なぜいま小林秀雄なのか? 評論家・中野剛志氏と作家・適菜収氏がは次のように語る。「新しい事態にどうやって対応するか。

小林はこのことをばかり言ってると言ってもいいかもしれない」。まさにコロナ禍はこれまでになかった事態。国民あるいは言論人はこの未曾有の状況にどう身を処したか? コロナ禍でふたりが行った初対談集『思想の免疫力』が8月10日に発売(Amazonは12日発売)。新刊記念としてこれまでの対談を振り返り、再配信。第1回。





■言葉の限界について



適菜:中野さんの新刊『小林秀雄の政治学』(文春新書)、非常に面白かったです。この本はいろいろな読み方ができますが、私は「新型コロナ論」にも見えました。未知の事態、新しい事態が発生したときに、人間は、どのように考え、どのように動くのか。小林秀雄に見えていたものは、凡人や似非インテリの眼には映っていませんでした。



中野:やっぱりコロナっていうのは、念頭に置かざるを得ないというか、コロナ渦に突っ込まれている今の日本、あるいは世界を考えるときに、意外なことですけど、小林秀雄って読むべきだよなという感じがあったのは、おっしゃったとおりです。未体験の新しい事態に人間ってしょっちゅう直面するんですけど、直面して、これまでの理論とか、これまでの既成概念が通用しなかったときに、どう人間は振る舞うべきか、というようなことに小林秀雄の関心が一貫してあったんですね。そのこと自体があまり理解されていない。



 例えば小林秀雄が戦争について語ったことでいうと、一般的には有名な「反省なんぞしない」という終戦直後の発言です。しかし、この「反省なんぞしない」っていう意味も、単なる居直りくらいにみなされて、ちゃんと理解されていないのではないか。あるいは、戦争に「国民が黙って処した」っていう言葉も、それだけが有名なんだけども、その言葉の意味がちゃんと理解されていない感じがしたんです。これらは全部、新しい事態、未知の事態に、どう対処するかっていうようなことと関係している。それだけではない。よく読んでいると、かなり早い段階、つまり批評家として道を歩み出した当初の頃から、後半生に福沢諭吉とか本居宣長について書くようになるまで、あるいは、日本や伝統に対する随筆もそうですが、これらを貫いているのは、結局「新しい事態にどうやって対応するか」、この一点です。小林はこればっかり言ってると言ってもいいかもしれない。



適菜:そうですね。要するにこれは「眼」の問題だと思います。小林が批評の題材としたものは多岐にわたっていますが、一貫して言っていることは「既成概念を通して見るのではなくて、直接、眼で見なさい」ということです。これは、近代人のモノの考え方と逆ですよね。近代社会においては、論理的に合理的に理性的にものごとを考えることが重視されます。

個別のもの、瑣末なものにこだわるのではなく、抽象度をあげて考えろと。しかし、小林は抽象度を上げることの危険を指摘し、個別のもの、瑣末なものをきちんと見ろと言ったわけですから、戦後日本で小林が理解されてこなかったのも当然のような気もします。ちなみに小林はこういうことを言っていますね。「真の科学者なら、皆、実在の厚みや深さに関して、痛切な感覚は持っている筈だ。(中略)だが、科学の口真似には、合理化され終った多数の客体に自己を売渡す事しか出来はしない」(「還暦」)と。



中野:小林秀雄について、まさに典型的な誤解をやったのが、私が『小林秀雄の政治学』の後半で批判した丸山眞男です。丸山眞男のせいで小林秀雄が誤解されるようになったのか、それとも世間の誤解と同じ誤解を丸山眞男がしたのか。いや、もしかしたら、もっと悪質に、故意に世間の誤解に乗っかって、その誤解を自分の権威でサポートして、小林秀雄をおとしめたんじゃないか。そう思いたくなるぐらいひどいんです。



 まさに、概念の操作で物事を理解しようとするような近代人の物の考え方、合理主義といってもいいですけど、それを批判する小林秀雄を、丸山は「あらゆる理論を否定して日常の実感だけを信じているんだ」と決めつけ、反対の極端にまで走らせてしまうんですね。しかし、この本で繰り返し書いたことですが、実は小林は理論それ自体を否定してるのではない。



 彼は「物」っていう表現を繰り返しますけど、「物」すなわちありのままの世界の一部を抽象化したものが理論です。

そのありのままの世界をできるだけ言葉をこらして表そうとする理論というもの自体は認めている。ただ、小林は、理論がないと言っているんじゃなくて、理論は実践や行為の中にあると言っているんですよ。



