文芸評論家で保守派の論客としても知られた慶應義塾大学名誉教授・福田和也さんが20日、急性呼吸不全で急死した。63歳だった。
「美術鑑賞と同様に読書にも、それなりに必要なものがあるということです。読書もまた機会と場所を選ぶものですし、それを愉しむためには、ある程度の道具立てが必要です。」と語るのが福田和也氏。 “読書がこの世に二つないというほどの快楽である” 理由とは? 選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』から抜粋。
■贅沢な読書と毒書の快楽
本を読むこと、その贅沢さ。豊かさ。
といった、言葉、惹句にあなたはうんざりしているかもしれない。
私も、人から、つまりは私以外の人間から聞いたら、そう思うかもしれません。そういう云いまわしは、世間に溢れています。
読書は享楽であり、この世に二つないというほどの快楽だ。
この言業は真実であるけれども、ほとんどの人にとっては実感がないことでしょう。あるいは、そう感じてはいても、その中身はあまり豊かでないことも多い。
暇つぶしの、独り善がりの、何ごとかをやり過ごしたり、役に立つことを学んだようなつもりになるための、スナック菓子やサプリメント摂取のような読書。
でも、それは贅沢というものではありません。享楽でもないのです。
勉強すること、情報を得ること、時間をやり過ごすこと。それはもちろんとても大事なことです。
けれど、本当の楽しみは、味わいはその外側に、ある。
その楽しみを、楽しみに近づく道を私がお教えします。
と、云うとまた随分厚顔なことを云うものだとびっくりされるかもしれません。
そうですね、たしかにそうかもしれません。でも、なかなかほかの人間には出来ないことだと自負しています。
私は、きわめて享楽的な人間です。
というよりも、享楽や贅沢の魅力に弱い、と云い直してもいいかもしれません。
午後の日ながに、陽光の下で呑むコルトン・シャルルマーニュの、青い巴旦杏(はたんきょう)のように香ばしく清澄なブーケ。仕立てあがったばかりの、リネンのジャケットを掲げるようにして袖を通す心持ち。埃っぽい街を歩きまわった後に、扉を開けた途端に現れる、すべすべとした磁器の感度で見事なまでに掃除されたホテルの部屋。客の行き来がようやく落ち着いて、店仕舞いの甘い予感がひたひたと潮のように寄せて来る時に、無理に所望して注いでもらう、かなり前に廃業して、もう誰も覚えている者もいない蒸留所の、ブレンド・スコッチ。
高潔な宗教家や、堅実な家庭人のすべてが排し、禁じてきた快楽の誘惑に、私はとても弱いのです。浸っていると云ってもいいかもしれません。不必要なほどに手の込んだもの、とても世間とあい渡っていけないほどに優雅なもの、ほとんど反社会的なまでに高価なものといった、賢明な人々が避けるもの、むしろ触れようとすら思わないものの魅力に、私はずっと囚われてきたし、これからも囚われたままでしょう。
私にとって、読書は、このような無用にして高い代償を要求するものときわめて近い間柄にあるものなのです。同じものといってもいい。
本当に贅沢で、豪奢で、背徳的であるまでに甘美な快楽であり、世間の価値観から遠ざかりながら何ら悪びれることなく闊歩する者の倫理をもたらす営為としての読書の道案内をこれから私がいたします。
それは、云うまでもなく教科書じみた、知識とお勉強のための読書でもありません。
己一人に立てこもり、猥雑なものや激しいもの、俗のなかにある深く厄介なものから逃れるための、文学少年、少女のための読書でもない。
無論、暇つぶしや実用のための読書でもない。
悦楽の名前に値する、書物の読み方を伝授いたしましょう。
大ぶりのグラスに注がれた、ブルゴーニュ、コート・ド・ニュイのワイン。その一杯が今、あなたの眼前に据えられています。
あなたがその一杯を、突風のように立ちのぼるブーケと、デビュタントの胸に飾られた先祖伝来の大粒のルビーを思わせる輝きに触れることからはじめて、飲み干した後の意識が遠のいていくような恍惚とした衝撃までは勿論のこと、数日たって、ふとした時に訪れ、蘇る、アロマの強烈な記憶に至るまで、その扱い方、味わい方、含み方までのすべてをお教えしましょう。
