コロナ禍は「歴史を学ぶ」チャンスでもある。それはなぜか? そもそも「歴史を学ぶ」とはどういうことなのか? 『小林秀雄の政治学』(文春新書)を著した評論家・中野剛志氏と、『コロナと無責任な人たち』(祥伝社新書)を著した作家・適菜収氏が、学問と人間の体質、 小林秀雄とヘーゲル、仁斎と徂徠、西部邁と『表現者クライテリオン』などについて縦横に語り合う。







■小林秀雄が語った「朝鮮出兵」の話



中野:以前の対談でも述べましたが、日中戦争が始まったばかりの頃、小林秀雄は戦争協力するための講演の中で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の話をします。大陸侵攻を日本がやっている最中に、戦意高揚のための講演だというのに、その場で小林は縁起でもないことに、秀吉の朝鮮出兵の失敗の話をするのですよ。まったく、いい度胸してますよ。小林が言いたかったのは、こういうことです。どうも自分も大陸に渡ってみたら非常に広大な平野が広がっていて、こんな世界は見たことがない。日本とはまるで違う。恐らく秀吉の朝鮮出兵のときにも、当時の日本軍は全く見たこともない世界、全く見たことのない戦い方をする相手とぶつかった。秀吉が朝鮮出兵に失敗した理由は、耄碌(もうろく)していたからではない。むしろ秀吉は日本で天下統一を成就するほどに、外交でも軍事でも秀でていた。その能力は、桁外れであった。だからこそ、失敗したのです。それは、日本国内での天下統一の過程では通用していた自分の理論が全く状況の違う、環境の違う世界では全然当てはまらなかったからです。

俗に言う「成功体験に引きずられて失敗する」ってやつです。成功した人間だからこそ、未知の事態ではむしろ失敗するというパラドックスを小林は語ったのですね。





適菜:はい。





中野:未知の事態はそういう恐ろしいものです。「俺だったら、もっと利口にやったのに」などという話は通用しない。利口な人間だからこそ失敗するのです。知性の限界。不確実性の恐ろしさ。未知の事態の恐ろしさ。それに直面した時に、人間は、どう生きるか。これは前々回の福沢諭吉の話も同じで、これまでとは全然違う西洋文明という未知の文明に触れ、近代世界という全く新しい事態に直面して、どう処したかという話です。小林は、そういう未知の事態に放り込まれて格闘する人間のことばかり取り上げています。



 秀吉についても、そのことを言ったわけです。日中戦争の最中にこんな話をしているということは、日中戦争で負けるとはもちろん断言はしていないけれども、この戦争は相当困難なもので下手をすると失敗するぞというのは、やっぱり暗示しているわけです。この戦争に際しては、「東亜共同体を建設するんだ」とか、そういう言説がいろいろ出ていました。これに対して、「この新しい事態を、そういうありきたりの理論や知識で考えようとする知識人はだめだ」と言っていた。





適菜:小林がすごいのは、秀吉の失敗の理由を「安心したかった」と喝破したところです。新しい事態が発生すると、誰もが不安になる。そして早く安心したくなる。そうすると、自分の蓄積した知識や過去の成功体験を探してきて、手っ取り早く解釈しようとする。こうした人間の弱さを小林は秀吉の判断に見出したわけですね。







中野:新型コロナを見て、インフルエンザみたいなものだと高をくくっていた人たちも、早く安心したかったんですね。





適菜:歴史をどう見るかという話ですが、歴史とはきれいに事実が並べられているようなものではない。小林は歴史を因果律で見ると間違えると言いたいのでしょう。



《こうあって欲しいという未来を理解することも易しいし、歴史家が整理してくれた過去を理解する事も易しいが、現在というものを理解する事は、誰もいつの時代にも大変難しいのである。歴史が、どんなに秩序整然たる時代のあった事を語ってくれようとも、そのままを信じて、これを現代と比べるのはよくない事だ。その時代の人々は又その時代の難しい現在を持っていたのである。少なくとも歴史に残っているような明敏な人々は、それぞれ、その時代の理解しがたい現代性を見ていたのである》(「現代女性」)



 後世の価値観で後知恵で「歴史」を語っても意味がない。小林は、封建時代というものを設定し、その時代の思想や道徳に、「封建」という言葉を冠せ、「封建道徳」「封建思想」と呼んだところで、その時代の道徳や思想はわかるものではないと言います。どの時代も矛盾や混乱があったのであり、その中で苦しみ、生活をしていた人々を理解しようとしなければ歴史はわからない。