 しかし、丸山眞男は「小林秀雄は理論を否定して実感に走った」と決めつけた。多分、丸山は、自分は社会科学者として社会科学の理論をやっているのに対して、小林はあらゆる社会科学を拒否して文学に走ったと対比させたいのです。小林秀雄解釈の多くも、そういう理解に立って小林を批判したり、逆に小林を「自分と同じだ」と言ったりしている場合が多いように思う。



 小林自身がはっきり書いているのですが、理論そのものをまるごと否定しているんじゃなくて、理論というものはあるし、必要なのだけれども、その理論を生み出すことがいかに難しいか、ということなんです。あるいは、理論というものには、いかなる限界があるかということ。理論は頭で考えるものじゃなくて、行為とか実践の中から出てくるんだというようなことを、小林はしきりと語っている。そのことを本書では強調させてもらいました。







■なぜ丸山眞男を批判するのか



中野:世間では「小林秀雄は分かりにくい」って誰もが言う。「論理的じゃない」とか「自分だけが分かってる書き方をしてる感じだ」といった感想も聞いたことがある。



 確かに、そういう印象をもたれてるんですけど、私はこの本でそういうことではないことを示せたと思うんです。

自分で読みながら、書きながら思ったんですけど、私に言わせると、丸山眞男のほうがよっぽど非論理的ですよ。ものすごく読みにくいし。小林秀雄のほうがはるかに論理的で分かりやすい。丸山眞男は、言っていることが曖昧だし、特に丸山の小林秀雄批判は、引用や出典の明記もちゃんとしていないし、アンフェアなものです。とても社会科学者の文章じゃない。やはり、丸山の小林批判は、世間一般の誤解とかイメージとかに合わせて書いているのでしょう。どう読んでも、いや、読めば読むほど、不思議なほど小林秀雄のほうが論理的に思えるのに対し、丸山眞男の文章は何を言ってるか分からない。



 ところが、世間のバイアスっていうのはひどいもので、のっけから「小林秀雄は分かりにくい」、「小林秀雄は文学だ」、「丸山眞男は論理の世界の社会科学だ」ということで、きれいに分けてしまっている。小林秀雄のファンですら、そういう分け方をしているのではないでしょうか。



適菜:私も『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』(講談社+α新書)で書いたのですが、小林の文章は別に難解なのではありません。扱っている対象が難解なのでもない。扱っている対象の「扱い方」が難解なのです。

そもそも小林は、言語に馴染まない領域、言葉で簡単に言い表せないものを扱っているわけですよね。だから、論じ方は直線的なものにはならない。たとえば香りは構造的に言語で言い表せないので味覚を比喩として利用します。直接指し示すことができないが暗喩できるものもあります。小林の批評も、外枠を組み立てることで、中心を示すようなものになった。これは小林自身が書いていますが、自分の仕事は公開不可能な具体的な技術だと。切籠の硝子玉を作るような気で、いろいろな側面から、書くようになったと。



中野:全くおっしゃるとおりですね。私も自分で小林秀雄の解釈を書いてて、小林が書こうとしてる領域の扱いの難しさを実感し、小林が言葉で表しにくいようなところをなんとか表現しようとしてるのがよくわかりました。例えば、私が「小林は何を書こうとしてるのか」を一生懸命、解釈しようとするわけです。その解釈を私は自分の言葉でやるんですけど、そのとき、私も切籠細工みたいに、ああ言ってみたり、こう言ってみたりしてといったように、表現する。



 小林秀雄も同じ対象ばかり扱っているのですが、その対象の照らし方が、上からやったり、下からやったり、あちこちから照らして工夫しています。

それが小林の文章を読んでいるとよく分かった。私もまたそのことを言葉で書こうとして、いろいろ工夫しているうちに、自分の言葉のほうが拙いものだから、だんだん面倒くさくなって、最後は「もう、自分で小林秀雄を読んでくれ」って言いたくなった。あるいは、小林秀雄の書いていることを引用するために写していくうちに、全部写したくなってきた。



 「ああ、小林秀雄が書こうとしていることは、小林秀雄が書いてる方法以外では書きようがないのだな」ってことが少しずつ分かってきた。そのうちに、なんのために、この本書いてるのかも、よく分かんなくなってきて(笑)。



