難病「道化師様魚鱗癬」を患う我が子と若き母の悲しみと苦しみ。「ピエロ」と呼ばれる息子の過酷な病気の事実を出産したばかりの母は、どのように向き合ったのか。

『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』の著作を綴った「ピエロの母」が医師から病名を宣告された日、母は我が子の「運命」を感謝しながら「これからの親子の人生を豊かなものにしよう」と新たなる決意をした。
 今回は、息子の陽くんの「病気」の先輩をたずね、魚鱗癬という病気でも人生は豊かに暮らせること、その「気づき」を若き母は綴りました。



【難病・魚鱗癬】感染が命の最大のリスク、だから「医師よりも、...の画像はこちら >>



■もうひとりの魚鱗癬

 梅本遼さん(本人)と千鶴さん(お母さん)を訪ねて



 魚鱗癬(ぎょりんせん)の子として生まれた梅本遼さんは、今年24歳。皮膚の症状や日々の暮らしに伴う困難と付き合いながら学校を終え、今は地元の教育委員会に職を得て、嘱託として働いています。



 2週間に1度、変形した右手指のリハビリに。また2か月に1度、経過を診てもらうために久留米の大学病院へ通う必要はあります。



 症状はだいぶ落ち着いて来て、仕事をする喜びにあふれる毎日を送っています。お母さんは患者会代表の梅本千鶴(ちづる)さんです。



 ここに至るまで、何度か命の危機もありました。皮膚が魚のウロコみたいで、乾燥してボロボロと落ちる病気だといわれても、それがどうして命の危機につながるのか、一般にはなかなか理解してもらえません。



 一口でいうと、患者の命を脅かす最大のリスクは「感染症」です。



 ふつうの健常な皮膚は、皮膚表面に住み着いている様々な菌などを含め、外敵が侵入してくるのを防ぐバリア機能があります。

したがって皮膚からの感染症にかかるのは、外傷を負ったとき傷口が膿(う)むくらいで滅多にありませんが、魚鱗癬ではこの機能が極端に低下していて、菌やウイルスなどの侵入を許してしまいます。すると重要な臓器に達し、そこで大繁殖をして臓器不全などになってしまうケースがあるのです。



 用心のために遼さんの場合、乳児期は「完全滅菌の生活をしてください」と、医療施設から言われました。ミルクなど口から入れるものはもちろん、被服についても肌着やタオルなどは1週間分をお父さんが医療施設に持っていき、そこで処理をしたものを家へ持ち帰って使うのです。お母さんは服に菌が付かないようにビニールの手袋をして、処理した服を遼さんに着せる、という繰り返しで、これを数年間続けました。



 その期間はどうにか乗り越えたのですが、遼さんは5歳のとき、皮膚表面などに普通に付着して住み着いている常在菌の溶よう連れん菌きんに感染して、危うい目にあいました。



 体調が悪くて地元の医療センターに入院したのですが、37 度くらいの熱が認められるだけで、いったん家へ帰りました。ところが途端に40度を超す発熱。血尿にもなって、再度、検査をすると腎不全の一歩手前で、急遽、専門医のいる久留米まで救急搬送されました。



 腎臓の血液を濾過(ろか)する機能が喪失しており、身体中に毒素があふれている危険な状態。人工的に血液を濾過する透析が検討されましたが、治療に耐える体力がないので、かえって身体に致死的なダメージを与えるリスクがありました。
 結果的には薬物治療が功を奏し、危機を脱したのですが、ボーダーでの専門医のギリギリの判断。

そんな局面に陥(おちい)る前に適切な処置をとるべきだったと、医療サイドでのやりとりがあったことを後日談として聞きました。



 この〝事件〞をきっかけに、遼さんのお母さんは、専門医の言った「医師よりも、お母さんが一番の先生」という言葉を噛み締めました。



 同じ発熱でもカゼの熱か、感染による熱かを自分で区別でき、「さすがお母さん」と言われるくらいでないと、魚鱗癬の子は育てて行くのは難しいと、自身に言い聞かせ、病気についての知識をさらに身につけるべく決意しました。





◼︎危惧していた感染症にかかった遼さん



 遼さんの場合、同じ「魚鱗癬」でも、皮膚への刺激があるとそこに水疱(すいほう)ができるという症状や、右手の指が変形して、ものをつかむのも思い通りにいかないという障害もありました。



 これらのケアについても、大きな制約が生じました。
 幼児期にオムツを替えるとき、ズルっと皮膚が剥げてしまいかねないので、細心の用心が必要でした。抱っこも這(は)い這いもできません。それらは自立歩行を促す大事な行為なので、当然、歩行するまでの期間も遅くなりました。



 歩けるようになっても、すぐに足の裏に水疱ができるので、ごく短時間しか歩けません。そのため小学校の時期まで、車椅子中心の生活でした。
 これらの乳幼児期・児童期の制限がどんな影響を及ぼすか、遼さんは後年になって知ることになります。



 「つまづいて転びそうになるとき、とっさに手を出しての受け身ができずに、顔面から着地してケガをしたり、打撲してしまうんです」



 そんなこともあり、小学生のときは毎年のように入院していました。



 学校は視覚・聴覚障害、四肢不自由者、知的障害の子らが通常の学校教育に準ずる教育を受けられる特別支援学校。それらとは別の区分になりますが、病弱の子らを受け入れる特別支援学校もあって、そこに通いました。授業のカリキュラムは普通の学校とほぼ一緒でした。



