロナ危機で、国民を選別し、「救う国民」と「救わない国民」に分けたとしよう。今回はたまたま、自分が「救われる国民」に含まれたとして、次の選別時には外れるかも知れない。あるいは、自分は助かっても、家族が、友人が、同僚が選別から漏れる可能性がある。
そのような選別を危機のたびに行うのは、非合理的であり誰の利益にもならない。日本国家は「日本国民」であることを唯一の条件として、全ての国民を守り、救わなければならないのだ。そして、我々自身も「同じ国民」として、全ての国民を救うために、不断の努力を続けなければならない。さもなければ、自分や家族の権利も守られないからだ。
さて、我々が国家を必要とする二つ目の理由は、生産性だ。
我々人間は、個別の「生産能力」が極めて小さい。
一個人で、食料生産、エネルギー確保、衣類・住居・日用品など、日常的に使用する様々な製品・サービスを全て生産できる人間など、一人もいない。
というわけで、我々は分業し、専門特化し、生産性高く財やサービスを生産する。お互いに生産し合った財・サービスを消費することで、個別の需要を満たし合っている。
つまりは、生産性という問題からも、何らかの「経済的なつながりを持つ共同体」は必須なのである。具体的には、同じ言語によるコミュニケーションが可能で、文化、伝統、価値観、歴史、ライフスタイル、そして「権利」を共有する生産者のネットワークだ。
別に「外国」の生産能力を利用しても構わないが、今回のように「非常事態」になると、途端に利用不可能となる。非常事態はもちろん、平時においても、人々の全ての需要を満たすには、可能な限り国家という共同体内でそれぞれが生産者としての役割を持ち、連携し、必要な財・サービスを融通し合い、生産性を高めることが不可欠なのだ。
そして、三つ目の理由が、安全保障。
人間という生物は、極めて脆い存在だ。大震災や大洪水、巨大台風といった自然災害、外敵の侵略、飢餓、さらには「疫病蔓延」といった非常事態に、一人で立ち向かうことができるだろうか。
もちろん、不可能だ。
というわけで、我々は国家という共同体を維持し、安全保障サービスにリソース(人材など)を投じ、非常事態に備えなければならないのである。
権利を守る共同体が存在せず、一人で全てを生産しなければならず、非常事態において誰にも頼ることができない。
国家を否定するとは「そのような状況」を欲するという話になるが、その場合は哲学者のトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』に書いた通り「万人の万人に対する闘争」に突入することになる。あるいは「ロビンソン・クルーソー」に描かれる、無人島での自給自足の生活そのままだ。
■ナショナリズムが失われた先に
この種の「国家の必要性」について、日本国民は教育を受けていない。義務教育の中で国家の重要性を理解する機会を持たないため、国家・国境否定のグローバリズムを数十年にわたって無防備に受け入れてしまっている。その結果として、貧困化がひたすら進み、さらには「民主制」を失いつつあるのが現状だ。何しろ、民主制がよって立つところの国民意識(ナショナリズム)が破壊されていっているのである。
7月5日の東京都知事選挙において、現都知事の小池百合子氏が得票率59.7%と、歴代二位の得票数で勝利した。もっとも、投票率が55%であったため、小池都知事は東京都の全有権者の、わずか33%の得票で当選したことになる。
だからといって、
「小池都知事は、有権者の三割の票を得たに過ぎないではないか」
と、敗北した候補者たちが反発しても仕方がない。民主制において、ルールに基づき投票が行われ、多数を得たものが勝者となることは「正統」なのだ(※「正当」ではない)。
不正選挙が行われたならばともかく、民主的な選挙において最も票を得たものが「政治権力」を握ることを否定してはならない。選挙で敗者となった少数派は、
「今回は負けたが、同じ国民が決めたことだから」
と、多数派の決定を受け入れる必要がある。いわゆる、敗北宣言だが、敗者側が「負けを認める」ためには、「同じ国民」という意識が不可欠だ。
実は、ナショナリズムは民主制を適正に運営する上での「基盤」なのである。
無論、勝者側にしても、最多得票におごらず、少数派となった敗者を称えるべきだ。逆に、敗者となった少数派は、潔く「今回の敗北」は認め、次の機会に向けて多数派を得るための言論活動を展開する。この種の民主制を健全に機能させるための態度、姿勢は、ナショナリズムなしでは絶対に成立しない。
民主制を正常に運用するためにはナショナリズムが不可欠なのだ。
そして、グローバリズムはナショナリズムを破壊する。国民を分断し、互いに争わせ、あるいは「外敵」に意識を向かわせ、特定の誰かの利益最大化が実現する政策を進めるのがグローバリズムだ。我々が現状のまま、自民党主導のグローバリズム路線を受け入れ続けた場合、さらに国民の分断が進み、鬱屈した人々が争い、攻撃し合い、日本国の「同じ国民」という意識、ナショナリズムが破壊されていくことになるだろう。
そのとき、我が国の民主制は維持することが不可能となり、「国民主権国家 日本国」が終焉を迎えることになる。