社会学者・宮台真司が、旬のニュースや事件にフォーカスし、この社会の〝問題の本質〟を解き明かした名著『社会という荒野を生きる。』がロングセラーだ。
2015年春に入社した新入社員に、「仕事」と「プライベート」のどちらを優先するかを聞いたところ、「プライベート」と回答した人が53・3%で、「仕事」と答えた人の45・1%を上回ったことが分かりました。これは、就職情報サイトのマイナビの調査によるもので、「プライベート」との回答が「仕事」を上回ったのは、2011年の調査開始以来初めてだそうです。また、「残業することを容認する」「仕事のあとも会社の人と過ごしてもよい」と答えた人の割合は、両方とも過去最低となりました。他の先進諸国と比較すると日本の労働環境は、労働時間が大変に長いことで知られています。「仕事よりもプライベート優先」と回答する新入社員の増加はどのように考えればよいのでしょうか? 今回は前編を公開。
■プライベートの過ごし方3類型
今回はこの問題、「ここまで掘るか」と言われるくらい、深く掘りましょう。とても大事な問題がひそんでますからね。まず、会社へのコミットメントがなくなるのは当然なんです。これからは、企業寿命も短くなるし、労働法制も脱終身雇用化していくから、ですね。
前回(宮台真司「社会という荒野を生きる。」その真実と極意〈連載第2回〉)も指摘したけど、今後は終身雇用制がなくなりますし、国際標準である「正社員を解雇すること」もできるようになっていきます。従って、会社に対して過剰に忠誠心を持ったとしても、報われません。
問題は、会社に対する忠誠心が下がることなんかじゃない。それは当たり前。その分、プライベートにおいて何にコミットするようになるのか。それこそが問題なんです。そこで、仕事ではないプライベートな時間の利用=コミットメントの仕方ですが、大体3つに分けられます。
第一に、巷でよくみかける発想が「個人のスキルアップ」です。例えば、資格取得や語学学習などに向けたコミットメントが上昇するということ。優等生的で、健全すぎる答えかな。まあ、いつも勉強していないと気が済まない「お勉強少女」「お勉強少年」が多いですからねえ。
第二は、「9時5時で仕事から離れて、好きな趣味に興じよう」というもの。実際、昨今はそういう人が多いですね。
壇上から「ここにいらっしゃる方々の多くは地方公務員ですよね? はい、地方公務員の方、手を挙げて!」と言うと、半分以上、手が挙がる(笑)。なぜかと言えば、9時5時で仕事を離れられて、土日は完全に休み、という、アイドル好きにぴったりの条件があるからです。
中高生アイドルは学校があるので、営業は基本的に土日です。地方公務員になれば土日の営業に行けます。収入もあるから「明日は札幌だね」とパネルを掲げて追いかけられます。アイドルの歌に合わせて30代以上の髪の毛が薄い公務員がクルクル回っていたりする(笑)。
さて、僕が今回とりあげたいのは、三番目です。これが本来あるべき姿です。それは何か。
■表層の戯れに終始する男女関係
実はそこが危うい。今の若い人たちは、仕事の外側に、家族などのホームベースを作る力が著しく弱まっています。以前もお話しした性的退却がこれに関係します。18歳以上の未婚男女の交際率(恋人がいる割合)がいちばん高かったのは1992年です[社会保障・人口問題研究所]。
若者の性体験率が最高だったのは男子は1999年(大学63%、高校26%)、女子は2005年(大学61 %、高校30%)です。しかし最近(2011年)は男子(大学54%、高校15%)も女子(大学46%、高校24%)も激減[日本性教育協会による2011年第7回「青少年の性行動全国調査」参照]。大学生男子は9ポイント減、大学生女子は15ポイント減です。
これらは目に見える性的退却ですが、問題はこれに留まらず、もっと深いところにもあります。交際相手がいる場合も、相手の心の中に深く入ることをしないことです。深く入ると、自分と相手の間に共通性がないことがバレるので、深く入らず、LINEに象徴される戯れを永久に続けるのです。
アラン・チューリング[1912~1954、イギリスの数学者、コンピュータ科学者]がコンピュータの性能を調べるために、隔離された部屋にある「何か」と対話し、「何か」がコンピュータか人か区別できるかという「チューリング・テスト」を考えました。LINEでの戯れはコンピュータが相手でもできる。ならば相手は入替可能な部品に過ぎない。