適菜:世の中のたいていのものは模倣か引用です。私が書いた『小林秀雄の警告』も引用ばかりですよ。そもそも、世の中にあふれている文章は、出典を明記しないか、出典を特定できない引用にすぎません。小林はこう言っていますね。「模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である」(「モオツァルト」)



中野:だから適菜さんの本『小林秀雄の警告』の最後も「小林秀雄全集を読んでくれ」と書いて終わっていましたね。結局、そういうことなんですよ。小林って、文体をごてごてといじくり回してるんじゃない。非常に簡潔だし、無駄がない。こうとしか書きようがないという書き方で書いているんですよ。ところが多分、世間の小林秀雄ぶった人っていうのは、もったいぶって訳の分からないことを、偉そうにごてごて書いてる。全然、別物ですね。小林の表現は切籠細工のように多面的だけど一面、一面それぞれの切り方は率直だし、すごくスパッと鋭い。だから本当に筆の達人ですね。これを解釈するっていうのは、自分の表現力の拙さを思い知らされるようなもので、本当、途中で嫌になっちゃうところがありました。









■小林秀雄が警告していた「近代の問題」



適菜:保守思想とはなにかと言うと、近代的思考により、切り捨てられたものを重視するということです。数値化、概念化して再構成するという近代の原理の背後に唯一神教とプラトン主義を見出したのはニーチェでしたが、小林もまた近代の問題を一番深いところまで考えていきました。小林はベルグソンを扱いましたが、トンチンカンな奴が批判するように非合理にたどり着いたわけではありません。ベルグソンの言う「直観」とは、モノを丁寧に見るということです。そういう意味において、合理や理性、概念で割り切れるものだけではなく、そこから排除されるものを重視し、近代の内部において思考停止を戒めるのが保守です。だから、保守は単純な反近代でも復古でもありません。



中野:そうそう。ここはすごく重要なポイントなんですけど、保守主義とロマン主義とは違うということです。「保守」に分類される人でも、近代をまるごと否定して、近代世界とは別世界を追い求めるようなロマン主義者がいる。しかし、ロマン主義っていうのは、現実にはあり得ないフィクションの過去を理想視するわけですから、そのロマン主義的な理想を実現しようとすると、相当ラディカルな変革を引き起こしてしまうわけです。ラディカルだってことは、保守ではないということですよ。



適菜:ロマン主義は18世紀末から19世紀にかけて、西欧で興った芸術上の思潮ですが、そこでは自然との一体感や神秘的な体験、無限なものへのあこがれが表現されてきました。だから、右翼の感覚に近い。



中野:右翼です。右翼というのは、ラディカルですね。小林秀雄は「近代の超克」の座談会で、近代じゃないものを持ってくるつもりなんかないんだというようなことを言ってます。近代を批判してはいるけれど、近代から逃げてはいない。これもずっと彼が徹底していることです。確かに小林は、最後に本居宣長に行き着いたり、戦時中とかには平家物語とか実朝とか読んだりしている。あるいは、江戸時代の古学について、しきりと書いている。そして、そういったことを書いているのをもって、小林は日本の伝統に戻ってきたみたいな言われ方をすることもある。でも、そういう復古主義ではないんですよ。



適菜:保守とは近代の内部において、近代的思考の暴力を警戒する立場のことだと思います。福沢諭吉は「保守の文字は復古の義に解すべからず」と言いました。近代という宿命、未知の事態、新しい事態に立ち向かうためには、近代精神を知り尽くさなければならないと福沢は言ったわけです。これは小林も同じです。



中野:そう。小林は近代から逃げない。現実から逃げないというのが、小林の基本的なスタンスです。近代に限らず、今置かれた状況とか運命に、ただ従うっていうことはないけれども、そこから出ていくとか、それと関係ないことを想像するとか、そういうことを徹底的に嫌っている。小林自身がそうだし、彼が書いてる福沢諭吉とかマキャベリとかもまさにそういう立場の人間です。小林は、そういう置かれた状況から逃げない人たちのことばかり書いています。



 この本(『小林秀雄の政治学』)の後半のほうで、小林秀雄が比較的若いときに書いた随筆「故郷を失った文学」を取り上げました。今の日本は西洋文学に完全に染まっていて、そこから抜けられなくなっている。そうだったら徹底的に西洋文学をやってやろうじゃないか。自分たちはむしろ西洋文学をよく理解できるようなところにいるんだと捉えるべきだ、というようなことを小林は語っている。それを「居直りだ」とか批判をされたりしてるんですね。



