今月6日「news23」(TBS系)にりゅうちぇる(ryuchell)が出演した。この日の特集は「日本の防衛」。

彼が「ちぇるちぇるランド」と呼ぶ沖縄県の出身で、かつ、ちょっと前まで好感度の高い「モノ言うタレント」だったことが起用の理由だろう。



 しかし、今年8月、彼は離婚で株を下げた。



「これからは、今こうして皆さまに打ち明けられた事によって、僕自身が認めてあげられた本当の自分で、新しい形の家族を愛していきたいです」



 などと語ったが、要は性自認が「女」であるため「夫」として生きるのがつらくなったというものだ。一方、妻のぺこは理解を示しつつも「正直、墓場まで持っていってほしかった」と、普通の男ではないことを隠して結婚して子供まで作ったことへの繰り言も漏らした。



 しかも、彼は世間の男に向けて、子育てについての啓蒙まで行ってきた。たとえば、今年1月の悩み相談企画。3人の子供がいる専業主婦の妻の負担を減らすべく、料理や掃除洗濯まで手伝っているという夫からの「妻に感謝されることはなく、やって当たり前という態度。納得がいきません」という声に対し、



「感謝されたいって甘えすぎじゃない?パパとしての心構えが足りないのでは」



 と、叱りつけていた。



 離婚で少しは大人しくなるかと思いきや「news23」にも「27歳 4歳の息子 子育て中」という肩書で登場。ネットでは「響かない」「無責任」といった非難が飛び交うこととなった。当然の反応だろう。



 とはいえ、今回のカミングアウトにより、正式にLGBT枠の人となったりゅうちぇる。

この枠はいまや必要以上に尊重しなくてはいけないらしく、メディアも腫れ物扱いだ。LGBT無罪とでもいうべき状況のなかで、少数派ながら強者として奉られているので、たちが悪い。



 そんな人がもうひとり、氷川きよしである。ここ数年、女性的な面を露わにするようになってきて、今年の「紅白」には性別を超えた「特別枠」での出演が決定。最近のコンサートでは、



「氷川きよし業をやらせていただいたKiina(キーナ)でございます」



 とあいさつして、生まれ変わりをアピールしている。



 11月1日に出演した「うたコン」(NHK総合)では、過去の映像を見ながら突然泣き出す場面も。その理由について、



「昔はみんなに応えたくて必死だったなあって。映像みて自分な感じしない。ありがとうございました♪ LOVE♡」



 と、インスタグラムで説明したりした。



 こちらはかれこれ20年、本性を隠し、イケメン演歌歌手としてやってきたわけで、そこに同情する人もいれば、騙されたと怒る人もいる。ただ、この人の場合、創価学会員だという報道も。メディアに何かと忖度される、強者という意味ではりゅうちぇる以上ともいえる。



 なんにせよ、令和のオネエ系芸能人のツートップであるふたり。女性美へのこだわりという共通点もある。それも年相応の女性美ではない。「少女」のようでありたいと思っているふしがあるのだ。おそらく、子供の頃から、男でなければもっと可愛くなれるのにと考えたりしてきたのだろう。失われた期間を取り戻し、愉しみたいということかもしれない。



 だが、オネエは少女ではない。当たり前だ。



 たとえば、りゅうちぇるがインスタに上げた美少女風の写真について、持ち上げる人もいなくはない。「『一瞬、広瀬すずにみえた』激似ショットを公開」(中日スポーツ)とか「『黒島結菜に似てる』(略)『女やってるのが嫌になるくらい綺麗』と脱帽の声!」(日刊大衆)といった記事はそういう人向けだろう。



 しかし、それはあくまで男にしては可愛いという見方にすぎず、どう頑張っても、りゅうちぇるは広瀬すずにも黒島結菜にもなれない。これも当たり前、である。



 一方、すでに45歳である氷川が、若手美人女優になぞらえられることはさすがにないようだが、彼はその分、歌の世界で少女になろうとしている。前出のコンサートでは、自ら作詞した「魔法にかけられた少女」をラスト曲に選び、胸元を強調したドレスで熱唱。ちなみに、作曲は同じく創価学会員だとされる木根尚登だ。



