■40年前のアルヴィン・トフラーの未来予測本が面白い
未来予測本というものは、数十年後にあらためて読むと面白い。1970年代や80年代初頭の日本人が書いた未来予想本のほとんどがソ連の健在を前提としていた。
1980年に出版されたアルヴィン・トフラー(Alvin Toffler:1928-2016)の未来予測本のThe Third Wave『第三の波』はすごい。Internetという言葉もSocial Net Serviceという言葉もない時代に、「コミュニケーション革命」が起きて、人間のありようが変わることを正確に予測していた。
「コミュニケーション革命は、われわれ一人一人の自己像を、いっそう複雑なものにするだろう。個人の差を、さらに細分化するはずである。われわれが、いろいろな自己像を「試着」する速さをスピードアップし、連続的にいくつもの自己像を取り換える動きをも速めるだろう。世間に向かい、われわれの自己像を電子的に投影することも可能になる。それが自己の人格にどんな影響があるかは、だれにもよくわからない。過去の文明を振り返っても、そのような強力な道具を人間は手にした経験がないからである。だが、その間にも、われわれの表現意識の技術は、加速度的に増強されている」(『第三の波』徳岡孝夫監訳、中公文庫、1982、510-511頁)。
上記の言葉は、40年後の私たちなら非常によく理解できる。匿名にしろ、実名にしろ、私たちはSNSに参加するときは、関わる人に合わせて、いろいろなキャラクターを使い分け意見交換し、「自己像を、いっそう複雑なものに」しているからだ。
たとえば、私ならば、「老人問題に関心を持つ前期高齢者」や「日本の高等教育のありかたに問題意識を持つ元大学教員」や「女性差別に敏感なフェミニスト」や「日本の歴史や天皇制や皇室を神秘化はしない愛国者」や「大きな政府は大嫌いの反官僚主義者、で社会主義は地獄への道だと思っている自由主義者」や「簡単で美味しい料理レシピや効果的な掃除方法を求める主婦」や「公式歴史は真実を隠蔽していると思っている共同謀議論者」などの顔を意識的に使い分ける。
権力者共同謀議論に全く関心のないFacebook友だちとは、その話題について意見交換しない。フェミニズムにいわれのない反感を持つ男性のFacebook友だちとは、男女問題は語らない。「悠久の日本の歴史」と陶酔しているFacebook友だちの投稿は黙ってスルーするか、酷い場合はブロックする。
それでいいのだ。情報と似非お仲間感覚を楽しむヴァーチャル空間での友人たちに全人格的に関わる必要はない。すべてのことについて意見が一致する他人など存在しない。トフラーの言う「いろいろな自己像」を使い分けることは、生活と意見が多様化した人々で成立する現代社会を生き抜くスキルだ。
■トフラーの見解を発展させた岡田斗司夫の未来予測
岡田斗司夫は、2011年出版の『評価経済社会--ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』(ダイヤモンド社)において、トフラーの『第三の波』を踏襲していることを認めつつ、「高度情報化社会の正体は、一つの事実を様々な価値観でとらえてみせるということ」(237頁)であると、トフラーの見解をより明確にしている。

つまり、高度情報化社会とは、「情報ではなく、情報に対する解釈があふれる社会」であり、「情報があふれている状況、という価値観があふれている状況」(237頁)であると。情報に対しての解釈とは価値観・世界観を意味するのであり、ネット社会とは「莫大な量の価値観・世界観が流通する世界」(238頁)であると。
だから、ネット社会で生きる個人は、それらの価値観や世界観をTPOに応じて選ぶことになる。
確固とした自分の意見を持つのは、つまり近代的自我が称揚されるのは、「近代の前期、つまり情報や知識の量がある一定程度しか流通していなかった時代」(241頁)だから、可能だったのだ。
したがって、岡田によると、インターネット時代の人間は、「多重人格」にならざるをえない(231頁)。「人間関係の細切れ化は進行する」(269頁)。このような社会で生きて行くためには、個人は「軽やかに色を変える能力が一番大切になって」(245頁)くる。
この2011年出版の『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』は、1995年に岡田が発表した『ぼくたちの洗脳社会』(朝日新聞社)に加筆訂正したものだ。
インターネットが世に出たのは1993年であり、『ぼくたちの洗脳社会』出版当時の1995年にSNSというものはなかった。岡田の言葉を借りれば、「ワープロ入力で送る電話機」もしくは「紙の要らないFAX」もしくは「電子井戸端会議」であるパソコン通信が存在しただけだった。なのに、1995年に、岡田はすでに今のSNSの影響力を言い当てている。
「今までマスメディアに一方的に洗脳され続けてきた一般人が、初めて自分から不特定多数の人に向けて自分の意見を述べるシステムを手に入れたのです」(『ぼくたちの洗脳社会』朝日文庫、1998、155頁)と。
「人々のニーズをつかみ、最も効率よくそれを生産して販売することによって、多くの富を得られるのが、自由経済競争社会。