『福田和也コレクション1』で、取り上げる作品は、とにかく超一流の作品にしました。
というのも、超一流のものは解りやすいからです。
ワインでも、絵画でも、音楽でもそうです。
超一流のもの、最高の水準にあるものは、きわめて個性的であると同時に、誤りようのない、明確な輪郭をもっています。
ハイフェッツの弾くバッハは、たいしたクラシックの素養のない人の心をも動転させる力があります。
超一流の力とはそういうものです。
ですから、取り上げる作家自体は、非常に高名な、おそらくみなさんが聞いたことがある作家ばかりだと思います。
作品の選択に関しては、けして有名な作品ばかりを取り上げたわけではありません。
たとえば夏目漱石の作品として、『明暗』を取り上げています。
『明暗』は、漱石の遺作として高名であり、文学の専門家の間ではきわめて高い、作家漱石の達成点を示す作品として評価されています。
漱石の他の作品に比べると、けしてポピュラーなものではありません。『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『草枕』、『それから』、『こゝろ』、『道草』といった、誰でも知っている作品(しかし、漱石にはこの「誰でも知っている作品」という奴が本当にたくさんあるのですけれど)にくらべれば、知名度も高くはないですし、実際に読まれている数も、ごくごく少ないように思われます。大学の国文学科の学生さんたちや、よほどの読書家、漱石ファンでなければ読んでいないのではないかと思います。実際、結構な厚さですからね。
にもかかわらず『明暗』を選んだのは、専門家としての見地にたって漱石の最高傑作を紹介したいということではありません。『明暗』を読むことで、ただ漱石の作品、あるいは近代日本の小説という枠を超えて、小説を読むことの面白さ、それもヨーロッパを起源とする社会小説の楽しさを知ってもらいたいのです。
『明暗』を社会小説という呼び方をすると、抵抗感を持つ方もいらっしゃるかもしれません。社会小説というと、どうも労働問題とか貧困といった社会問題を扱った小説であるように受け取られがちです。私が「社会小説」と云うのは、小説のなかに一つの社会が、つまりたがいに異質であり、まったく別の事を考えていて、理解しあうことが難しい、そうした「個人」が集まり交わり、語り、あるいは戦う空間としての「社会」——この場合は社会というよりは、ソサエティといったほうが感じがでるかもしれません——ということです。
こういう社会空間の、スリル、滑稽さ、悲しみ、そしてダイナミズムを味わうことが、近代小説の魅力なのです。『明暗』は、このような「社会」を描いた小説として、とてもよく出来ているのです。日本はもちろん、世界的にみても高水準の作品です。是非、みなさんに『明暗』について読むことで、その魅力を知り、楽しみ方を覚えていただきたいというのが私の目論見です。
ですから、ほかの作品についても、高名であっても、あまり有名でなくても相応の企みと趣向があって、作品は選ばれているのです。
■どういう姿勢で、書物にたいし、接するか
今回の『福田和也コレクション1』で、お伝えしたいことはたくさんありますが、そのなかでもっとも大事なものは、いかに書物にたいするかということ。簡単に申しあげれば、書物を前にした時の構え方です。
構え方、つまりどういう姿勢で、書物にたいし、接するかということ。
これは、云う迄もないことですが、書物というものに接する時には、背筋をのばして、心しずかに、身を清らかにして向かいなさいということではありません。
長らく中国の文化的影響を圧倒的に受けてきたわが国では、読書に対する姿勢もまた、きわめて中華的な伝統の下に置かれてきました。その伝統とは、すなわち読害を行儀作法の上から見るということです。後述しますけれど、これはこれで、たしかに当世風ではないけれど、なかなか大事な考え方、思想であったと思います。
科挙制度の確立とともに中国では、科挙に合格して皇帝のもとで為政者となる読書階級を、人臣の最上位におき、四書五経からさまざまな史書におよぶ古典籍をひもとくことを人間が地上でなすもっとも高貴かつ重要なものとしてきました。
