文芸評論家で保守派の論客としても知られた慶應義塾大学名誉教授・福田和也さんが20日、急性呼吸不全で急死した。63歳だった。

作家・平坂純一氏の福田和也評を再配信する。



 日本の保守論壇がまるで一部のネトウヨ言論人に乗っ取られた状況になって久しい。何故ここまで保守論壇は劣化し、衰退してしまったのか?作家・平坂純一氏はその原因を、「吟味する精神の欠如」と喝破する。あらゆる書物はもちろん、世間に存在し続けているさまざまな関係性について、私たちはしっかり観察し、感受し、考察しているといえるだろうか。あまりに忙しなく情報の渦に絡めとられ、まさに吟味することができていないのではないか。初選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)の刊行に寄せて、そんな「吟味の人 文芸評論家・福田和也」について語る。





「福田和也氏は、平成期における煮ても焼いても食えない老師 石原慎太郎・立川談志・西部邁をこぞって惚れさせた、また、東浩紀が“書き過ぎた人”と舌を巻いた、日本の文芸批評家である」



 



 こう奇を衒わなければならない自分と時代が悔しい。僕は37歳、「文芸評論家の福田和也」に鋭く反応する人々の多くは、僕よりも少々先輩である。思想と歴史、文学と政治、日本と西洋、上位から下位の概念を呑み込んだこの博覧強記、文芸界の大人の相貌を伝えるのに、江藤淳から説明しても今の人間の教養では判らないらしい。僕は四流私立大学にだらだら籍を置いただけで大学教育もロクにありはしないが、折りに触れ、氏の言論には親しんできた。そして、福田氏にお目にかかったことはないものの、周回遅れで西部邁の弟弟子でもある。





福田和也に学ぶ。すべての保守言論人が出直すべき理由とは「吟味...の画像はこちら >>



 



 立川談志家元が「最後は福田が持っていく」と啖呵切ったのは、2009年の「談志の格言」(TOKYO MX)だった。

家元は情愛と敬意を込めて、元気なうちに告げる遺言のように「いずれ天下を獲る。書いているものに人間が見える」と伝え、「とても大事な人ですよ」と付言してもいた。師・西部邁との関わりは『国家と戦争』、『テロルと国家』(いずれも飛鳥新書)や柄谷・浅田とのハイエク論争(雑誌「批評空間」)あたりを掘られるがよかろう。



 



 僕の福田和也初体験は石原慎太郎氏との対談から、「満州国だけでも存続していれば、日本語の話者は今の2倍、僕ら物書きも倍、儲かったはずだ」と豪放磊落に語り合っていた。この話を教養がある風の高校の学友に教えたら、ただただ戦後民主主義的なザコな怯え方をして閉口した。少なくとも、「ある種の政治的意図を持った“お上品な”保守論壇」とは別の次元にある人なのが判らないのかい? そう思った時点で、無意識的に福田和也の思想にアンガージュしていたのかもしれない。



 



 福田和也的「挑戦的な知性」と「世間様とのズレ方」を楽しめないバカが強烈に増殖した。おそらく、小泉純一郎のワンフレーズ・ポリティクスによって政治が死に、大衆主義が跋扈(ばっこ)した“あの時代”の所為だろう。東浩紀が「現実がポストモダン化した」と嘯きつつ、「書き過ぎる人」と福田氏を評したのが2002年。貧すれば鈍する、人が知に触れ学ぶことには経済のそれのみならず余裕を要する。「小説を読む=真面目」と聴いて噴飯する者も減ったようだ。この嘆きは今やスマホとワイヤレス・イヤホンで人心から掻き消されているようだ。

僕は令和の今更、寺山修司の映画『書を捨てよ、町へ出よう』的に映画館から出た客を詰る男の気分になる。



 





 さて、本書『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』は福田和也氏の上品でない保守を標榜しつつ、堆積した知性が絡みあうことで、ある総合性を吾らに突きつけ負託している。内容については先に鈴木涼美氏が解説、二度書いても詮無ない。



 福田和也的な物の見方、そして、そのひとつひとつに「吟味する精神」が宿っていることを僕は指摘したい。





 本書冒頭、バルザック論や川端康成論を繙けば、書物と書き手それぞれに対する愛情が伝わってくる。ひとつは鈴木氏指摘されるように作者と作品、分離するか問題だ。早稲田で渡部直己氏から口酸っぱく分離を強要された僕に、福田氏的言説は対抗的近代主義(コントル・モデルニスム©A.コンパニョン)の態度を思わせる。わざわざ、「あちら」へ喧嘩しに赴く福田氏の営為は『皆殺し文芸批評―かくも厳かな文壇バトル』(四谷ラウンド)でも確認できる。この「作者・作品の総合的理解」の思想が記されているのが、本書の第二部第四章「色川武大 数えきれない事と、やりきれない事と」で溢れている。



 



 凡百の色川武大/阿佐田哲也論あるが、ここまで博打の神髄に迫るものはない。色川の、傍目から見れば堕落主義とその破綻に、あるバランスを見て取る。彼の身体化された賭け事への固執は、判りやすい結果ではなく、あるフォーム、形を要するというのは卓見である。

