授業が成り立たない・学習が遅れる・いじめが起きる・不登校の生徒が増える…“学級がうまく機能しない状況” が「学級崩壊」。「学級担任の指導力不足の問題や学校の対応の問題,子どもの生活や人間関係の変化及び家庭・地域社会の教育力の低下等」と複合的な原因を文科省は指摘しているが・・・。
■教室の崩壊は実は4月からすでに始まっている
新年度を迎えると、子どもたちの心は揺れ動く。揺れ動く心の中は、不安と期待が混ざり合った複雑な気持ちで満ちている。「新しいクラスでうまくやっていくことができるかな」といった不安や、「あの子と一緒になれればいいな、あの先生だといいな」といった期待が行ったり来たり。新しい始まりというのはそういうものだが、半世紀以上前、私が子どもの頃(半世紀以上前)からそれは変わらない。
私の記憶の中に、鮮明に残っていることがある。新年度になり、私は5年生になった。
その年、私には大きな不安があった。とても厳しいH先生が5学年を担当するという噂があったからだ。
「私は、自分のことをきちんと私にアピールしてこない人の名前は憶えません」(今なら完全にアウトな発言)
そう、言い放ったのだ。対人恐怖症で赤面症だと自認していた私にとって、とんでもないクラスに来たな、という「恐ろしさ」に似たものを感じた瞬間だった。それと同時に、今まで経験したことのない高揚感が沸き上がってきたのを憶えている。
さて、新学期が始まったばかりだが、伝えなければならないことがある。学校の現実的な問題として、「教室が崩れる」ことは珍しいことではなくなっている。それは日本の、どの地域の学校でも起こり得る現実なのだ。新年度が始まったばかりだというのに、もう「教室が崩れる」話か、と思われるかもしれないが、今だからこそ取り上げるべきことだと私は思っている。何故なら、崩れる教室の始まりは、教室が開かれる4月からすでに起こっているからだ。
一つの小学校で2つ、3つの教室が崩れる。それさえも特別なことではなくなっているというのが、日本の都市部の学校の現状である。しかし、「教室が崩れる」といっても、教室がある日突然にガラガラと崩れ始めるわけではない。そもそも「崩れる」というのはどういうことなのか、その経過を示すと、次のようになる(私自身が見聞きした実態である)。
■教室が崩れる予兆とは?
<教室の中>
① 教師の指示が一部の子どもたちに伝わらなくなる。教室内の私語が多くなり、授業が中断することが増える
② 授業中に子どもが授業とは関係のないことをする。子どもたちの話す声が大きくなり、授業中であっても、席の離れている者同士の言い合い(授業とは関係のない話で)が起こる
③ さらにその数が増え始めて、私語の声がさらに大きくなる。教室内は「話を聞く子」「席に座っているが関係のないことをやっている子」「席を離れて自分のやりたいことをする子」「教室から出ていく子」に分かれる
④ 離席する子の動きがさらに大きくなり、授業開始時に教室にいない子が複数いる。授業に参加する子が少なくなり、授業の体をなさなくなる。子どもたちは今何をやっているかを意識せず、自分勝手に動き、声をだして収集がつかない
多くの崩れる教室は、このような経過を辿り変化していくのだが、④のようになってしまうと、子どもたちの間に暴力を伴う言動が多くなり、担任の教師やふれあい補助員(支援員のこと)だけでは子どもたちの動きを収めることができない。所謂、学級崩壊である。
何故、このようなことが起こるのだろうか。
新しい集団になりたての頃は誰もが緊張し、周りの様子を伺う。子ども一人ひとりの動きは小さく、牽制し合っている。喧嘩も揉め事も少ない。先生に対しても、自分たちへの言葉のかけ方や自分たちの話を聞く様子をうかがいながら、この先生は怖いか怖くないか、自分たちの要求をどこまで受け入れてくれるのか、などなど、情報の収集に余念がない。よって、子どもたちの緊張や教師との緊張関係が続く限り、大きな揉め事は少ない。(この時期から言動に歯止めが利かないのであれば、先が思いやられる)
そして、一か月後。ゴールデンウイークのころ(教室によって差がある)には、子どもたちはクラスの雰囲気や人間関係、そして、自分の立ち位置が見えてくる。また、担任の先生に対しても、どのように対応すればいいのか分かってくるのだ。そして、この教室でうまくやっていける手ごたえを感じ始める(うまくなじめないと登校渋りが始まる)。さらに時間の経過とともに、その手ごたえが確信に変わり始めるころ、子どもたちの気持ちは、「緊張感」から「解放感」へと向かう。
すると、子どもたちの “あらたまり感” がなくなってきて、子どもたちの言動にも素の部分が多く見え始める。その後どうなるか?