読書を至上の行為と考えていたことは、中国の文化の爛熟がどれほど高い水準に達していたか——古代ギリシアから、イスラム教学の完成期にいたるまで、かくも読書が大きな意味をもった文明はないでしょう——ということを今日に知らせてくれます。けれども、その極端に読書を尊重する気風は、読書をその実際の中身、つまりはテキストを読み解き、味わうということよりも、いかにして敬虔に、恭(うやうや)しくテキストにたいするかということに過度なまでに重点を置く文化を生みました。読書の前には、斎戒沐浴(さいかいもくよく)をし、穢(けが)れた事物を遠ざけ、静かな場所で硯(すずり)を膝元に置き、まず蘭竹を墨で描いて落ち着いた後に、書物に三拝した後に帖を開く。まるで、礼拝のような作法が、読書に際して作り上げられていたのです。
読書が儀式となれば、当然形骸化が進みます。書物が本来もっている、本質的な興奮や喜び、激しさは等閑視され、枯れすぼれてしまい、枝葉末節の語義講釈のみが重要視されるようになります。特に、漢籍を大陸から招来された貴重きわまるものとして、もともと尊重する傾きのあったわが国では、書物を敬い、読書を一種の宗教儀式として見る気風が、極端に発達したのです。江戸期の頃の儒学者や国学者の書物にたいする態度の真剣さ、物々しいとすら云いたくなるような崇拝する心情から、たとえば本居宣長のような、きわわめてすぐれた文献学の業績が生まれるとともに、吉田松陰が育った長州藩の儒家のように、経書を読む時に、虫に刺された痒(かゆ)みに気を散らせただけで、生死に関わるような折檻(せっかん)をうけるような気風を蔓延させました。
明治維新以来、こうした気風、つまりは読書それ自体よりも行儀を尊重するようなやり方は、強い批判を浴び、また反省を強いられました。第二次世界大戦の後に、あらゆる権威が否定されるようになってからはいよいよ、事大主義の排斥は激しくなりました。
本などというものは、ただ活字が並んでいるだけのメディアにすぎない。読むということは、このメディアによって個性的な個人であるはずの読者が、それぞれに活字からの刺激によって精神を運動させ、感覚、感情を覚え、論理、情報を理解することにすぎない。だとすれば、読む行為自体は寝っ転がって読もうと、満員電車の中だろうと、テレビ・ゲームの電子音の下であろうと構わないということになります。
おそらく、こうした考え方が、今日現在の私たちの読書観のもっとも一般的なものでしょう。
大事なのは、書物、つまりは物としての本ではなく、内容である。読書とはその内容をいかに個々人が自由闊達に受け止めるかといったことであって、その外側の約束事とか作法などというものには、何の意味もないのだ。
たしかに、そうかもしれません。けれども、そうでいいのでしょうか。
私には、どうも、ここ百年このかたの日本人は、読書という行為をあまりに抽象的に考えすぎてきたように思われてならないのです。
抽象的というのは、つまりは、物とか振る舞いと切り離しているということです。
もちろん、活字というのが、きわめて抽象的な記号であるという事を考えに入れれば、それは当然かもしれない。しかし、あまり抽象的に考えたために、具体的な物や流儀に復讐されているように私には見えるのです。
復讐とは、こういうことです。お酒のたとえばかりして申し訳ありませんが、いくら高価なワインであろうと、呑み手の感性、感覚さえしっかりしていれば、どんな場所や、器で呑もうと構いはしない、といっているようなものではないのでしょうか。いいお酒を、消毒液の匂いが微妙に漂うファミリー・レストランで呑むわけにはいかないし、パルプ臭のする紙コップで呑むわけにもいかない。そのように当然さけるべきことを知らず知らずのうちにしてしまっているようにも思われるのです。
このことは、美術館、博物館での美術展などを念頭においていただければより分かりやすいと思います。
■展覧会に長時間長蛇の列に並び、美術鑑賞はできるのか
