「ヘアー、それはたかが陰毛であり体毛に過ぎない。しかし、女性のそれが見えたか、見えないか。

見せようとする側と決して見せまいとする側は、泣き笑いかつ死に物狂いの戦いを繰り広げてきた。その攻防の歴史を追うことは、日本人にとっての猥褻観とは何かを突き詰めることであり、否定しようのない日本文化史なのである。」(「はじめに」より)。著者安田理央氏が、ヘアヌード30周年を機に書き下ろした『ヘアヌードの誕生 芸術と猥褻のはざまで陰毛は揺れる』(イースト・プレス)を刊行し、話題になっている。作家・芸能評論家の宝泉薫氏が本書の魅力を語る。





■「エロのツボは人それぞれ」ゆえに



 なんでもあり、というのは便利かつ有用な言葉で、実際、大きな迷惑さえかけなければ、世の中のたいていのことはなんでもありでいい。性的嗜好などはその最たるものだ。



 しかし、人間は太古の昔からその「性的嗜好」というものに制限を加えてきた。政治や宗教、あるいは個人個人の感覚の集合体である共同幻想によって、だ。



 本書『ヘアヌードの誕生 芸術と猥褻のはざまで陰毛は揺れる』(安田理央)はそんな歴史の不思議さ、ひいてはマヌケさを解剖しようとしたものに思われる。



 女性の陰毛を描くこと、見ることを「猥褻」なものとしてタブー視するスタンス。だからこそ、描きたい、見たいという欲求が嵩じて、それが芸術の探求や商品の流通につながってきた経緯。そして、実際に描いたり見たりできるようになったら、わりとどうでもよくなってしまったという顛末。



 著者はそういうものに関心を持ち、丹念に調べ上げ、ときに俯瞰し、ときに細部のディテールにこだわりながら、実態を浮き彫りにしようとする。なかなかの労作である。



 ただ、いかんせん、性的嗜好はなんでもありで千差万別だ。著者の言葉を借りるなら「エロのツボは人それぞれ」(259頁)である。



 それゆえ、この本をどれだけ関心を持って読めるかは、陰毛への興味の多寡にけっこう左右されるのではないか。ヘアヌードブームなんてものが存在したくらいだから、一時はかなりの人が似た興味を共有したのだろうが、そうじゃない人も少なくない。



 かく言う筆者も「そうじゃない」側のひとりだ。生まれてこのかた、女性の陰毛に興味を持ったことはほとんどなく「ヘアヌード」は今も昔もブームのさなかも、ずっと他人事だった。陰毛のない陰部やその持ち主を指す「パイパン」という言葉もよくわからず、さっき調べたくらいだ。



 にもかかわらず、本書には筆者がかつて書いた文章が引用されたり、集めたデータが紹介されたりしている。20年前に出した「別冊宝島Real アイドルが脱いだ理由(わけ)」という本のなかの文章やデータだ。



 光栄な話だが、複雑な気分でもある。

20年前のその本は「ヌード」よりも「アイドル」について書いたもの。具体的にいえば、ヌードになることをアイドルの「死」ととらえ、その哀しさと美しさを描こうとしたものだからだ。



 アイドルの生命は着衣でこそ保たれる。肌の露出はせいぜい、水着まででとどめるべきだろう。それゆえ、アイドル、あるいはアイドル的だった女優などのヌードはむしろ残念なことだったりする。宮沢りえあたりは史上最も残念なアイドルだ。



 ちなみに「アイドルが脱いだ理由」については、再編集したものが3年前に世に出た。『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』(文藝春秋)である。



 編集兼発行人はかつて「週刊文春」編集長時代に「ノー・ヘアヌード」宣言をして話題になった人物。あとがきでは、こんなことを書いている。



「それにしても昭和の人間には、ヌードより可愛かった時代のアイドル写真の方が青春を感じさせてくれます」



 筆者も同感だ。



日本のヘアヌード解禁から30周年。猥褻の歴史を解剖した労作【...の画像はこちら >>







■80年代前半、少女ヌードが一種の抜け穴になっていた…



 それでも、20年前の本の作業を通して学べることもあった。

この「ヘアヌードの誕生」にも登場するヌード業界の人物から嫌がらせを受け、やはり闇深い世界だと感じて距離を置こうとした、というのもその成果だ。



 逆に、こういう世界の近くに身を置きながら、情報収集力と批評眼、そして情熱を持ち続け、こうした労作をものにした著者には感心させられる。本書ではそんな著者ならではの鋭い分析に、随所で出会えるのだ。



 たとえば、80年代前半、少女ヌードが一種の抜け穴になっていたことをめぐる記述である。



「陰毛こそがヌードにおける猥褻の境界線だとしていた当時の風潮からすれば、陰毛がまだ生えていない少女の性器は猥褻ではない、という理屈がまかり通っていたのだ」(137頁)



 世の中の常識の曖昧さ、その運用の際どさを知る人にしか、こうした表現はすんなりと出てこない。



 そのあたりの鋭さは「おわりに」において、ますます発揮されている。1957年に最高裁が示した「猥褻三原則」のひとつ「善良な性的道義観念に反するもの」について、著者は「何なのだろう」としたうえで「善良な」を「平均的な」に置き換え、こう問いかけるのである。



「逆にいえば、性的嗜好が平均的な性的道義観念から外れている人は猥褻を満喫し放題ということにならないだろうか」(260頁)



 一本取ったり、という感じだ。



 著者はそこから「個人の嗜好に左右される猥褻」を「法律で一律に取り締まる」ことの「無理」を説くわけだが、実際、制限はひかえめにして、なるべく「なんでもあり」な状況を保つほうがよいのではないか。本書全体からも、そういう方向性が感じられるのが心地よい。



 なお、著者は最後の最後に、ある告白をして、読者を面白がせようとしている。行き届いたサービスだ。

こうした筆力や構成力に長けた書き手の本は愉しい。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)



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