 病気の困難は思春期にもありました。
 19歳で初めて家を出て、専門学校の寮に入っていたとき、危惧していた感染が起こり、入院と退院を4回繰り返しました。このときは原因菌がわからず、特効薬となる抗生剤が打てないこともあり、治りが中途半端で、退院と再発を繰り返しました。学校の寮などの共同生活ではやむをえないのですが、風呂場のマットから感染ったのではないか、と医師は疑いました。



 そういった共同生活のスタイルは、仮に感染症が治っても継続しなければなりません。
 このままでは寮生活も、専門学校の勉学も維持できない、と心配する人もいて、一時は退学も考えました。



 ですが遼さんは「学校を卒業して、進路を拓きたい」という欲求が強く、なんとか踏ん張りました。その後、障害者のための職業訓練校に通い、今の職場に入ることができたのです。
 遼さんを育てるにあたって、母親の千鶴さんは「仮に自分が先にこの世を去っても、息子が一人でも生きていけるように」と、ひとつの目標を立てました。



 それは「自分の病気を、自分の言葉で、説明できるようになること」です。



 たとえば自分の病気が人に伝う染つるものではないこと、むしろ感染るリスクが恐ろしくためのケアが絶えず必要なことです.
 これをちゃんと説明できるのとできないのでは、集団に受け入れてもらえるかどうかの瀬戸際になります。





 ◼︎我が子自身が病気を理解し、みんなに説明できるように

 お母さんはことあるごとにお手本を示しました。 
 小学校へ進学するとき、担任の教諭にかけあって、クラスメートたちに遼さんの病気のことを説明させてほしい、と機会をつくってもらいました。



 「みんな誰でも髪の毛、落ちるよね。遼の皮膚も同じなの。体の一部だからちっとも汚くないんだよ。みんなと同じだよ」



 すると子どもたちは「へぇー、そうか!」と得心したようにうなずいたそうです。



 子どもたちは好奇心旺盛だから、ジロジロ見られたり、ボロボロ落ちる皮膚について質問攻めにあったりするのはあたり前。それに反発して拒絶するのではなく、ちゃんと説明すれば、意外に受け入れてくれる……。



 子どもたちのそういった反応はお母さんにとっても大きな出来事で、遼さんを育てていくうえでも、患者の会を運営していくうえでも、大きなヒントになりました。肩から余計な力が抜けて、すごく楽になったそうです。



 患者および家族の交流会が毎年開かれますが、患者本人や両親から質問があるたびに梅本さんは言います。



 就学期、普通学校を希望する場合など、学校へ入学するにあたって、前年の夏あたりに、病状などを説明する機会が与えられます。ここでうまく説明できるかどうかは、受け入れの可否(かひ)にもつながりかねません。



 「高校に行きたいなら、面接もあるから練習した方がいいよ」と、患者本人にも自覚をうながすために、声をかけるそうです。当然、遼さんも今までずっと言われ続けたに違いありません。



 このような日頃の“訓練”が功を奏したのでしょうか。
 中3のとき、ちょっとした事件がありました。遼さんがアスペルガーの少年と仲良くなったのです。



 病的なほどの潔癖症の子で、給食は食べられず、昼には帰るか、その日は何も口にせず放課後を迎えるか、といった具合です。



◼︎「親友」との出会いで人生は豊かに開かれる

 そんな子がある日、遼さんを自分の部屋に招きました。遼さんの皮膚はそこでも当然、ボロボロと落ちます。遼さんが帰ったあと、彼はほうきで掃除をしたそうです。



 そのうち少年は遼さんの家へ泊まりにくるようになり、千鶴さんの手料理を食べるようになりました。彼のお母さんが驚いて、「あの子が他所のうちへ行って、そこの食器で料理を食べるなんて、信じられない」と、後日、興奮して話したそうです。



 魚鱗癬の子とアスペルガーの子、二人が自分の病気のことや、相手のハンデについてどういう会話を交わしたのかは、今となっては不明ですが、相互に理解をしていたのは間違いありません。



 そうでなければ、このような交流は生まれ得なかったはずです。



 遼さんは今でも、彼と親友の関係を続けています。
 現在、遼さんは冒頭で述べたように、教育委員会の嘱託として働いていますが、ポロポロと落ちる皮膚をはくために、机の下には自分用のホウキと、独特な体臭を消すための芳香剤を、置いています。



 就職当初、保湿剤の薬を塗るためにしょっちゅうトイレへ行くことから、上司に「トイレが近いね」と言われたりしましたが、「実は……」とわけを話すと、「ならデスクで塗ればいい」と理解をしてくれるようになりました。
 今では2か月に1回、久留米へ治療を受けに行くときも、2週間に1回、手のリハビリへ行くときも、「今日は行く日じゃないのか」と、声をかけてくれるようになりました。



 遼さんはたまたま良い職場と理解ある人たちに巡り会えたものの、多くの患者は社会的には不遇な情況(じょうきょう)にあります。もし皮膚さえ落ちない薬ができたら、いっぱい働くところがあるはずです。



「病気のことをまだまだ世間に知ってもらう必要がある」



 遼さんはその活動に力を入れたい、と言います。



『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より再構成)



【参考資料】
本書をもとにCBCテレビ『チャント』にて「ピエロと呼ばれた息子」 追跡X~道化師様魚鱗癬との闘い(6月26日17時25分より)が放送されました。



https://locipo.jp/creative/41a0b114-7ee7-4f24-976c-e84f30d2b379?list=5a767e90-3ff9-479c-a641-e72e77cf42c3

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