 歴史は「生きているもの」「動いているもの」だと小林は言います。小林は自然科学のような実証主義が、歴史の命を殺してしまったと言う。歴史とは諸事実を発見したり、証明したりといった退屈なものではない。歴史を考えるとは歴史に親身に交わることなのだと。



《調べるという言葉は、これとは反対の意味合いの言葉で、対象を遠ざかってみるという言葉だ。今日の歴史家は歴史と交わるという困難を避けて通っているのだよ。

歴史という対象は客観化することはできない。宣長は歴史研究の方法を、昔を今になぞらえ、今も昔になぞらえる、そのような認識、あるいは知識であると言っている。厳密な理解の道ではない、慎重な模倣の道だというのだな。この方法は歴史学というものがある限り変わらない。変り得ないと私は思っているよ》(「交友対談」)







中野:小林は、数学者の岡潔との対談で言っていますが、批評をうまくやる極意というのは、批評する相手になりきることだというのです。小林が「秀吉は早く安心したかったんだろう」と見抜けたのは、秀吉になり切って想像したんですね。当時の状況、秀吉の置かれた立場に、自分の身を置いて考えてみた。それがうまかった。想像力が豊かだった。



 歴史の読み方として小林がしきりに言うのは、「歴史とは上手に思い出すことだ」ということです。そういう意味では、秀吉に上手になりきったんですね。「俺が秀吉だったら、こういう事態に置かれたら、さっさと自分の既存の知識で安心したがるだろう。

なぜなら人間は日常的にそういうことがよくあるし」と、多分そういう想像を働かせた。この想像力で歴史を見るのが小林のうまさだし、それこそが、正しい歴史学の在り方だと思うんです。





適菜:小林は歴史を読むとは、鏡を見ることだと言います。「歴史とは鏡である」という発想は、鏡の発明とともに古い。『大鏡』も『増鏡』も歴史の話です。小林は歴史とは鏡に映る自分自身の顔を見ることだと言います。歴史に自分の顔がうつるとはだれもはっきり意識していないが、だれもがそれを感じている。歴史に他人事とは思えぬ親しみを、面白さを感じ、その他人事をわが身のことと思うことが歴史を読むことであると。





中野:歴史を客観的な状況だけで説明しようとする、当時流行っていたマルクス主義の唯物史観に対して、小林は一貫して異を唱えた。それは、唯物史観が、上手に思い出す、秀吉になりきるといった想像力のことを軽視していたからでしょう。もっとも、小林的な歴史学の方法だと、歴史上の人物にうまくなりきれる人と、なりきれない人がいるので、小林以外の人ではうまく思い出せない。歴史家の主観に依存するような側面がどうしても残っちゃう。

しかし、読み手によって理解が変わってくるようなものは、科学じゃない。だから歴史を客観的な科学にしたければ、そういう主観に頼るものであってはいけないんだという発想が、多分、唯物史観の考え方にあったんでしょう。それに対して小林は、非常な違和感を表明しています。歴史学の方法としては、小林のほうが正しいです。







適菜:だから左翼の歴史観や世界観は非常に薄っぺらなものになる。事実を並べれば歴史になるという発想は小学生レベルのものです。歴史は歴史家が作り出すものです。E・H・カーが言っていますが、カエサルがルビコン河を渡ったのは歴史的事実だが、それ以前にも、それ以後にも、ルビコン河を渡った人間は星の数ほどいると。しかし、彼らについての資料は存在しないし、誰も関心を持たない。つまり、歴史家の選択や解釈から独立した客観的で科学的な歴史認識などありえないと。だから、歴史研究は歴史家研究にそのままつながるという話です。小林はこう言っています。



《ヘーゲルの史観は、ブルジョワ階級の文明の進歩の考えに、よく適合していたし、この虚を突いてあらわれたマルクスの史観も、歴史の必然の発展による新しい階級の交代を信じていた。要するに、一九世紀の合理主義の歴史観は、社会の進歩発展という考えにかたく結びつき、過去の否定による将来の設計に向かって、人々を駆り立てた》



