社会学者・宮台真司が、旬のニュースや事件にフォーカスし、この社会の〝問題の本質〟を解き明かした名著『社会という荒野を生きる。』がロングセラーだ。

天皇と安倍元総理、議会制民主主義、ブラック企業問題、感情の劣化とAI、性愛不全のカップルたち、承認欲求が肥大化した現代人の不安……etc.「我々が生きるこの社会はどこへ向かっているのか?」「脆弱になっていく国家で、空洞化していく社会で、われわれはどう生き抜くべきなのか?」。まず社会の問題の本質を直視し、理解すること。そのうえで冷静に物事を判断するための智恵が必要だ。「明日は我が身の時代」を生き抜くための処方箋に満ちた本書から本文を一部抜粋連載して公開する。第6回は「なぜ自民党憲法草案は爆笑ものなのか?」。憲法学の大家であった奥平康弘氏の命日に、宮台真司が「憲法の本質とは何か」とともに語る。(『社会という荒野を生きる。』から抜粋連載)





本日1月26日は、日本を代表する憲法学の大家で東大名誉教授の奥平康弘先生の命日になります。



2015年1月26日に急性心筋梗塞で亡くなりました。85歳でした。



1929年、北海道函館市生まれ。東京大学法学部出身で、1973年から88年まで東大の社会科学研究所で、そして90年から97年までは国際基督教大学(ICU)で教授を務めました。



70年代はじめに、情報公開法のモデルとなった米国の情報自由法を日本で紹介し、「知る権利」が基礎にあることを指摘しました。



また表現の自由はなぜ手厚く保障されなくてはならないのかという問題を追究し、理論的な基礎を築きました。



さらに、憲法研究者の立場から「九条の会」の呼びかけ人の一人となり、改憲の動きに警鐘を鳴らし続けたと言われています。



奥平先生から学んだ「憲法の本質」とは何だったのでしょうか。





■「敗戦をどのように受け止めたのか」



 奥平先生は、函館市生まれで、東大法学部を卒業し、東大の社会科学研究所の教授を経て、国際基督教大学の教授になられ、2004年設立の「九条の会」の呼び掛け人にも名を連ねておられる「表現の自由」の権威で、日本を代表する憲法学の大家です。



 僕は、奥平先生と一緒に、2002年に『憲法対論~転換期を生きぬく力』(平凡社新書)という共著を出させていただいています。これはかなり売れた本でして、今でも時々、インターネットなどで話題になっています。とてもありがたいことです。



 僕と奥平先生の年齢差がちょうど30歳です。奥平先生は1929年生まれ。敗戦時には16歳で、僕の父が17歳。「少国民世代」[敗戦時に今の小学生にあたる年齢だった人たちを指す]の少し上です。

ちなみに僕の母が敗戦時に10歳で、僕のお師匠・小室直樹先生が12歳。「少国民世代」にあたります。



 したがって、当たり前のことだけれど、この世代の方々の多くに現に共通しているように、「敗戦をどのように受け止めたのか」ということが、奥平先生の学者としての方向性を定めた部分が大きいのですね。



 奥平先生は「8・15革命説」[8月革命説とも。ポツダム宣言受諾により天皇から国民に主権が移ったことを「革命」とみなし、日本国憲法は新たな主権者である国民が制定したと考える説。ただし宮台はこれを支持せず、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正条項に基づき天皇が改正した欽定憲法だと考えるが、ここでは深入りしない]で有名な宮澤俊義さんという憲法学者の弟子で、かつキリスト教の有名な牧師さんの息子だった鵜飼信成という憲法学者の弟子でもあられて、憲法学の泰斗から憲法学を学んだという、憲法学者でも珍しい経歴。まさに本物です。





■憲法学は机上の空論なのか



 憲法学は、日本では陽が当たらないのです。刑法学とか民法学とかだと、法実務の世界があるでしょ? でも、憲法学にはないということで、日本では「机上の空論にいそしむ人たち」というイメージがあり、どんどんそうなってきた。まさに法文化の貧困です。



 それどころか、奥平先生の訃報を知った頭の弱い人たちが、2ちゃんとかで「祝!」とか書いている。奥平先生が亡くなったことについて「祝!」とか書いているわけ。

まあ、これは憲法学が分かっていないという以前に〈感情の劣化〉ですがね。恥を知れ!