近年、それは背景として中央、地方をとわない公的機関の財政悪化があるのでしょうが、美術館などもどれぐらいの来館者があったか、つまりは「観客動員」を求められるようになりました。この傾向は、学芸員の権限の相対的な拡大(つまりは地方政治や文化団体の小ボスといった連中の展示内容にたいする発言権が低下する)という肯定的な側面もあるのですが、もっとも決定的な影響は、大衆化という現象でしょう。
大衆化というのは、必ずしも低俗化ということを意味しません。むしろ、その内容とは関わらず、大量の動員を目的としたメディアヘの働きかけ、キャンペーンにより、広くその展覧会にたいする興味を作りだし、普及することに主眼がおかれている。
実際、近頃話題になった展覧会の動員の凄まじさは、大変なものです。
二〇〇〇年、大阪市立美術館で行われたフェルメール展などは、週末には入場まで六時間、七時間の行列は当たり前という盛況ぶりでした。近いところでは、東京国立博物館の横山大観展や国立西洋美術館でのプラダ美術館展なども、平日でも一時間以上の行列を余儀なくされるほどでした。
もともと、近代の美術館制度というのは、大衆を主眼として作られたものです。フランス大革命以降、ルーヴル宮殿で王家のコレクションを開放したことがルーヴル美術館のはじまりだったことに示されているように、王侯貴族が独占していた美術品を、一般市民に公開するということが出発点となっていました。つまりは、より多くの人々が芸術の魅力に触れて、教養を高め、精神を豊かにするべきだという考え方です。
もちろん、こうした考え方は基本的に正しいものですし、誰も否定できないものでしょう。けれども、同時にこの正義のために美術鑑賞のあり方は大きく変わりました。貴族たちの館に飾られていた絵画作品は、とりはずされ、美術館の収納庫にしまわれました。メディチ家とかオルレアン家とか名だたる名流が、画家に依頼をしたり、あるいは買ったり、戦利品として奪ったりという経緯のなかで集められてきた作品は、それぞれの時代や画家の流派などによって学術的に分類をされました。初期の美術館は、ルーヴル宮やフイレンツェのウフィツィのように、もともと宮殿などであった建物を転用したのですが、次第に美術館を目的として建てらた建物が使われるようになりました。そうした美術館は、どのような作品の展示にも適応できるように、無限定な空間とニュートラルな内装を持っています。一言でいえば体育館のような場所になったわけです。
このようにして、芸術品は、一部の人々の独占物から、国民の、あるいは人類の共有財産になりました。その事自体はいいことに違いないのですが、それによって明らかに失われたものもあるのです。かつて、貴族や大ブルジョワが談笑するサロンにかけられていた絵が、啓蒙を目的とした無機質な空間に移された時、あきらかに美術品を観る見方、スタイルが変わったのです。それは、個々の美術作品の質とは別の、より包括的な喪失なのです。
前にも記しましたように、こうした人気を集めた展覧会は、その中身もまたなかなかのものでした。フェルメール展にしても現存作品の過半数を集めた学芸員諸氏の努力は賞賛されてしかるべきものでしょうし、スルバランやベラスケスの傑作を揃えたプラダ美術館にしても、なかなか見ごたえのあるラインナップではありました。
しかしまた、いかに展示されているものが素晴らしくても、長時間の行列の末に、まさにラッシュアワーの地下鉄のような人いきれの中を押し合いへし合いしながら絵の前を通りすぎることを美術鑑賞と呼ぶことには大きな抵抗を感じざるをえません。と云いますか、私にとっては、その反対物でしかない。
一人一人の個人は、それぞれに独自の感性をもっており、虚心に絵の前に立てさえすれば鑑賞行為が成立するのだ、という近代的な美術館からすれば、その周囲がどのような状況におかれていようと、観る者がきちんとした姿勢を自分の内心に保持していれば、ちゃんとその絵の本質を把握することができるのだ、ということになるのでしょう。そういう見方があって、はじめてこうした大混雑展覧会の意義は認めることができるはずです。