■緊張感を失った子どもたちの言動とは?
● 自分なりに見極めた言動を見せる(教師への試しも含めて、自分の思いや行動がどれぐらい教師や仲間に通じるかより大胆になる)
● じっとしているのが苦手な子の姿勢が悪くなり、体の動きが大きくなる
● 学習内容を理解できない子がやる気のない態度を露骨に表す
● 承認欲求の強い子は、認められない時間が長くなると「つまらない」と言葉にし始める
緊張していた体や心が和らいできた時に、子どもたちの本来の姿が浮き彫りになってくるのだが、この揺り戻しの時期に取る教師の行動が、この1年間を決定すると言っても過言ではない。
新学年が始まってからしばらくの間、子どもたちが見ているのは、教師の一貫性と平等感だ。先生は自分たちに言ったこと(教師の1年間のビジョンや自分たちへの期待などなど)にどれだけこだわっているか。子どもたちはそれをしっかりと見ているのだ。「先生は言うことは言うが言ったことにたいしてこだわっていないな」と思われてしまうと、子どもへの言葉は、力を失う。
また、子どもたちは平等感を求めながらも、自分のことをしっかりと見てほしいという欲求はとても強い。この矛盾した気持ちを理解しながら、教師は子どもたちの様子を感知し、より多くの言葉がけをする必要に迫られる。子どもの欲求を満たしつつ(子どもの言動をしっかりと受け止め、認め、自分の思いや考えを子どもに伝える)、平等感を失わないというのはとても難しいが、この時期の教師は手を抜かず、子どもたちとしっかりと向き合い、やるしかない。
● 教師と子どもの関係を築く
● 子ども同士の関係を築く
● 教室はみんなで学び合う場であることを伝える
● 自立と協調の大切さを伝える
この4つは、教室を創る上での4本柱だと考えている。この4本柱を4月からの3か月で建てることができるのか、私自身の毎年の課題でもあった。
■子どもたちが見ているのは、教師の一貫性と平等感だ
私自身が5年生の初めに受けたM先生からの衝撃は、その後の2年間を決定した。そして、担任のM先生の姿勢は常に一貫し、その厳しさと子どもへの言葉がけは6年生の最後まで貫かれていた。その一貫したこだわり故に、子どもたちの主体性や独立心は培われたといっても過言ではないだろう。
私は今でも憶えているが、小学校の6年生最後の学級会は、私の教師としての目標地点にもなった程すばらしかった。突然指名されても平然とこなす司会者(当時の学級委員)の巧みさ、それに乗って自分の思いや考えを伝える子どもたちの自然な会話、時々介入する教師のタイミングの良さ、時に聞こえる笑い声、その時に得た満足感や達成感は、それまでの数々の試練を笑い話に変えていたのだ。
M先生は、たった一言で子どもたちに「このクラスの子どもたちは自分の思いや考えを持ち、それを伝え合わなければならない」という気持ちを持たせ、これから進むべき道を明確に示した。そして、それをクラスのすべての子どもたちに求め、言葉を駆使し、手を抜くことはなかった。その一貫性と平等感は、子どもたちにしっかりと伝わっていた。だから、2年後には子どもたちが主体的に動き、個々が満足できる学級会にたどり着くことができたのだ。
学年が変わり、新しい学年になった時、子どもたちはすべてをリセットし、新しい自分になろうと意欲的になる。それが子どもだ。このリセットしている時の子どもは、程よい緊張感もあり、とても吸収力がある。しかし、このような始まりの時は、そう長くは続かない。子どもたちだけではなく、この時期の教師の頑張り(自分の思いや考えをしっかり伝える)が1年を決めるのだ。
文:西岡正樹