1995年には「自由洗脳競争社会」と呼んだ未来を、岡田斗司夫は「評価経済社会」と呼び変えている。
■ネット社会では企業も公的機関も道徳的にならざるをえない
ネット内では誰もが情報発信者であり、誰もが情報を受ける側でもある。影響力と評価を交換し合うのがネット世界だ。ネット世界の情報の交換によって、事実が明らかになったり、世論が分裂したり、多様化したり、良識の線に収斂されたり、そのネット世界の動向に大手メディアが影響されて動き始めたりする。
たとえば、最近は、自動車の買い替えのときに、人がもっとも参考にするのは、自動車会社のパンフレットや仕様書ではない。各自動車の機能について報告するYouTuberたちの体験や意見だったりする。それらYouTuberたちの中には、明らかに自動車会社の雇った工作員たちも混じってはいるが。
だからこそ、岡田斗司夫は、高度情報化社会のネット社会になると、企業も個人も「いいひと戦略」を取らざるをえないと指摘する。情報のあふれるネット社会においては、イメージが悪くなると人々の支持が得られなくなるからだ。企業ならば商品が購入されなくなる。
企業にせよ公的機関にせよ、やってることが旧態依然で評価(public image)が悪くなると、優秀な人材が来なくなる。結果として利益が上がらなくなるし、成果が出ない。こういう場合、待遇を良くしても無意味だ。待遇がいいからという理由で参入する人材は、それだけのことしかできないし、しない。自分が入った企業や公的機関の評価を高めるような志高く、かつ生産性の高いことはできない。
最近、若い国家公務員のキャリアが役所を辞めることが多い。20代官僚の退職、6年で4倍超 河野氏「危機に直面」: 日本経済新聞 (nikkei.com) 旧態依然とした役所の中では志したことの何もできないというのが理由らしい。
それもあるだろうが、官公庁や官僚に対する評価public imageが低くなったことも原因のひとつだろう。官僚の不祥事が起きるたびにネット社会でたたかれ、「クソどうでもいい仕事」(bullshit jobs)とか税金泥棒と言われては、やる気が失せる。
企業も公的機関も、人々に高く評価されるような目的を設定し、目的遂行のために具体的に動き、その成果を公開報告できるようにならないと、認められない。企業はかつてのように儲けるだけでは済まない。
最近では、三陽商会などの日本の大手アパレル業界が新疆綿(ウイグル地区の綿花から得るコットン)は使用しないと声明を出した。新疆ウイグル自治区の綿製品 アパレル大手が使用中止 決定 | 中国 | NHKニュース
「この商品を作ることは世界コミュニティの役に立ってるし、あなたがこの商品を買うことは、その志の実践に協力することになります」という評価の高い「物語」を提示しないと、人は買わない。
志のある「意識高い系」消費者は、国際的に有名なブランドのチョコレートではなく、発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す運動であるフェアトレイド(fair trade)のチョコレートを買う。
■ネット社会では国家も道徳的にならざるをえない
ネット社会では、いずれは、 政府や国も評価public imageを向上させないと、優秀で志のある人ほど国政に参加しない。政治家に問題があると、ネット世界で、そのマイナス評価は氾濫し、政治家全体の評価が下がる。政治家の社会的評価が下がれば、人材は政界には来ない。
また、良い評価をされている国であれば、国際社会で発言力を高めることができる。いくら国内が繁栄していても、それだけでは評価されない。世界に貢献していることをアピールすることによって、高い評価public imageを獲得することが国益となる。
かつてのアメリカは、自由と民主主義という大義実現のリーダーとして、国際社会における評価public image が高かった。それが、第二次世界大戦後の世界の覇権国になれた理由のひとつだった。
しかし、ネット社会の発展により、その黒歴史や闇が陰謀論を超えて世界中に知れ渡った。世界覇権国としてのアメリカの凋落の理由はいくつかあるが、評価public imageの悪化も大きな理由だ。
だから、日本の評価public imageを高めるのが、「これこれこういう貢献を世界にできます」とアピールすることが、軍事力とともに日本の安全保障の大きな要になる。
中国がほんとうに世界覇権国になる気ならば、中国政府は、中国の評価public imageを向上させることについて着々と実行準備しているに違いない。人類社会に貢献できる価値観を示し、実践し、その成果を公開しないと、世界のリーダーにはなれない。
■ネット社会では個人も道徳的になるしかない
ネット社会で低い評価を与えられ、批判され否定されると、個人の社会的生命が絶たれることも起きる。だから悪いことはできない。悪いことをしてしまったら、すぐに謝罪し償うことによって、ネット社会世論の支持を得なくてはならない。
池袋で自動車を暴走させて歩行者を殺傷しても逮捕されなかった上級国民は、ネット界で晒され批判され続けて、ついには自分が起こした交通事故の責任を認めた。
旭川市立北星中学校の元校長や教頭や担任教員は、その無責任な言動がネットで晒されて、顔も住所も暴露された。