 そんな現状の「お笑い日本」だけれど、僕たち1950年代後半生まれの世代が若い頃は、奥平先生だけじゃなくて、敗戦を正面から受け止めて、戦後日本をどうしようかと考えた大先生たちが、本当に素晴らしい法学説を、眼前で展開しておられたのです。



 例えば、民法学の我妻榮先生。刑法学の団藤重光先生。それに奥平先生。我妻先生は世代的に無理だったけど、団藤先生や奥平先生は僕が実際に授業を聞く機会がありました。僕はそんな世代で、若い頃には「憲法学は机上の空論」みたいな話はありませんでした。



 法学だけじゃない。僕のお師匠の小室直樹先生や、小室直樹先生が師事された丸山眞男先生を含めて、1980年までに活躍しておられた大先生の方々には、どういう風に戦争を受け止めたのかについて、共通のフォーマットがあったと僕は感じています。



 日本の敗戦は、きっかけの一つにもなった東京大空襲[10万人死亡]や2回の原爆投下[21万人死亡、後遺症のぞく]を含めて、むろん悲劇です。「こうして悲劇を繰り返さないために必要なこと、それは近代を徹底的に学ぶことだ」。これが共通のフォーマットです。



 小室直樹先生は、天皇主義の極右で過激だったから、「今度戦争をしたときにはアメリカに絶対勝つ! そのためにはアメリカよりもアメリカを知れ!」と語っておられた。むろん岡倉天心からの弟子への訓示[アメリカ社交界でモテた天心は、アメリカ滞在中は羽織袴で通したが、弟子に対し「アメリカ人よりもアメリカを知ってからにせよ、さもないと土人扱いされるだけ」と述べた]のモジリですが、先生は真顔で僕におっしゃった。





■奥平憲法学の核心とは「表現の自由」



 奥平先生はそこまではおっしゃらないけれど、考え方のフォーマットとしては、愚昧さゆえに戦争に踏み出すことがないように「アメリカを知れ!」「近代を知れ!」「そのためには憲法を知れ!」、という風に問題を立てた愛国者だと、僕は考えます。



 そういう風に、敗戦を「近代についての学び」に結びつけて受けとめたスゴイ先輩たちの、共通する思考フォーマットを踏まえた上で、奥平先生が築き上げた憲法学とはどんなものだったのか、奥平先生に学ぶ「憲法学の本当の常識」をお話しします。



 まず、奥平先生を理解するための前提があります。法と道徳の関係です。近代憲法には「法と道徳の分離」といって、道徳については法で規定せず、市井の人々が互いに「あなたは道徳的に間違ってるよ」と言い合えばいい、という原則があります。



 なのに、道徳─性道徳が典型ですが─を法に書き込もうとする浅ましい輩だらけ。共著の『憲法対論』で分厚く議論したけど、浅ましさは、自分の思い通りに人を操縦したがる点にある。だったら法を頼らず自分で言え! そのための表現の自由だろ!



 法は道徳じゃない。法は、殺すな、盜むなとか、車は左側通行とか、それがないと社会生活が成り立たない最低限のプラットフォームと権能付与に関わる。人によって異なる道徳的な価値観を、法に書き込むなど、多様性を旨とする近代国家じゃありえねえぞ!



 それを踏まえて、奥平憲法学の核心「表現の自由」です。

憲法で最も大切なのは、合衆国憲法で言えば、修正第1条「思想、表現、信仰の自由」。実際、大半の近代憲法は冒頭がこれ。奥平先生が「表現の自由」を専門にされたのは、まさに憲法の中核だからなのです。





■「市民から統治権力に対する命令」が憲法



 なぜ「表現の自由」が全ての中核か、分かりますか? 僕は「鍵のかかった箱の中の鍵」問題と呼びますが、「表現の自由」が制約されていると、どんな表現を制約されたかさえ表現できなくなるので、僕たちは何が制約されたのかが分からなくなるからです。



 例えば、特定秘密保護法を考えましょう。先進各国にも似た法律がありますが、秘密保護期間についての25年ルールや30年ルールがあって、ルールの適用除外を政治家や官僚が勝手に決められないようになっています。日本ではこれが不十分だから恐ろしいのです。



 隠された文書の、所在を永久に言ってはいけないのでは、僕たちは文書の所在を知りようがありません。その結果、社会の実態、とりわけ政治や行政の実態を知らないまま、思い込みを修正されずに、政治体制とそれを支える党派を是認し、「悲劇」が訪れます。