 こうした弁証法により過去は死んだと小林は言うわけですね。



《あらゆる歴史事実を、合理的な歴史の発展図式の諸項目としてしか考えられぬ、という様な考えが妄想でなくて一体何んでしょうか。例えば、歴史の弁証法的発展というめ笊で、歴史の大海をしゃくって、万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼ沙魚を得ます》(「歴史と文学」)



 小林が言いたいことは、史観は歴史を考えるための手段であり道具にすぎないということです。



《唯物史観に限らず、近代の合理主義史観は、期せずしてこの簡明な真理を忘れて了う傾きを持っている。迂闊で忘れるのではない、言ってみれば実に巧みに忘れる術策を持っていると評したい。これは注意すべき事であります。史観は、いよいよ精緻なものになる、どんなに驚くべき歴史事件も隈なく手入れの行きとどいた史観の網の目に捕えられて逃げる事は出来ない、逃げる心配はない。そういう事になると、史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様な事になるのである》(同前)





■学問とは一代限りなのか?



適菜:小林は批評の題材を使って自画像を描いたとよく言われます。モーツァルトが模倣の果てに何かを生み出したという話をするのは、自分に重ね合わせているわけですね。ピカソの目の見え方、兼好法師の目の見え方、モネの目の見え方に驚愕するということは、「それに驚愕する自分の目の見え方」に驚愕しているということです。小林はこう言っています。



《大切なことは、真理に頼って現実を限定することではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考えることによって抽象化するのではない、見ることが考えることと同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである》(「私の人生観」)



 前回の対談でも述べましたが、宣長の学問の方法も全く同じですね。現代人の「さかしら」な解釈により古典を理解するのではなく、古典の「姿」「形」が見えてくるまで見たり、声が聞えてくるまで聞くということです。小林は言います。



《歌は読んで意を知るものではない。歌は味うものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努める事だ。ある情からある言葉が生れた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。これが宣長が好んで使った味うという言葉の意味だ》(「言葉」) 。





中野:そうすると、「理解」というものには、つらいところがある。先ほども言ったように、想像力が豊かな人じゃないと、歴史を理解できない。それと同じで、モーツァルトとかピカソのことを小林が理解できたのは、小林が彼らと同じようなタイプだからですよね。自分が同じようなタイプだから、ピカソの絵とかモーツァルトの音楽とかに共感し、追体験し、理解することができた。だとすると、ピカソやモーツァルトは、誰でもみんなが理解できるようなものじゃないということになる。これは前々回の対談の「説得不可能」という話と同じです。



 そういうわけですから、小林についても、本当に誤解が多いと思いますね。もちろん、「私は、小林を全部理解した」とか、「私は小林と同じタイプの人間です」とか言う気はありませんが。小林もピカソやモーァツルトを全部理解しているわけではないんでしょうけれども。これは、学問というものを考える上でも、実に恐ろしい話です。人のことは理解できないし、自分のことを他人に理解させることも一生できませんということと同じで、理論とか思想というものも、一代限りだ。従って、もし思想史というものがあるとしたら、それは飴のようにつながって伸びているというものじゃなくて、数珠玉みたいになっているはずだと小林は言っています。つまり、思想は、思想家ごとに一つ一つ、あるものなんだと。







適菜:柳田國男の学問も一代限りだと小林は言っていますね。柳田は一四歳のとき、茨城県の布川にある長兄の家に一人で預けられていた。隣りには旧家があり、そこにはたくさんの蔵書があった。柳田は身体が悪くて学校に行けなかったので、毎日そこで本ばかり読んでいた。その旧家の庭に石でつくった小さな祠があった。そこには死んだおばあさんが祀られているという。柳田は祠の中が見たくなった。そして、ある日、思い切って石の扉を開けてしまう。





中野:すると中には蝋石(ろうせき)が入ってた。





適菜:そうです。そのとき 柳田は実に美しい珠を見たと思った瞬間、奇妙な感じに襲われ、そこに座り込んでしまい、ふと空を見上げた。よく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えた。昼間に星が見えるはずがないことは知っていた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしてもとれない。そのとき、鵯(ひよどり)が空を飛んでいて……。





中野:そう。鵯がピイッと鳴いた。





適菜:それを聞いて柳田は我に帰った。そして、 もしも、鵯が鳴かなかったら、自分は発狂していただろうと柳田はいうわけです。小林はこうした柳田の感受性が、彼の学問のうちで大きな役割を果たしていたと言うのです。柳田の弟子たちは、彼の学問の実証的方法は受け継いだが、感受性まで引き継ぐわけにはいかなかった。だから、小林は「柳田の学問には、柳田の死によって共に死ななければならないものがあった」と感じたのです。