しかし、どうなのでしょうか。私からすればこういう状況は人を個人から群れに、塊としての存在に貶おとしめてしまうことにほかならないように思われるのです。つまりそこには美術とたいするという本質的なものはどこにもなくて、ただその展覧会に行く、名画の前を歩くということだけが目的化をした、平たく云ってしまえばある種のイベントになってしまっている。ディズニーランドといったテーマ・パークに行くのと変わらない、その内実からすればもっともっと貧しいイベントにされてしまっている。
美術鑑賞という、一人一人の精神なり教養なりを涵養するはずの営為が、むしろ人をして集団化し、無個性化するという、きわめて逆説的な事態、文化をめぐる悲喜劇がそこでは演じられているのです。美術鑑賞には精神的なものだけが大事だとする態度がむしろ精神を貶めている。
そして、こうした逆説が起こることの背景には、美術を見るということにかかわる作法や身構えといったものが消滅をしてしまった、意識されなくなったことがもっとも本質的な要因ではないでしょうか。
美しいものと対する時には、ある程度の静けさと孤独が必要であるという基本が、より多くの人々がよりよいものと接するべきだという文化国家のスローガンの下で空転してしまっている。
本当の事を云うと、私はフェルメール展も、大観展も見ていません。近代日本画にたいしては抜き難い偏見をもっていますから、大観展にはもともと行く気はありませんでした。フェルメールは、丁度京都に用事があったので、相応の覚悟をして大阪天王寺まで出かけたのですが、午前中にもかかわらず長蛇の列をなしているのを会場の傍で眺め、アルバイトの男の子がハンド・スピーカーで何時間待ちとか何とか怒嗚っているのを聞き、一気に気持ちが萎えるとともに、自分がまったく性に合わないことを試みていることを自覚しました。
私は、タクシーを拾い、中之島の大阪東洋陶磁美術館に行きました。この美術館は、戦後日本最大のコレクションとして高名な安宅コレクションが、その家業である安宅産業が経営の危機に陥り散逸の危機に瀕した時、メイン・バンクの住友銀行(当時)が一括して買い上げて大阪府に寄附したものです。
安宅コレクションは、点数こそたいして多くはありませんが、その質の高さにおいて、ロンドンのデヴィッド・コレクション、台湾の故宮博物館と並ぶ三大コレクションの一つとして高く評価されています。特に宋の磁器と高麗青磁については、その質において他の追随を許しません。
嘆かわしいことに、近年ここでも企画展をよく催すようになりましたが、常設展の時には、だいたいいつも空いています。自然光をうまく用いた、ほとんど人のいない展示室を回って、一息つくと黒門町の福喜鮨に行きました。まさに絶品としかいい様のない明石蛸をつまみながら、ネーデルランドの鬼才の作品の前で押しくら饅頭をするのではなく、一人でゆったりと北宋汝官窯の奇跡的な磁器の切れ味と対面することを選んだ自分に満足をしていました。人はそれを自己満足と呼ぶのかもしれませんが。
長々と美術館の話を書いてしまいましたが、私が云いたいのは、ごく当たり前のことです。美術鑑賞と同様に読書にも、それなりに必要なものがあるということです。読書もまた機会と場所を選ぶものですし、それを愉しむためには、ある程度の道具立てが必要です。本を読むことに関しても、美術館を雑踏にしているのと同様の混乱と倒錯がはびこっています。その倒錯は、前に記したように、あまりにも読書といった精神的な体験を抽象的なものに、つまりは精神だけにかかわるものとしてとらえてしまった結果です。
■書物と、緊密な絆を結び、友情を育むとはどういうことか
本を読むこと。書物を愉しむということにも、きちんとしたやり方があるのです。
私は、そのやり方、構えを語ることで、みなさんと書物の関係を決定的なものに、固い絆を結んでいただきたいと思っています。
大学の教員をしていて痛感をしたのは、若い人たちはけして本が嫌いでもなければ、読む力が落ちているわけでもないということです。
現代文芸という講義をずっと担当しているのですが、この講義ではこの「現代」をかなり拡大解釈をして、十九世紀から現在までを扱っています。毎年とりあげる作家、作品は違うのですけれど、一年ごとに日本と西欧を交代で扱っています。
