新入生と新入社員が誕生した。そんな彼らがもっとも心配していることのひとつが、「どうやってコミュニケーションをとって人間関係を築くか」ということだという。

その悩みはおそらく入社10年20年経っても変わらないはずだ。しかし、対話には良好な関係を結ぶ基本がある。福田和也著『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)から「大人の対話の仕方」基本のきを、新入生と新入社員に送る。









■良い「生意気」と悪い「生意気」



 礼儀正しく、かつ生意気である、ということは、精力に満ちた若者が、基本的に身につけるべき姿勢であり、態度なのです。



 すでに申しあげた通り、礼儀正しいというのは、けして単純に挨拶や、言葉遣いだけの問題ではありません。無論そうした要素は大事なものですし、そこで間違っているのは話になりません。



 けれど、それ以上に大事な礼儀の本質をついつい見逃しがちです。礼儀とは、相手にたいして十分な配慮をすること、というとごく当たり前に聞こえるかもしれません。しかし「配慮」というものを、多くの人は簡単に考えすぎています。「配慮」を何かしら親切だの、気配りだのといったふるまいと混同してしまっている(それはそれで、大事なものですし、難しいところもありますが)。



 「配慮」とは何よりも、相手の身になった発想をすることにほかならないのですが、その配慮が、平板な丁寧さに終わらないためには、一面的なものではない、相手にたいする知識と関心が必要です。つまりは、相手がどのような人間であり、いかなる状況、境遇にいるか、何に誇りをもち、何に屈託しているのかということについて十分に知悉(ちしつ)し、それだけではなく深い共感をもっていること。

それこそが、配慮とも云うべきであり、また礼儀の本質である、ということにもなります。



 生意気であれ、と云うと躊躇(ちゅうちょ)する人が多いかもしれません。たしかに日本の社会では、とくに緊密な人間関係によって組織された職場等においては、生意気であることは、けして有利ではない、むしろ不利である、ということは、多少とも集団生活の機微にたいして意識的な人は、誰でも認識していると思います。



 私も「生意気な人」になってはいけないと思います。というと矛盾していると思いますか。



 私が云う「生意気な人」というのは、組織の中、特に課とか班といった「小規模の集団」において、自分のおかれている境遇や評価にたいする不満、反発を、自身の「分」を意識的にでも、無意識的にでもはずれることで、表明しようとする人たちです。



 こういう「生意気」というのは、単純に自分の憤懣(ふんまん)を、集団の空気、秩序を紊乱(びんらん)したり、汚染したりすることによって晴らす、ネガティブなものです。それは周囲に迷惑をかけ、不快な思いをさせるばかりではありません。かような行為に身をまかせることによって、自らを冒瀆(ぼうとく)するとともに、自分の立場そのものを損なうものです。



 ちょっと厳しすぎたでしょうか。たしかに、「生意気」な人は可愛げがないわけではありません。しかし「生意気」が、可愛いものであり続けるためには、かなりの努力、意識的な努力が必要です。

それに、こうした職場での「生意気」は、自分の周辺、先輩とか上司にたいして発揮されるものであって、「生意気」なようで「生意気」ではない、と云うと解りにくいでしょうが、要するにたいして上位でもない相手にたいして発揮されている「生意気」にすぎないのです。



 大学で教員をしていますから、毎年たくさんの若い人と知り合うことになります。特にゼミで新しい学生と出会うのは大きな楽しみですね。



 私のゼミでは、最初の自己紹介をする時に、ここしばらくで読んだ本、見た映画、聴いた音楽などから、気に入ったものを何でも一つ挙げてもらいます。そうすることで、その人がどんな人となりかが解るし、またその後の会話の接ぎ穂にもなる。



 こういう場合、もちろん正直に云ってもらって構わないのですが、自己演出の場とすることも可能です。その演出の目的が聞き手、ここでは私ということになりますが、私の関心を引くことであれば、いかにして印象づけるかが演出の眼目になる。そこで、「音楽はグレート3、本はボルヒャルトの評論集を読みました」などという話を聞くと、「コイツ、生意気な」と思うけれどやはり関心をもたざるをえない。











■宮本輝さんの貫禄



 一方、よくない生意気は、例えば私の著作にたいしてツッコムといったタイプの自己主張の仕方ですね。そういうやり方は、礼を失するだけではなくて、粗放で的をはずれた形になりがちです。周到なリサーチが出来ていない以上、批判は批判である程度関係を作ってからじっくりやればいいのです。