 小林が歳をとってから書いた福沢諭吉に関する随筆でも、言っていることは同じなんです。福沢は、西洋文明を徹底的に学ぶことで、危機を突破したのだと言うのです。小林が本居宣長に関心を持った理由もまた、同じでした。要するに、話し言葉しか存在しなかった古の日本に、いきなり漢字という書き言葉が入ってきた。しかも、象形文字ときたもんだから、「これ、どうすんのよ?」っていう危機的な状況になった。この危機を古の日本人たちがどう乗り越えたか。徹底的に漢文に熟達し、その結果として訓読という独創的な手法を編み出し、そうやって危機を突破したんだというのです。この点に、小林秀雄はいたく感銘を受けて、「本居宣長」を書いているのです。







■「近代の問題を突破する方法」と「言葉のやっかいさ」



適菜:福沢は西洋文明という未知の事態に対し、どのような態度をとったのか。小林はこう述べています。「福沢の文明論に隠れている彼の自覚とは、眼前の文明の実相に密着した、黙している一種の視力のように思える。これは、論では間に合わぬ困難な実相から問いかけられている事に、よく堪えている、困難を易しくしようともしないし、勝手に解釈しようともしないで、ただ大変よくこれに堪えている、そういう一種の視力が、私には直覚される(「天という言葉」)。やはり「眼」なんですね。



 本居宣長もまず漢字の形を見えてくるまで「眺めた」んです。さかしらな解釈を拒絶し、「馴染む」まで見る。小林はこう言っています。「漢ごころの根は深い。何にでも分別が先きに立つ。理屈が通れば、それで片をつける。それで安心して、具体的な物を、くりかえし見なくなる。そういう心の傾向は、非常に深く隠れているという事が、宣長は言いたいのです。そこを突破しないと、本当の学問の道は開けて来ない。それがあの人の確信だったのです」(「『本居宣長』をめぐって」)



中野:ありのままの現実世界と交わるという実践から始めなければいけないということを小林は言っているのですね。



適菜:ドストエフスキーもロシアのインテリゲンチャの近代の受け止め方の問題を扱っています。小林がドストエフスキーについて書いたのは、日本の近代受容の問題と重ね合わせている部分があると思うのですが、中野さんの本にはこうあります。「西欧の文化に対する劣等感に悩んだロシアのインテリゲンチャたちにとって問題となったのは、『ナロオド』というロシアの土着の民衆(農民)という観念であった。彼らは、自分たちの思想や教養が西欧からの輸入品であって、ナロオドと共有するロシアの文化伝統に根差したものではないという強迫観念に駆られていた」。小林も西欧近代と日本の関係を突き詰めましたが、中野さんに一点お聞きしたいことがあります。小林はロシアの専制国家は、国民の間から自然に発生してくる封建制度というものさえ許さなかったと書いています。中野さんは、そこに西欧から自由主義をはじめとする政治思想だけが流入したところで、ロシアの政治的現実には定着しえない。結局、自由はロシアでは、インテリゲンチャが抱いた観念にとどまるしかなかった、それが過激な直接行動につながったと指摘されています。ベネディクト・アンダーソンは明治革命も公定ナショナリズムに分類していますが、日本には封建制度があったわけで、ここをどう捉えればいいのでしょうか?



中野:議論が複雑になりますが、近代においては国民統合しなきゃいけないので、国家が出てきて国民(ネイション)を人工的に創るという公定ナショナリズムは、確かに明治日本でもあった話なんです。しかしながら、一方で、公定ナショナリズムによって人工的に創られたネイションにも、全く根っこがないというわけではなかった。特に、言語ですね。近代国家は、標準語を定めて国民統合を図り、ネイションを創り出す。しかし、近代国家が定めた標準語と言えども、元々の日本語の母体というのはあるわけです。明治国家が国民意識を創出したというのは間違いないのですが、それにもかかわらず、明治以前と明治以降で断絶があって何もつながりがないのかというと、それも間違いで、連続はある。だからこそ、日本というネイションは、近代以前からあったと想像されるわけですし、想像してもいいわけです。



 ベネディクト・アンダーソンも、言語を重視していますね。彼の『想像の共同体』には、平家物語のイントロの「祇園精舎の~」を引用して「この恐ろしさは日本人じゃないと分からない」みたいなことを書いている。そういった意味じゃ、繰り返しになるんですけど、ネイションは人工的に作られたんだけれども、何もないところから作られたわけではなく、連続性はあるというようなところが、特に日本のナショナリズムに関しては、あるんじゃないのかなという感じがします。