毎回小レポートを課していて、週に一作品ずつを読んで貰います。一作品といっても、ゾラの『居酒屋』とか高橋和巳の『邪宗門』のような、かなりのボリュームがある作品もとりあげますから、毎週、毎週課題をこなすのはかなり厳しい。
その上に、採点基準も甘くはありませんから、履修をするにはそれなりの覚悟がいる科目ですけれど、それでも毎年、相当数の学生が受講をして、大部分が毎週一冊という課題をこなしてくれます。
その講義をやっていて、いつも感に堪えないのは、今の十八、十九の若者たちも、読むことになれば、きちんと本を読める、ということだけではありません。みな読めば面白いし、感動もするのです。若い人たちの感受性にとっては、スタンダールもディケンズも古びてはいない。大古典でなくても、椎名麟三や武田泰淳、梅崎春生といった、一時代も、二時代も前の青年たちを熱狂させた作家たちの作品だって、今日の若い人たちの魂を燃えたたせることができる。
私は、はたと考えてしまいました。
活字離れだ、何だと云われながら、若い人たちは書物に接すれば、乾いた海綿のようにその魅力を吸収する力をもち、またその意欲もある。
にもかかわらず、読む体験自体が貧しく、乏しいのはなぜなのだろうか、と。
手前味噌ですが、私の講義の受講者の大半は、おそらく履修をしなければ一生アンブローズ・ビアスも野間宏の名前も知らず、もちろん読みはしなかったでしょう。それどころか『赤と黒』も、『大いなる遺産』も読まなかったに違いない。
彼らが、それを読んだのは、大学という場所で、なかば高圧的に(つまりは単位取得という強迫の下で)読まされたからにほかなりません。もちろん、他にちゃんとした講義がいくらでもあるのですから、敢えて私の講義を選択するというところには、読書にたいする潜在的な意欲があるとしてもです。
では、教育制度の、なかば強制的な働きかけの下でなければ、もう若い人に読書を、それもややとっつきにくい、コクのある本を読ませることはできないのか。
私は、その点について絶望したくありません。
実際、本を読む力と意欲のある人たちがいるのに、その人たちに本を手に取らせることができないのは、これはいかにも残念なことではないか。同時代に文芸評論家の看板を出していて、恥かしいことではないか、と思ったのです。
情報革命の流れやテレビ、ゲーム、さまざまな娯楽や生活習慣の変化をいいわけにして、活字文化の頽勢(たいせい)を肯定してしまうことは、何とも卑怯なことではないか。
そのような発想の下で、まず書いたのが一昨年に出した『作家の値うち』でした。
拙著については改めて述べませんが、大量に流通している書物の海のなかで、多くの読者が困惑している、大宣伝に乗せられて買って後悔をしているという状況にたいして、一つの指針を提供しようとする試みでした。
『作家の値うち』が、「何を読むか」という疑問に答えた書物だとすると、本書は「どう読むか」に答えた本です。最高の文章ばかりを集めて、その味わい方を、知っていただくための本です。
「どう読むか」といっても、それは通り一遍の方法論ではありません。速読術や情報処理でもありません。
ここで、一番みなさんに知って欲しいことは、本と自分の間に、いかに関係を築くかということ。
書物と、緊密な絆を結び、友情を育むにはどうすればいいか、ということです。
一言でいえば、みなさんの人生の地図の中に、はっきりと、大きく、書物の存在を書き込んでいただきたい。
娯楽や、勉強といった目的にとらわれない、人生にとって不可欠の部分として、読書をとらえていただきたいのです。
その関係の作り方、絆の結び方こそが、本書の目的なのです。
そのために、ここでは、一語一句、じっくり逐語的にテキストを味わっていくところから、場所、時に応じて読むべき本の選択や読み方、読書と会話や飲酒といったことにまで触れていきます。ヨーロッパヘの航空機、食事が一段落した後にポート・ワインを舐めながらヘンリー・ジェームスを読む楽しみから、夏の午後に陽光の下で佐藤春夫の詩について論じあう楽しみまで。かっちりした文学論から、スノッブな愉悦まで、人生の楽しみの大半を、書物とともに過ごすすベをお教えしましょう。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文抜粋)