「法やそれに基づく行政が、憲法の枠内にあるかどうか」を、たとえ事後的にではあれ、人々が適切に判断できるためにも、「表現の自由」がまず第一です。さて、今「法やそれに基づく行政が、憲法の枠内にあるかどうか」と言いました。これが「憲法とは何か」に直結します。



 実際、奥平先生の憲法学がとりわけ強調するのが「憲法とは何か」なのです。共著の『憲法対論』でも「憲法とは何か」を分厚く語っていただきました。日本では「非常識」な人が多いので、「法律の一番偉いのが憲法だ」などと思っていますが、ありえません。



 法律の名宛人は市民です。だから法律は「市民に対する命令」として機能します。対照的に、憲法の名宛人は統治権力です。だから「統治権力に対する命令」として機能します。分かりやすく言えば「市民から統治権力に対する命令」として機能するべきものが憲法なのです。





■「表現の自由」と「知る権利」



 歴史的に言うと、横暴な王政による「悲劇を共有」した人たちによる「統治権力はこういう枠内で作動しないと困る」という覚え書が、憲法です。人々が思い出せるなら、わざわざ書かなくてもいい。だから、イギリスは立憲政治だけど、成文憲法がないのです。



 関連して、憲法が法律と違うのは、統治権力が覚え書の枠内にあるかどうかを絶えずチェックする営みが存在するべき点。覚え書に書かれていても、チェックの営みがなければ立憲政治じゃない。書かれてなくても、チェックする営みがあれば立憲政治なのです。



 大事なので、もう一度申しましょう。「統治権力に対する市民からの命令」として機能4



しないものは、近代憲法じゃない。では、その市民からの命令によって、市民による統治権力のコントロールが適切になされるために、いちばん必要なものは何でしょう?



 復習ですね。そう。「表現の自由」です。我々は情報を十分に知らなければいけません。統治権力よりも知らなければいけません。だから「表現の自由」があって、それに実質を与えるためにディスクロージャー(情報公開)の必要(知る権利)もあるわけです。奥平先生も重視しておられました。





■なぜ自民党憲法草案は爆笑ものなのか



 さて、こういう憲法学の「常識」が分かっているかどうかを測る「ものさし」となる、実に面白いツールがあります。自民党憲法草案です。これを読んだ瞬間に爆笑できるかどうかです。この爆笑ぶりは、憲法学を超えて人文社会科学系の専門家界隈で話題です。



 安倍首相だけでなく、憲法草案の作成に関わった片山さつきのような政治家たちが、「政府を縛る憲法は、王権時代のもの」とマジ顔で語っている。統治権力が非成文であれ憲法縛られているのが、イギリスの立憲君主制だけど、イギリスが王権かよ。大丈夫か?



 東大の法学部を出て、政治家になった。場合によっては官僚を経由して、政治家になった。そんな人たちが、憲法草案の作成に関わっているのに、これまで述べてきたような憲法の「常識」つまり、立憲史と基本原則について、事実上知らない。恐るべきかな。



 王権の時代、例えば近代に直近の絶対王政の時代に、統治権力つまり王が名宛人であるような、王が合意した覚え書なんてあったか? 王権の「悲劇」を繰り返さないことを誓う近代の民主主義社会だから、統治権力を制約する憲法があるんだよ! 小学生からやり直せ!





■憲法9条を前提とした合理主義の立場



 最後にもう一つ。奥平先生を語る上で、どうしても欠かせないのが、憲法9条の問題です。御存じのように「九条の会」呼びかけ人の一人でした。奥平先生の議論は明確で、情緒的なものではない。きわめて合理的な観点から9条の必要性を語っておられた。



 僕自身は若い時分から、「軽武装・対米従属を脱して、重武装・対米中立を目指す」という観点ゆえに「将来は9条改正をするべきだ」との一貫した立場です。むろん憲法の何たるかを弁えない政治家が跋扈する今の状況では、時期尚早なのは言うまでもない。



 しかし僕のような立場─小室先生や最近の小林節先生の立場ですが─の存在を熟知した上でなおも、理想論としてでなく実践論として憲法9条を前提とすべきだとする、合理主義の立場がありえます。そうした奥平先生の立場を最大限尊重したいです。



 この問題を話すと大変長くなりますし、自衛隊の海外派遣などをめぐり憲法9条の問題が今後激しく動いていくことも考えられますので、今回はお預けということで、また時が来ましたら、まとめてお話しいたしましょう。





文:宮台真司



(※書籍『社会という荒野を生きる。』から抜粋連載。つづく…)

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