死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。1921(大正10)年から2020(令和2年)までの日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。
菅内閣発足後の国会で争点になったのが、学術会議任命問題だ。これが争点というのも、いかにものどかでしょぼい話だが、それを何より実感させたのが、日本学術会議の会員に任命されなかった教授のひとりから出たというこの発言である。
「ナチスのヒトラーでさえも全権を掌握するには特別の法律を必要としましたが、菅総理大臣は現行憲法を読み替えて自分がヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」
これと似た発言は米山隆一や金平茂紀といった反権力気取りの論客からも出た。あたかも、菅はヒトラー(自民党はナチス)的な批判の合唱である。といっても、現実認識や歴史認識からズレまくった音痴の合唱なので、騒音でしかない。こういう批判がやりたければ、せめて北朝鮮や中国に行くべきだろう。
かと思えば、NHKの朝ドラ「エール」における第二次世界大戦の描き方が賛否両論を呼んだ。作曲家の主人公を戦地に行かせ、恩師がまさに戦死するところを目撃させるという過激な展開により、主人公の人生は劇的に変化する。それまで戦争に協力的だった主人公は、これを機に、深く落ち込み、命の大切さに目覚め、スランプを乗り越えて平和への祈りを奏でるようになるのだ。
そこにはやはり、一種の予定調和というか、戦争を絶対悪とする(したい)戦後日本の創作物にありがちな思い込みが感じられた。
とはいえ、もちろん、自分が生まれる前の過去のことはよくわからない。残された資料などを手がかりに、想像するだけだ。ただ、その際、世間的な善悪、あるいは、たかだか数十年のあいだに形成された常識にはなるべく振り回されたくない。あくまで自分の感じたものを大事にしたいのである。そのついでに、筆者が感じて書いたものが誰かの想像の手がかりになれば幸いだ。
この連載は、さまざまな死のかたちを通して、人間や社会について考えていくものである。死は命の終わりというだけでなく、その人の本質をあらわにしたり、そこから別の人たちへの影響が始まったりもする。という意味で、格好の学びのテキストなのだ。
その第1回には、1945(昭和20)年を選んでみた。先の大戦が終結した年であり、多くの人間が死に近い場所で生きていた特別な年だ。
■1945(昭和20)年原爆、終戦。独裁者、最期の40時間の安息アドルフ・ヒトラー(享年56)、近衛文麿(享年54)など
昭和20年、西暦でいうところの1945年ほど、人間の死を考えるうえで重要な年はない。何しろ、第二次世界大戦が終結した年だ。世界の強国がそれぞれの立場と主張でもって激突したこの大戦争において、最後の敗者となったのが日本だった。国の内外で、大量かつさまざまな死が繰り広げられることとなる。
なかでも特筆すべきは、原爆による死だろう。8月上旬、米軍がいち早く開発した新兵器・原子爆弾が広島と長崎に1発ずつ投下され、年末までに21万人もの命が失われた。これほど効率的な大量殺戮は歴史上類を見ない。
残酷なのは、その「毒」の持久力だ。たとえば、宝塚のスターでもあった女優・園井恵子は地方公演の拠点にしていた広島で被爆。その11日後に「九死に一生を得た」として郷里の母親に手紙を書いている。
「三十三年前の、しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。
じつはその時点では、脱毛くらいしか症状が出ていなかったが、翌々日、本格的に原爆症を発症。高熱や下血、全身のかゆみなどに苦しみながら、そのまた翌々日の21日に亡くなった。
米軍による大量殺戮は他の多くの都市でも行なわれ、3月10日の東京大空襲では10万人以上の命が奪われている。また、唯一の国内戦となった沖縄での戦闘では、実質2ヶ月のあいだに20万人近い日本人が死んだ。
そんな戦争も8月15日に終わるが、その4ヶ月後の12月16日、青酸カリを飲んで自殺したのが近衛文麿である。昭和12年から16年にかけて二度、首相を務め、戦況を拡大させたとして責任を追及された。自殺した日はGHQから「A級戦犯」として出頭を命じられており、その前に命を絶ったかたちだ。
亡くなる前夜、次男に書き残した文章にはこんな一節が。
「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対しては深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは堪え難い事である」
勝者が敗者を裁くという、極めて不公正な極東国際軍事裁判へのせめてもの抗議だったともいえる。
近衛家は藤原氏から出た五摂家の筆頭であり、この年は初代・藤原鎌足がいわゆる大化の改新で権力の中枢に躍り出てからちょうど1300年目だった。歴史家の磯田道史は、藤原一族による長年の政治関与もこれにより終わったと指摘する。思えば、日米戦争というのも、王政的な文化が民主的な文化にとってかわられた象徴的出来事なのかもしれなかった。
◼︎ヒトラーを「生きて生きぬいた代表的な人間」だと評した室生犀星
さて、世界的に見れば、この年を象徴する最大の死者はドイツのアドルフ・ヒトラーだろう。日本にもたらした影響も小さくない。日独伊三国同盟を結んで共闘した国の指導者というだけでなく、英米相手の戦争に踏み切れたのも、ヒトラーの神がかり的な強さをあてにしたものだったからだ。半藤一利は、こんな指摘をしている。
「ドイツが勝つということだけを頼みにしている。つまり、この国は、ドイツの勝利という他人のふんどしで相撲を取るつもりで、大戦争を決意したんですね」
しかし、結果は周知の通りだ。膨大な数の人間から未来を奪ったヒトラーも、4月下旬、未来に絶望する。自殺を決意し、遺書をしたため、内縁の妻だったエヴァ・ブラウンと正式に結婚した。その40時間後の4月30日、ベルリンの地下壕で青酸カリを飲み、自らの頭をピストルで撃ち抜いて、56年の生涯を終えるのである(エヴァも一緒に青酸カリを飲み、死への旅をともにした)。
同い年でもある室生犀星は『随筆 女ひと』のなかで、ヒトラーを「生きて生きぬいた代表的な人間」だとしたうえで、その最期についてこう書いている。
「(略)結婚したあいだの愉しさは、世界を敵に廻して戦ったこの英雄のむねに、何と女というものが人間の命が明日はどうなるか判らないという日に、いかに美しく頼りになるものだかを知らせてくれたことであろう。恐らく世界のなにものも既ういらないが、ひとりの女だけを抱いたヒットラーは、人間の最後にたどりついたところに女がいたことを予想外な気持で、そして有難く思ったことであろう」
この年は、世界史上最も多くの人間が死んだ年かもしれない。それゆえ、いっそう厳粛な気持ちにさせられる。命のあり方について、深く考えさせられる年である。
文・宝泉薫(作家・芸能評論家)