 だから、「生意気な人」は生意気といっても、緊張もなければ、勇気もいらない。

せいぜい職場での軋轢(あつれき)を覚悟するくらいなので、たいしたことはない。それは、他者にたいしてのみならず、自分自身にたいしての甘えでもあるのです。それは、自恃(じじ)をもつ者にとっては、いたたまれないくらい恥ずかしいふるまいではありませんか。



 私が云う「生意気」というのは、もっとしっかりした、というか誇り高いものなのですね。自分よりも圧倒的な相手にたいして、敢えて切りつけようという覚悟と緊迫が必要なのです。それは時に傲慢に似ているかもしれませんが、有力な相手にたいして傲慢であることがもたらす危険を十分に意識した傲慢さであるならば、つまり自らが意識的に引き受けたものであるならば、構わないのです。それは円満ではないかもしれないが、緊張と気迫に満ちているでしょう。



 そして、このような気迫や緊張こそが、一日に何人も初対面の相手と話をするような有力者に、あなたを認識させる、あるいは言葉を届かせることを可能にするのです。



 大体、ある程度の地位なり力量をもった人間にとって、若い人に期待するものとは、生意気さだけなのです。もちろん生意気な若い人を嫌う有力者もいます。でもそういう人は、若い人のエネルギーや、型破りさが鬱陶しくなってしまっている、つまりは精神のキャパシティが衰えつつある人なのです。



 このように衰えてしまった人を相手にしても仕方がありません。

そういう人は、いずれにしろその地位、あるいは力を早晩失うでしょうし、若い人にチャンスを与えたり、あるいは意見や提案を聞いたりするような柔軟性にも活力にも欠けています。ゆえに特段配慮をして相手にする必要もないのです。むしろ、この生意気さを受け止める度量があるか、と相手を測るというほどの気構えで対すればいいのです、きちんと「礼儀」を弁(わきま)えてさえいれば。



 さらに、気迫は、若い人を魅力的なものにします。それは安易な媚の数倍輝くものですし、しかも誘惑的な姿勢のように、あなたを間違った場所に連れていくことはありません。たしかに仕事以上の関心を「生意気」なあなたに抱く可能性はあるでしょうが、しかしそれは「媚」のもたらす、「与くみしやすい」というような姿勢のものではなく、ある程度の尊重をともなったものでしょう。



 ここまで読んでいただければ、お解りだと思いますが、「礼儀正しい生意気さ」は、ただ自己紹介の時にとるべき態度であるだけではありません。若く、これから世間で旺盛に生きていく意志をもった方たちすべてがとるべき基本的な姿勢なのです。



 一方、もはや誰も疑えないほどしっかりと自分の立場を築き、作り上げている人にとっては、「生意気」とは逆に、気さくさや、率直さが大きな魅力となります。つまり若者が、「生意気」によって自分の「分」の上に出るとすれば、仰ぎ見られる人々は、自分の「分」の下に出てみせるのです。



 私はもう四十にさしかかっていますが、文壇といった場所でまだ「若手」と呼ばれています。その若手の中では、もっとも生意気かつ攻撃的とされていて、年配の方には煙たがられますし、嫌われることが多くて、相手から声をかけてもらうようなことはほとんどありません。



 数年前、ある文壇のパーティで編集者と話し込んでいたら、向こうから宮本輝さんが近づいてきました。「あっ、宮本輝だ」と思っていたのですが、もちろん面識もないし、誰か編集者に紹介してもらわなければこちらから話しかけるわけにもいかない。と思っていると、すすっと寄ってきて、「僕、宮本輝といいます。あなたの文章、いつも読ませてもらっていますが生きがよくて面白いですね。楽しみにしています」とだけおっしゃって去っていった。



 これはかなり爽やかでしたね。たいして偉くもないのに勿体(もったい)ぶってばかりいる大家気取りの作家が多いなかで、宮本さんのような、本物の大家が、自分から若僧に声をかけて、威張り散らすのでもなく励まして去ってゆく。経歴と貫録を重ねれば重ねるほど、柔軟さと率直さが価値をもつのだ、と認識させられました。



『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文一部抜粋)





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