LINEに限りません。若い人のスマホでのメッセージのやりとりの大半は、相手が人間じゃなくても大丈夫。LINEのやりとり程度ならコンピュータ(チャット・ロボット)でも扮技できます。コンピュータ云々を横に置けば、相手が「その人」じゃなくても大丈夫ということ。深さがないのですね。
こうした深さのない言語的戯れの延長線上で、若い人の多くはセックスし、「つき合ってる」という話になります。相手の内面に入り込んで「相手の心に映ったものを自分の心に映す」ことをせず、「見たいものだけを見て、見たくないものを見ない」。そこに相手の唯一性はありません。
そうしたつき合いなら、相手のオーラに反応できないし、相手の本気度を評価することもできません。
浅い友達関係ならそれでもいい。でも彼氏彼女とか親友とかの関係で、それはないでしょう。相手がどこの誰でも務まる、会話とすら言えない言語的やりとりが延々続き、その延長上で、何を深いところで共有しているか分からない相手を、「恋人です」などと称する。馬鹿じゃないのか。
そんなんじゃ、揺るぎない家族なんて永久に作れないよ。家族でなくてもホームベースなんて無理。EU統計によれば、育休を取らない男ほど40歳代以上になるとモチベーションが続かない。ホームベースを作れないと、40歳代以上になったら仕事の意欲も失われるんです。
■性的に過剰であることはイタイ
なぜこうした深い関係からの退却が進むのか。歴史を80年代に遡ります。
79年に創刊された雑誌に『マイバースデイ』と『ムー』があります。最初は恋愛おまじない雑誌『マイバースデイ』が人気で、〈性に乗り出せないという悩み〉を抱えた子が読みました。それが86年を転機に『ムー』人気にシフトし、〈性に乗り出したがゆえの空虚〉が前景化します。
86年の人気ナンバーワンアイドル岡田有希子の自殺事件を機に、『ムー』のお便り欄で前世の名前を名乗って少女たちが仲間を募り、岡田有希子と同じ方法で一緒に飛び降り自殺するブームが起こりました。あまりに連続したので、若年者自殺の統計的特異点を形成しました。
巷では30歳以上離れた男との恋に破れたことが取り沙汰されていました。でも当時ナンパで出会った若い女子の多くは、容姿にも才能にも恵まれたアイドルが30歳以上離れた男へと向かわざるをえなかった「性愛の不毛」に感応していました。〈性に乗り出したがゆえの空虚〉です。
僕はかかる性的退却についてのリサーチを2000年にZ会の名簿を使ってやりました。両親は愛し合っていると思う大学生とそうでない大学生に分けると、前者は、交際率が高いが経験人数は少なく、後者は、交際率は低いが経験人数が多い、という対照的な結果になりました。
こうした〈性に乗り出したがゆえの空虚〉は、88年以降のお立ち台ディスコブームや素人AV出演ブームや読者ヌードブームなど、一連の〈男の視線を経由しない性愛の戯れ〉の隆盛を招きます。実は、その延長線上に、93年以降のブルセラ&援交のブームがありました。
ブルセラ&援交を93年に発見した際、こうした流れを知る僕は「とうとうそうなっちゃったわけか」という感じで、少しも驚きませんでした。ちなみにこの発見を『朝日新聞』に書いたら僕の元に取材が殺到し、数百人の女子高生ネットワークをマスコミに繋げたらすべてのチャンネルが援交でもちきり。援交ブームになりました。
マスコミ熱を背景にフォロワーが参入すると、援交が〈自己提示ツール〉から〈自傷ツール〉に変じました。折しも95年秋からは「エヴァンゲリオン」ブームと共振してAC(アダルトチルドレン)ブームになります。援交する子は自傷系の代名詞みたいになっていきました。
それで援交などの性的過剰はカッコ悪いとのイメージが拡がる。結果〈援交第一世代〉が退却して〈援交第二世代〉に交替すると、カッコいいリーダー層の子が援交から退却します。ちなみに、96年のピーク時に高校生だったか、それ以降高校生になったかで世代を分けます。
リーダー層の子は援交から離脱して「ガングロ化」します。ガングロには〈男たちの視線を遮断する機能〉がありました。新参のフォロワー層を象徴するのが「白ギャル」。ガングロたちは「ウチらはもうやらないよ。今やってるのはあそこにいるみたいな白ギャル」と指さしました。
かかる次第で、ガングロ化に並行して〈性的に過剰であることはイタイ〉との意識が拡大しました。リーダー層はストリートから退却し、24時間出入り自由な友達の部屋に屯(たむろ)する〈お部屋族化〉しました。女子における〈性的な過剰を忌避する営み〉の出発点がここにあります。
(※書籍『社会という荒野を生きる。』から抜粋連載。第4回の後編につづく…)
文:宮台真司