中野:そういった意味では、学問は、なんとか学派とか、なんとか主義とか言うけれども、本当の学問にはそんなものはあり得ない。マルクス主義はなくて、マルクス一代限りとか、みんな一代限り。前回の対談で、指導教授の下で徒弟制みたいに学ぶ話をしたけれども、結局、学んだところで指導教授と同じものを継ぐのではなくて、違うものができる。弟子は、弟子のキャラクターと密接不可分な自分の理論を生み出す。そういう話も、小林が面白がっています。例えば、直接の弟子ではないにせよ影響を受けたという意味では、仁斎と徂徠。徂徠は仁斎と直接接してはいないけど、師として仁斎に学んで、仁斎を越えた。仁斎の古学を学びながら、徂徠独特の学問である徂徠学を作っちゃった。しかし、蘐園学派、徂徠の弟子たちの学派は、徂徠学ではなかった。



 あるいは、賀茂真淵と本居宣長。お互い批判し合いながらも、どこか認め合っているような師弟。真淵のことを宣長は心から尊敬していたけれども、宣長は宣長、真淵は真淵というところが残ってしまい、突き詰めると、どうしても折り合えないものがあって、それぞれ真淵学、宣長学になっていく。非常に美しい話です。





適菜:「意」を受け継ぐことはできても、体質は受け継ぐことはできない。しかし、身の振る舞い方、立ち居振る舞いは真似することができる。それが師弟関係ということですね。仁斎と徂徠、真淵と宣長の話もそうだと思います。





■学問や思想が腐りやすい理由



中野:前々回の対談で、小林は若い頃は必死になって批判したり論争したり、説得したりしたけれども、途中から諦めてしまったという話がありましたね。自分の体験とか生来の気質みたいなものが学問や思想と密接不可分になっている以上は、それが言葉による説得によって伝わると考えること自体が、もはや傲慢と言っていい。





適菜:だから「小林に学ぶ」ということは、小林の姿や立ち居振る舞いを見るということになりますね。





中野:姿を見た上で、それを徹底的に真似てみるが、出来たものは、小林とは違うものになる。小林を信じて、小林と違うものを作っちゃう。小林と同じような暗黙知を持っていない、経験を持っていない人間には、小林の言いたいことの想像はできない。だから、若い時分に小林秀雄を読んでも分からないのは、人生経験が不足しているからですね。でも、年を重ねて、いい経験を積んでから読むと、小林秀雄は難しくないことが分かるのですよ。



 しかし、もともと、小林と同じような気質がなければ小林の思想は全く理解できない。仮に理解したとしても、小林の言っていることを再現する過程で自分の本来の気質が入ってくるので、出てくる小林秀雄像は、小林自身が考えていることとは完全には一致しない。小林を解釈した結果、言わば、小林と自分が重なったものが出てくるわけです。





適菜:凡百の「小林秀雄論」について、小林自身はこう言っています。《わかったつもりで書いているんだろうが、おれのことをほんとにわかって書いた人は一人もいないね、結局は創作だよ、その人の》(高見沢潤子『兄 小林秀雄との対話』)





中野:もし小林と語り合えたなら、「お前とは、そこは違う」と言って延々二人で論争することになるけれども、経験や気質が近ければ、そして一流の人間同士ならば、意見の一致はみなくても、お互い、相手には敬意を表することにはなる。これが学問の面白さ、楽しさで、こういうふうなことが面白いから、孔子や仁斎の周りにも、弟子が集まってきたのでしょう。「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」というわけです。そういう学問の交わりとは、なんとかクライテリオンとかいう雑誌のように、徒党を組むということとは違うんですよ。





適菜:ネット上で「失言者クライテリオン」という言葉を見かけました。





中野:世話になった故人のことをあまり悪くは言いたくないけれども、雑誌『表現者』を主宰した西部邁先生が間違えたのは、そこじゃないかと思う。結局、彼の気質は運動家だったので、徒党を組んだんですよ。徒党を組んで、思想運動をしようとしていたんです。しかし、小林秀雄は、思想はあくまで個人のもので、徒党の思想運動を嫌っていました。この年になってつくづく思うのですが、私は、小林の方が正しいと思いますよ。





