早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【「要領の良い生徒」が危惧していた平凡な泥沼生活】
生まれ育った場所は宮城県。可もなく不可もなく、東京や大阪の流行が数年遅れて入ってくるような地方中枢都市そのもの。東北というだけで雪国だと思われがちだが、私が小さい頃ですら、雪だるまが作れるぐらいの積雪があったのは、一つの季節の中で数えるほどであった。夏も30度を超える日は少なく、街の活性度をとっても、気温をとっても、何の変哲もない平均的な場所であった。私は、そんな街でずっと暮らしていくと信じて疑いもしなかった。
高校は、県内でも有数の進学校に通っていた。生徒の自主性を尊重する自由な校風が売りで、行事もかなり充実していた。それに惹かれた中学生たちはこぞって志望校として選択していて、私もその中の一人であった。高校の三年間はとてつもなく楽しかった。
これまでのインタビュー記事は、こぞって私を「優等生」と形容してきたが、自分ではそうは思っていない。どちらかというと何か面白いことが発生したときに静観するというよりも、面白さの渦中に飛び込んでいくタイプであったからだ。勉強も学校生活も困ったことがなかったし、おまけに当時、学外でやっていた課外活動も高く評価されていたので、周りの大人からの信頼は厚かった。
「努力は決して裏切らない」
使い古された言葉に思うだろうが、私は、それをモットーに高校三年間を駆け抜けていた。しかしながら、その最中の姿を人に見せること、誇示することは苦手で、「要領の良い人」は、ただの自分自身のブランディングに過ぎず、実際は死ぬほど努力をしていたと思う。周囲の期待に応えるためならば、自分を失ってまでもすべて成し遂げていた。
いま思うと、その頃の私は、相当扱いやすい人間だったはずだ。だって、先生も友だちも「これをお願い」と頼めば、私が完璧なまでに、そのお願いを遂行するのだから。自我がかなり薄まっていた、というよりもないに等しかったのだと思う。そのころから、うっすらと地元に残るという選択をしたら、これが延々と続くのかという予感がしていた。そんな泥沼に引き込まれるのも、正直、何も選択しなくていいという理由で悪くないとも思っていたのだった。
【あの時自由を夢見ていた少女に、ただ一つだけ伝えたい】
事態が大きく変わったのは高校三年の春。
学年の先生から「指定校受けてみる気ない?」と打診があった。基本的に指定校が来ているのは東京の私立大学ばかりであった。私の中で胸が高鳴るのを、私自身はとっくに気がついていた。もちろん、東北大への進学を希望している両親とは、人生で初めての喧嘩をしたが、梅雨に入る前ぐらいには私の意志の強さに根負けし、東京への進学を許してくれた。
そこから秋の定期テストまでは気が抜けない日々が続いたが、校内の男子生徒の間では、「男子たるもの一般受験」という風潮があり、そのため、ライバルになるであろう人たちは少なかったし、私が指定校で受けると噂が流れてからは、ほぼ無敵状態であった。
そして、ついに11月、早稲田大の合格証明書を獲得した。あのころの先生たちは、私を指定校推薦者に選んだことを数年後に後悔していないだろうか。それを聞くことは叶わないが、確かにあの頃の私は、誰よりもその資格があったのは事実である。
東京へ向かう日、両親は特別な日だからと、はやぶさのグリーン車の切符をとってくれた。「すぐに会える距離だから」と、どこかお互いの寂しさを拭いあったことを、いまも鮮明に思い出すことができる。荷物はすでに東京に配送済みで、私が抱えていたのはスーツケース、ただ一つだけであった。
(第3回へつづく)
文:神野藍
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