BEST TIMES人気連載だった森博嗣先生の「道なき未知 Uncharted Unknown」。同タイトルで書籍化されて早5年。
第6回 思いどおりになる楽しさ
【毎日、楽しいことばかりで大変】
あまり、楽しい楽しいといわないようにしているのだが、我慢をしていても漏れ出てしまうかもしれない。前回は、ちょっとウェットな雰囲気だったので、もう少し現実に寄り戻してみよう。今日は、一人で6時間ほどのロングドライブに出かけた。奥様(あえて敬称)も犬も乗せていない。奥様も犬も長時間つき合わせるのは酷というもの。一人の方が気楽だし、もちろん楽しめる。以前から計画し、根回しもしてあるので、気持ち良く出発できた。
ドライブである。しかも、かなり古い車なので、いつ故障して動かなくなるかわからない。動かないくらいならまだ良い。走行中の不具合で事故になって、怪我をしたり死んでしまう可能性もあるだろう。そうなった場合の対処も考えておいての出発である。
それにしても、気持ちの良い季節だ。山や野は新緑で輝き、空は青く澄み渡っている。花々でカラフルになった一帯も綺麗。だが、それよりも、軽快なエンジン音が一番嬉しかった。部品を交換したり、調整をした結果である。手を入れて、修理をして、機械が自分の思いどおりに機能することが、人に喜びを感じさせるのは、やはり、「自分の思いどおり」という「自由」の定義と一致している。満たされた気持ちになるのは、自由を感じるときだ。
模型飛行機を飛ばすときも、これと似ている。ほんの少し、形を修正するだけで、飛ばしてみると覿面に効果が現れる。自分が予測したとおりになった、という満足を味わえる。この繰り返しが面白くてやめられない。
【予測が当たる楽しさ】
たとえば、飛行機や自動車のボディの色や模様を変えても、性能に影響はない。そういったものは「デザイン」ではない。機能を改善する試みこそがデザインなのだ。これは、人生デザイン(つまり人生設計)でも同様。色や模様を変えるようなファッションではない。
幼い子供が、「いないいないばあ」で笑うのは、もうすぐまた顔が現れることを知っていて、自分が思ったとおりになったからだ。僕の犬も、僕の行動を逐一観察していて、先回りをしようとする。予測どおりになると唸って喜ぶ。
未来というのは、予測が不可能なものだが、それでも、自分一人でなにかを作るときに限れば、自力によって予測したものが実現する。不可能への挑戦に類似した成功体験こそが「楽しい」という感情につながるのだろう、きっと。
逆にいえば、多数の人間に関わる社会のシステムは、自分一人の力ではなんともならない。こうした方が良い、この方向へ努力すればきっと成功する、といくら考えても、大勢の賛同が得られ、多数が協力し合わなければ、思いどおりにはならない。
多くの人は、自分の思ったとおりにはならない、という不満を抱えているはず。いらついている人もいるだろう。こうなってほしいと願っても、そうはならないのが普通だ。世の中、辛いことばかりだと嘆いている。ネットは、そんな呟きでいっぱいである。
もっと良い暮らしがしたい。もっと好きなことに時間を使いたい。
でも、それらの根本的な原因は、自分以外の人に期待している点にある。自分だけではできないこと、すなわち、自分一人では不可能なことなのだ。まず、これを理解するべきだろう。そして、他者に期待しすぎない、というちょっとした認識と注意で、この不満から逃れることができる。
【小さな喜びを感じるためには?】
自分の楽しさを他者に求めることは、若いときほど多い。それは、社会にその機会が多数存在しているからであり、多くはなんらかの商売に取り込まれた結果でもある。人の幸せは、仲間でわいわい騒ぐ時間に存在する、と勘違いさせる圧力がある。
実は、歳を取るほど、ささやかな幸せを見つけることができるようになる。近所を歩いて、少し汗を流すだけで嬉しくなる、といった類の幸せである。ほんの小さな普通のことが、喜びを与えてくれる。若い人には信じられないだろう。これは、若いときほど大きな期待を持っているからにほかならない。その期待が自分に対するものでも、他者に対するものでも、思いどおりにならないから不満を抱き、あるときは絶望する。どうして自分はこんなに不幸なのか、と悩む。どうしてかって? 自身の期待から発しているのに、まるで不幸な環境に包まれているようにイメージされているようだ。
【無邪気ではないから美しい?】
さて、先日、腕の良い整備士が、僕のクラシックカーの小さな故障を発見してくれた。
ほんの小さなことに喜びを感じるのは、考えてみたら、面白い現象だといえる。歳を取ったおかげかもしれない。
今は新緑が輝かしく綺麗で、ようやく庭園内も木陰が広がってきた。苔の絨毯には無数の木漏れ日が動いている。こんな普通の風景が「綺麗だな」と感じられるのも、歳のせいだ。無邪気な幼い子供や犬たちにはわからない感覚である。いわば、無邪気ではないからこそ美しさがわかる。
桜の花が綺麗だとか、紅葉が美しいと感じるのも、無邪気ではないからだ。では、「邪気」のなせるわざなのだろうか? まあ、老人はみんな、死に近づく半病人なのだから、まんざら間違いではないのかも。
文:森博嗣