 45歳のオッサンが13歳の少女にかつての自分の生きづらさを投影して綴った物語は、哀しくせつないが、おかしくもある。一時期「あらびき団」(TBS系)でも話題になった名古屋のタレント「セーラー服おじさん」こと安穂野香にも通じるおかしみだ。



 そういう意味で、このふたりのやっていることも世間的には「奇行」に値する。むろん、どんな奇行にも理由や原因はあるわけで、ふたりの場合は、女でありたいのに男らしくしなくてはというジレンマだろう。



 これまでにも、ふたりはちょくちょく、意外な男らしさを垣間見せてきた。



 りゅうちぇるは2016年、テレビのドッキリ番組で見せた勇敢な行動が話題に。バスの中からひったくりの現場を目撃して、助けに駆けつけるというものだった。





 対照的に、氷川は14年、男性マネージャーへのセクハラなどが報じられた。オネエ言葉でイチモツの大きさを聞いたり、男や宗教に興味がないと知ると、罵倒したり、ビンタなどの暴力も振るうようになったという。



 あくまで想像だが、生物学的に男である人が、完全に男を捨てることは難しい。その分、男らしくしようとすればすることもでき、カムフラージュの意味でもそれは有効なのだろう。



 だからこそ、りゅうちぇるはかつてジェンダーレス男子として売っていた時代にもイメージとは裏腹の勇敢さを見せたり、結婚後に「新たなイクメン」的子育て論を呈示したりもできたわけだ。それは性的グレーゾーンにいる者の強みでもあり、同じことが氷川にもいえる。「演歌の貴公子」として歌うときの凛々しさと高齢女性ファンへの優しさを両立できたのも、カミングアウト前、時々カバーする女歌がやたらとエモかったのも、つまりはそういうことだ。



 ふたりに限らず、芸能界、あるいは芸術の世界全般において、いわゆるオカマは多大な貢献をしてきた。その特異な芸術的才能と発揮は、両性具有的感性と少数派ゆえの抑圧のたまものである。このふたつの要素は両輪ともいうべきものだが、じつは後者のほうが重要かもしれない。



 話は少しそれるが、沖縄の島唄は米国占領下の時代がいちばん充実していたという話も聞く。抑圧こそがパワーを生むのだ。



 オカマも抑圧されることで、その感性が活きる。普通の男でも女でもないことをいじられつつ、普通の男や女にはない才能を畏敬されたりもするわけだ。



 その点、令和のツートップにはいささか残念なところもある。賞賛だけを求め、非難されることを封じようとしているように見える姿勢についてだ。



 たとえば、氷川はインスタで、



「揶揄ったりバカにしたりそんな毎日に人権なんてありもしない。一人の尊い命を色物にしないでほしい」



 と、呼びかけたりしている。が、性のあり方がどうこうに限らず、人は誰だって賛否両論のなかで生きているのではないか。せっかく優れた「色物」として世に出たのだから、賛否両論を堂々と受け止めてほしいものだ。



 なにせ、LGBT無罪という新たな特権は一時的なものにすぎない。それはポリコレという思想の異様な盛り上がりが歪ませた時代の流行りでしかないからだ。



 ともあれ、彼らのような人たちは基本的にしぶとい。今年いっぱいで活動をいったん休止する氷川も早期の復帰をにおわせているし、りゅうちぇるはインスタでこんな決意を披露した。



「有難いことに、こんな私でも、これからは本当の私として生きていく環境を頂けているからこそ、この先どんな波が来ても、しぶとく生きていこうと思っています」



 立派な決意に見えるが、忖度されながら自分だけの美や正しさを追い求めて生きていくのは、楽なことでもある。美輪明宏やおすぎとピーコといったレジェンドたちは、オカマをいじりつつ畏敬もするという世間の「普通」としっかり対峙し続けてきた。



 りゅうちぇるや氷川にも、できればそんな生き方をしてほしい。リスクを取らずして、本当の賞賛は得られないのだから。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)

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