適菜:なるほど。ありがとうございます。



中野:封建社会の問題は、近代の自由とか民主主義とかと関係しています。日本の一般的な理解とか、あるいは丸山眞男あたりが流布した説だと、近代が自由民主主義的であるのに対し、前近代の封建制っていうのは自由民主主義の障害だというような議論になっている。しかし、実は、話は逆で、これは今日の歴史社会学の研究でもそうだし、小林秀雄も分かっていたことですが、近代的な市民社会は、封建制度を基礎にしているのです。



 封建制においては、日本の武士団とか寺社勢力とか、あるいは、ヨーロッパの貴族とか教会とか、自分たちで権力を持った集団が存在している。こうした自立した集団は、専制君主が出てくると激しく抵抗するわけですよ。だから封建制というのは、本質的に分権的であって、全く中央集権的じゃないわけですね。



 他方で、近代っていうのは、中央集権的にやることで国力を高めようとする。国家を統一して中央集権的にやろうとするんですけれども、封建制が根強く残ってるところだと、国家が完全に支配しようとしても、元々あった封建的な勢力が抵抗するのと同じように、個別の自治的な集団が抵抗して、自治を守ろうとする。それが、近代的な自由とか民主主義の原型になります。



 これに対して、封建制がないところは元々、皇帝の絶対権力に抵抗できるような集団が弱いものだから、専制国家になる。ロシアがそう。多分、中国もそうですね。こういった国家が近代化すると、近代化とは国家権力によってやるのですが、それに対する自治的な集団の抵抗もないものだから、近代国家が専制国家になってしまうということなんです。



 日本では「封建社会の残滓があるから、近代的な市民社会ができないんだ」なんて信じて抜本的改革を叫ぶ人が未だにたくさんいますが、実際には、話は逆で、封建社会の残滓がなければ、近代的な市民社会はできなかったのです。



適菜:その部分は『小林秀雄の政治学』の中で、中野さんが述べられていたフリーダムとリバティーの違いですね。市民の権利として社会から与えられたのがリバティ―であるなら、自己を実現しようとする個人的な態度が、小林が言う自由(フリーダム)なのだと。要するに、固有の経験とか歴史に基づき、そこで戦い取られたものなのか、あるいは普遍的自由という形で神格化されたものの違いですよね。概念が神格化されれば暴走して歯止めが利かなくなってしまう。



中野:そうですね。概念の暴走、イデオロギーと言ってもいいんですけど、その根底にあるのは、またしても言葉の問題です。小林秀雄は『様々なる意匠』でも、のっけから「言葉」ってものについて語っています。



 小林は、言葉のことばっかりずっと書いてるんです。言葉は、ありのままの現実をすべて表すことができない。できないんだけども、一方で人間は、物を人に伝えないと生きていけないところもある。でも、言葉は全部を人に伝えることができない。せいぜい近似値でしか伝えられない。文体が下手な人、言葉の扱いが下手な人は、その近似値をとるのが下手だから、平板な表現になる。その平板な表現は、現実というものを一部しか切り取れない偽物なんですが、しかし、一面だけ切って薄っぺらくして伝えたほうが、大勢の人に伝わりやすいのです。適菜さんが仰った「概念の暴走」ってやつです。そういう言葉のやっかいさが、イデオロギーというものを生み出し、社会が人間を非人間的にして支配する根源にあるのです。私は、そのことを小林秀雄から学びました。



(続く)





著者紹介



中野 剛志(なかの たけし)



評論家



1971年、神奈川県生まれ。評論家。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『日本経済学新論』(ちくま新書)、新刊に『小林秀雄の政治哲学』(文春新書)が絶賛発売中。『目からウロコが落ちる 奇跡の経済学教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)が日本一わかりやすいMMTの最良教科書としてベストセラーに。





適菜 収(てきな・おさむ)



作家



1975年山梨県生まれ。作家。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告  近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、『なぜ世界は不幸になったのか』(角川春樹事務所)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志・中野信子との共著『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』(文春新書)、『安倍でもわかる政治思想入門』、清水忠史との共著『日本共産党政権奪取の条件』、『国賊論 安倍晋三と仲間たち』『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』(以上、KKベストセラーズ)、『ナショナリズムを理解できないバカ』(小学館)など著書40冊以上。購読者参加型メルマガ「適菜収のメールマガジン」も始動。https://foomii.com/00171





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