適菜:福田恆存も指摘していますが、保守は性格上、徒党を組むようなものではないんですよね。





中野:そうです。『表現者クライテリオン』はその徒党の性格をもっと露骨な形で引き継いでいるように見えますね。西部邁先生の『表現者』も確かに思想運動ではありましたが、個別の問題に関する意見は違っても、それなりの言論人だったら登場させるようなところがありました。ところが、藤井氏の『表現者クライテリオン』には、個別の問題に関して意見が同じだったら、どんな低劣な言論人でも登場する。藤井氏は、消費税反対の徒党を組むため、あるいは緊急事態宣言反対の徒党を組むためだったら、誰とでも手を組み、利用しようとするのです。思想運動を「徒党」と言い、「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」を学問の「社交」と言うなら、徒党と社交は、全くの別物です。徒党を組みたがる連中は、社交を知らないガキですね(笑)。この徒党の問題は、『小林秀雄の政治学』で書きましたが、小林が繰り返し論じた「政治」と「文学」あるいは「思想」の区分の問題に深く関わってきます。



 あの本で書いたとおり、小林は「政治は虫が好かない」とは言いましたが、政治を否定したり、眼を背けたりしていたわけではありませんでした。政治は集団にかかわるものであり、人間は集団行動をとらずには生活できないことを、小林は重々承知していた。だから、政治は、生活の管理技術に徹すべきだと小林は主張しました。



 しかし、思想や文学は、これまで二人で論じてきたように、各個人、もっと厳密に言えば、個人とその周囲の環境、あるいは一言で言えば、その人の「生」といったものと密接不可分なものです。ですから、思想や文学は、個人に固有のものであって、集団のものではない。つまり、政治とは別の領域に属する営みなのです。



 ところが、集団を動かそうとする思想がある。本来、個人のものであるべき思想が、集団という政治の領域にからむ。思想が政治化する、あるいは思想が政治に汚染されると言ってもいい。そういう集団を動員しようという政治化された思想が「イデオロギー」です。小林が忌み嫌ったのは、このイデオロギーでした。





適菜:ル・ボンは《群集はいわば、智慧ではなく凡庸さを積みかさねるのだ》と言いました。これは愚かな人間が集まっても意味がないということではなくて、相当なインテリでもつるんでいるうちにバカになるということです。群集の中では個人を抑制する責任観念が消滅し、野蛮で凶悪な破壊本能が出現する。昔、ちょっと調べたのですが、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学バークレー校、カーネギーメロン大学の合同研究チームが脳のMRIスキャンにより「人は集団で行動すると道徳観が薄れ、倫理的思考ができなくなる」ことを裏付ける脳の働きを発見したそうです。





中野:ですから、小林に言わせれば、思想運動などというものは、邪道ということになる。思想は個人のもの、運動は集団のものだからです。徒党を組んで思想運動をやろうとすると、思想は汚染されてイデオロギーに堕するのですよ。イデオロギーは、徒党・集団が形成できれば、つまり群れができれば成功ですが、群れていては、福沢諭吉が目指した「私立」など不可能です。



 だとすると、思想運動をやろうという雑誌は、「思想」ではなく「イデオロギー」の雑誌だということになります。そもそも、「思想運動」などという言葉が形容矛盾なのですよ。運動する群れの中になんか、本当の人間の思想はないのですから。





適菜:本当にその通りです。保守を自称しておきながら「国民運動」を始めると言い出す集団もありましたが、頭が悪いにも程がある。







中野:昨年、私と適菜さんと佐藤健志さんで鼎談して、藤井聡氏のコロナを巡る言説を批判したでしょう。すると、「同じ保守なんだから、そんなことで内輪もめせずに、仲よくすればいいのに」みたいな余計な世話を焼きたがる人が出てくるわけです。確かに、徒党なり運動なりが大事なんだったら、その通りでしょう。しかし、徒党や運動で群れることを優先するような「私立」ができない精神なら、思想だの文学だのは一切やめた方がいいですね。





適菜:『表現者クライテリオン』が失敗した原因は、編集者と執筆者の区別をきっちりつけなかったからではないでしょうか。通常、原稿には編集による選別、校正、校閲といった過程が入りますが、編集者と執筆者が一体化すれば、同人誌になってしまう。雑誌としてのバランスや、多様な意見を載せるのではなく、編集長の企画の方針に応じるような人ばかりに原稿を依頼していたら、どんどん偏ったものになっていく。公私混同ということです。