今までなら、彼らは自分たちの行為を隠蔽できたのに。大手メディアが報道しなければ、起きなかったのと同じだったのに。今では、大手メディアがSNSで炎上している問題に牽引され報道する。
企業にしろ、公的機関にしろ、個人商店にしろ、個人にしろ、悪いことをするのが非常に難しくなっている。誰かがSNSに書いて暴露するから。
■ネット社会で期待される人間像
多様な価値観が溢れるネット世界に慣れると、個人は、そこから自分にとって違和感のない価値観を選び、自分の中で「複数の価値観」を並立させる。複数の価値観が自分の中で並立しているので、自分が属するヴァーチャル仲間集団も複数となる。
つまり、岡田斗司夫の言う評価経済社会においては、非常に柔軟で、情報に自分を開き、自分を変えることを恐れず、出会う人すべてから学ぶ姿勢があるが、決していい加減ではなく、多くの人々が共有する倫理性は体現しているが、隙のない優等生ではなく、自分の弱みや欠点も正直にさらけだせるが、他人にとって負担にならない程度にさらけ出せる人という点において、他人から信頼=評価good imageを獲得しているタイプの人間が生きやすい。
企業が「良心的で、ガラス張りの経営で、社会的責任を果たす方向性を持つ」ことが求められるように、個人は、悪人と言う評価を受けたり、つきあうのにややこしく面倒くさいタイプは、ネット社会の中でさえ居場所がなくなる。
前の時代なら、いかに不快で偏った人間であっても、地位や金があれば、それでも他人はつきあってくれたかもしれない。
ネット社会の中に生きる人間は、多くの価値観や世界観に晒されつつ、その中から自分の気持ちにフィットした価値観を選ぶから、自分の価値観とは合わない不快な人間とは、いくら地位や権力や金を持つ人間であっても、つきあいたくない。
最近、高齢者の反社会的言動が多いという報道やネット記事が目につく。暴走老人の原因と対処法|刑事事件になる前に知るべき5つのこと (best-legal.jp)
それは、つきあうのにややこしい面倒くさいタイプの人間は回避されるネット社会が生んだ人間関係のありように適応できない類の高齢者がイライラを募らせているからではないか。
今は、男だから、老人だから、年上だから、上司だから、地位があるから、金を持ってるからという理由では甘やかされることはなくなり、特別に気も遣ってもらえない。
快適に他人と関わりあいたいならば、他人にとって負担とならない人間でいなくてはならないのに。「いいひと」であることをアピールしなくてはならないのに。
この点について、岡田斗司夫は書いてはいないが、このようなネット社会には、女性の方が上手く適応できるのではないか。一般的に女性は、他人に気を遣いながら生きている。他人の地雷を踏まないように注意している。その習慣とスキルは、ヴァーチャルな世界でも発揮される。
アルヴィン・トフラーの言う高度情報化社会や、岡田斗司夫の言う評価経済社会においては、「良心的企業」や「いいひと」が生き残る。「世界コミュニティに貢献する」国家は真の国防ができる。
みんなが鵜の目鷹の目で査定しあうネット社会においては、SNSのプラットフォームであるFacebookやTwitterやGoogleがいかに検閲の目を光らせても、人々は暗号のような言葉を駆使して情報を交換する。
それは時に、ポリコレ・ヒステリーのような様相を示す。誹謗中傷の嵐に見える。しかし、SNSの世界では、ヴァーチャルな言語空間だからこそ、過度にファナティックで不快な投稿をする人間は簡単に排除される。
時間が経過すれば、ネット社会では、誰もがある程度は認めることができる良識ある意見を提示し、それを支持する人々が残ることができる。
つまり、ネット社会は確信犯的いい子ぶりっ子の世界を形成するだろう。いずれは、匿名の多いSNSの世界でも、利用者は実名を明らかにしていくだろう。そのほうが信頼され、評価public imageが上がるからだ。
■確信犯的いい子ぶりっこネット社会の危険さもある
まあ、それはそれで鬱陶しい世界かもしれない。ドロドロとした毒ばかりの本音をダラダラと開陳できないというのも、鬱屈がたまる。いつも「いいひと」ではいられない。
しかし、大手SNSから排除されてしまった人々のためには、大手SNSでは語れないことを語りたい人々のためには、「2ちゃんねる」とか「5ちゃんねる」とかの日本ローカル匿名掲示板がちゃんと在る。
『攻殻機動隊』の草薙素子少佐の言葉ではないが、「ネットは広大」だ。ネットを利用できる人間ならば、ちゃんと逃げ場もあるのがネット社会だ。わざわざ、うっぷん晴らしのために電車の中で刃物を振り回さなくてもいい。
ともあれ、邪悪さが罰せられない世界よりは、邪悪な行為が隠蔽されたままの社会よりは、悪を暴露しあい批判し合う確信犯的いい子ぶりっ子を競うネット社会のほうがマシだろう。
ただし、このことが厄介な方向に進む可能性はある。ヨーロッパの格言にあるように、「地獄への道は善意で舗装されている」可能性は常にある。たとえば、ほんとうに頭のいい闇の勢力があれば、ある方向へとネット世論を巧みに粘り強く誘導できるようにネット工作員の養成にもっと本気になるであろうから。
ともあれ、せっかく、誰もが情報を発信受信できる時代になったのだから、できれば、世界や社会が良い方向に進むことに寄与できる良い情報(福音)を発信したいし、受信したいものだ。
文:藤森かよこ