「トータルという意義が生む無限への抵抗」でありさえすれば、その場の勝ち負けに対する執着は削ぎ落せる。有名な「9勝6敗の美学」の語だけが一人歩きするが、人生なんて大事なことを角力の一場所に見たてること自体が実存を博打と同化させた異常者であり、あまりにも無謀なトータライズ!穿った見方なのだから。



 



 話飛ぶようだが、このトータライズなる見方は福田氏のすべての言説に感じる。本書にはないが、フランス右翼の評伝である氏の処女作『奇妙な廃墟』はフランス史を総観した思索があり、それは本書のフランス文学におけるファシズム擁護者を認めた「セリーヌ 『憎悪と汚辱』」から、五章「絶望の果ての跳躍」の日本浪漫派の保田與重郎論までに溢れ出る。身体性、社会性、そして無限との葛藤、これは総合性に基づいた知性のなす芸であり、保守の神髄である。



 



 第一部第三章「村上春樹を社交的に語る法」はその社会性および社交の問題である。春樹をどう語るか、とりわけ否定的に語るには、やはり芸を要すると云う。僕は性と暴力にしかこの世の救いがない点では判らんでもないなで終わり、高校生の読物として春樹にはろくすっぽのめり込んでいない。かといって東的に「無意識なラノベの走り」と突き放すのも癪である。どう春樹を人に語るか? は読者に与えられた宿題であり、知性を蓄えた者の性格の悪さの出し処であろう。(性格が悪いのは保守の条件である。カネのこと以外で濁りと澱みが判らない右翼には出来ない芸当である)



 



「フェミ本の意外な効用」も笑って読んだ。

人は社会で生きる上で、「イデオロギー」と近接、離反繰り返す。それは「民主主義」「資本主義」すらそうだし、況や「フェミニズム」をや。この頃はLGBTやポリコレ隆盛であり、男女問わない抑圧される/されたことになっている。この時代には判りやすい言葉が流行りがちである。だからこそ、この文で推奨される敵の意図を正確に見定めることが肝要であり、そして、その偏見を偏見として相対化した上で事を計るのは、やはり、その人の総合性を要する。氏の愛する読書の価値もそこにある。



 





 第三部「乱世を生きる」はこの書のサビであり、第八章「価値ある人生のために」は保守にとって重要な、福田恆存以来の、個別・具体的な状況における人生論や社会論が開陳されている。どこか三島由紀夫の『不道徳教育講座』を思わせる逆説的な悪の肯定を思う箇所もあるが、三島のそれは露悪的でチャイルディッシュに思えなくもなかった。清濁併せ飲んで悪徳の在処示すこと、そして、それがより本質的な事に近づく。この自覚は福田氏の随筆が上質に思え、また衒いがない。三島が独仏など大陸系の言葉を解さなかったが故の軽さが関係するのかもしれない。





 そして、第三部第九章「人でなし稼業」で僕は確信した、福田氏は評論家稼業に最初から諦観があるのではないか? 少なくとも、政治と文学に本来、垣根がない。

であるにもかかわらず、現実が直裁的に何かが変わること、そしてその意志に対する諦めから筆を取っているのではないか。そうでなければ、ある書物にあった「考えること、知ることで、人は必ず保守に行き着く(文意)」の言もない筈であり、博覧強記を通り過ぎた蓄積から垣間見られる、彼の繊細な男性性も確認できない筈である。



 



 この書のもたらす、あらゆる書物への「吟味」精神は、学問を愛する全ての若人、保守人士に伝えるべきであり、本書は必携の一冊である。古典もトンカツも普く創作物を平らげるべし! 何もデフレ脱却すれば保守派が勝利の凱歌!…ではない。問題はその次である。昔の左翼の標語に準えれば、「若者よ、“頭も” 鍛えておけ」と換言できる。この書を全部理解できる若手も嫌いだが、理解しようとしない若者はもっとダメだ。談志家元の率いた立川流が、古典落語のみならず講談・端唄・舞踊など古典芸能の全般を体得させられたように、この書を通じて、われら前座・二つ目の前には福田和也氏の精神が屹立するのである。



 『福田和也コレクション1』この労作まで辿り着いた福田和也氏に満腔の敬意を表したい。





 ところで、本格的な落語論や天皇論、野坂昭如、泉鏡花、獅子文六についての文章は次巻を待ったらいいのだろうか?





福田和也に学ぶ。すべての保守言論人が出直すべき理由とは「吟味する精神の欠如」【平坂純一】
 



著者略歴



平坂純一(ひらさか・じゅんいち)



1983年福岡県出身。中央大学法学部卒業後、司法試験よりも保守思想家・西部邁の私塾に執心する。脱サラしてアウトローの生活を送った後、フランスの保守主義に関心を持ち、早稲田大学文学部フランス語フランス文学コースに再入学。

在学中に西部邁の推薦で雑誌『表現者』にて「ジョゼフ・ド・メーストルと保守主義」でデビューする。現在は後継雑誌『表現者クライテリオン』にて、「保守のためのポストモダン講座」を連載中。KKベストセラーズより「ジャン=マリー・ルペン自伝 上巻(仮)」を出版予定。



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