中野:西部先生がやっていたときも、執筆依頼には企画の方針が書いてあって、西部先生のいつもの持論がダーッと書いてはありました。でも、末尾には「こういう時代状況も参考にしつつ、ご自由に筆をふるってください」ぐらいのことしか書いていなかったですね。





適菜:あのときは編集者がいて、編集長がいて、西部さんが顧問だったわけですよね。でも、今は編集長が最前線に出てきて、執筆から対談からコラムから、すべてをやっている。要するに、自分の主張を垂れ流す媒体にしてしまった。そういうことはメルマガでやればいいんです。





中野:ただ、西部先生の『表現者』の場合も、執筆依頼には確かに「ご自由にお書きください」ってあったけれども、それを真に受けて、実際に西部先生の主張とまったく違うことを書くような大胆な執筆者は少なかったですね(笑)。西部先生の持論に忖度するような内容が多かったと思いますよ。そうやって忖度するもんだから、徒党がまとまるわけ。確かに、思想運動としては見事に成功している(笑)。



 ところが、西部先生って困った人で、自分で思想運動をやっていながら、忖度された原稿には退屈していた感じでしたよ。確かに、執筆者の個性が消えた忖度原稿が面白いわけがない。でも、それは、思想運動なんかやってるのが悪いんですよ。徒党や運動の中では、思想はあり得ないという、小林秀雄が正しかったことを証明するような話です。





適菜:運動は必ず劣化します。指導者に忖度しているうちに周辺がイエスマンばかりになり、まともな人は離れていく。





中野:まともな人が離れて運動が瓦解するようでは、運動あるいは「政治」としては失敗でしょう。しかし、運動から離れることで、その人の「思想」は、逆に成功したと言えます。



 そこで一つ、また、別の難しい論点が出てくるのです。というのも、徒党を組むと思想は確かに駄目になるが、その一方で、前回の対談でも話題になったように、初めは師匠を信じて師弟関係を結ばないと、学問の暗黙知は獲得できないというところがある。



 この徒党を組むことと、徒弟制に入ることとの違いのどこに一線を引くかは、意外と難しい。というのも、こちらが未熟な段階で小賢しく「先生、それ違いますよ」と言って、師弟関係を解消してしまったら、もうこちらの成長はないわけです。そうすると、初めは師匠を信じてみないといけない。だけれど、世の中には、思想運動や学派という猿山のボス猿になりたいという野心をもっている大学教授や知識人がいるわけですよ。よく学生や助教に対して威張ったり、いたぶったり、怒鳴り散らしたりする大学教授がいますが、そういう手合いですね。そういう学者のクズは、「思想」ではなく、学界や言論界の「政治」をやっているのです。



 そんな学者のクズを不運にも師匠として信じてしまった結果、その師匠に操られ、師匠に追従していくうちに、有望な学生の思想の芽が潰れてしまう。そういうことも多いのではないでしょうか。



 あるいは、学者がお互い切磋琢磨し、学問を高めていくためには、科学者の共同体に入る必要がある。学者同士の交流は極めて大事ですし、それこそ、「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」というわけで、楽しい。だから、孔子の周りにも人が集まった。その意味では、優れた学者を慕って、あるいはお互いを高め合うために学者が集まって「学派」が出来ることは、悪いことではない。悪いどころか、良いことです。ところが、この「学派」というものも、よほどうまくやらないと、単なる徒党へと堕落する危ういものですね。というのも、教祖に依存して安心したいとか、徒党を組みたいという気質の人間もまた、少なからずいるからです。



 学派内に、師匠に盲従したい人間や徒党を組みたがる人間が多くなった瞬間に、学派もろとも学問も堕落していく。実際、学派なるもののほとんどは堕落していて、徂徠と蘐園学派が違うとか、孔子の本当の教えと朱子学が違うとか、ヘーゲルとヘーゲル主義は違うとか、いくらでもそういう例はある。学問は腐りやすい。小林も書いていますよね。本当の思想は非常に腐りやすいというか、もろい。なぜ、もろいかというと、個人の生と密接不可分だからです。





適菜:小林はこう言います。《私達は、歴史に悩んでいるよりも、寧ろ歴史工場の夥しい生産品に苦しめられているのではなかろうか。例えば、ヘーゲル工場で出来る部分品は、ヘーゲルという自動車を組み立てる事が出来るだけだ。而もこれを本当に走らせたのはヘーゲルという人間だけだ。そうはっきりした次第ならばよいが、この架空の車は、マルクスが乗れば、逆様でも走るのだ》(「蘇我馬子の墓」) 。ヘーゲルはヘーゲルという生身の人間の体質の中にしかない。







中野:だから、徒党を組んで学派として堕落するのを回避しつつも、暗黙知を体得するために共同体的な師弟関係を結ぶというのは、本当に難しい。本物の高等教育の場合は、学問や教育の微妙なルールが非常に発達をしていて、学派が徒党へと堕落するのを防いでいるように思います。優れた大学には、そういうルールが大学の伝統として確立されているものです。



 例えば、「指導」と称して、学生に威張ったり、怒鳴り散らしたりするのは、完全なルール違反です。本物の大学は、そういうアカハラ(アカデミック・ハラスメント)野郎を絶対に許しません。学問を堕落させ、教育を不可能にする危険な存在だからです。



 優れた学問の師匠は、弟子をもちろん甘やかしはしないし、厳しい指導をするけれども、いたぶったり、怒鳴り散らしたりといったハラスメントはしませんね。逆に、思想運動の指導者は、ハラスメントによって徒党をまとめあげる(笑)。





■何かを子供に気付かせる教育者としての資質



適菜:大学の教授だけではなくて、予備校の講師や小中学校の先生にも優れた人はいると思います。私の経験で言っても、学校の教師とかみんなバカに見えたけど、例外的に1人か2人は信頼できる先生がいるわけです。高校の先生で20人くらいが何かの教科の担当になったとして、1人か2人は「この人信用できるな」「尊敬できるな」と感じる人がいる。





中野:いますね。20人のうち1人か2人という確率は、大学でも同じですけどね。





適菜:そういう人は何かを子供に気付かせる教育者としての資質を持っていたのかもしれない。児童や生徒や学生は、なんとなくそれを感知する。





中野:本当の教育というのは、非常に難しいものですね。小林が面白がっているように、孔子の教育法は、「君、本当は最初から分かってたんじゃないのかね」と気付かせるように、つついて出してあげるような感じだそうです。それが、本当の指導とか教育というものなのでしょう。それでつついたら出てきたものは、もちろん、孔子の思想と同じではなくて、その人固有のもので、その人の経験に根付いたもの。でも、それこそが、本当の思想である。そういうことなんでしょうね。だけど、そうすると教育とか啓蒙は、いかに難しいかという議論になってくる。啓蒙の難しさについて、小林がこんなエピソードを書いていました。



 ある日、尾崎行雄が新聞記者になったので、福沢諭吉のところに挨拶に行った。すると福沢が「君は誰のために書くつもりなのかね?」って聞いてくるので、尾崎は「私は、天下の識者のために書くつもりです」と胸を張って答えた。そうしたら、福沢は鼻くそをほじりながら「ほう、そうかね。俺はいつも猿に読んでもらうつもりで書いているよ」なんて言ったので、尾崎は「なんて、けしからんやつだ」と怒って帰っちゃった。福沢が、「上から目線」で人を見下しているとでも思ったんでしょうね。普通は、そう受け取る。でも、小林はそうは取らず、「恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言い難い苦しさが、畳み込まれていただろう。そう思えば面白い話である」と書いて、いたく感銘をうけているわけですよ。







適菜:いい話ですね。その話で思い出したのですが、ヘーゲルがゲーテに会いに行ったんです。ゲーテは当時のヨーロッパでも有名人です。それで若いヘーゲルは意気揚々と出かけて行って、ゲーテの前で自分が編み出した弁証法の自慢をするんですね。すると、福沢が鼻くそほじくったぐらいの勢いで、「そうした精神の技術や有能性がみだりに悪用されて、偽を真とし、真を偽とするために往々にして利用されたりしなければいいのだがね」とぺしゃんといなすんです。ヘーゲルはムキになって、「それは精神の病める人たちだけがやることです」と言うと、ゲーテは「それなら自然研究の方がよっぽどましだな。そんな病気にかかりっこないからです」「私は、多くの弁証法患者は、自然を研究すれば効果的に治療できるだろうと確信していますよ」と。ゲーテにとってヘーゲルは反論の対象ではなくて治療の対象だった。これは私が大好きな話です。





中野:古今東西変わらないものですね。





(続く)



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