早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【シャワー室の鏡には、散々な姿の女が映し出されていた】
開始してからどれくらい経っただろうか。真っ白な光が私の姿態を包み込んでいる。視界がぼんやりとしている、酸欠だろうか。あらゆる開閉口が締め切られた部屋の中はべっとりと身体に纏わりつくような生ぬるい空気が漂い、汗と唾液、あとはスタジオ特有のほこり臭さが混じって鼻孔を刺激する。その空間に存在する全てが今行われている行為の不快感を増長させていた。
「カット!」待ち望んでいた監督の声が響き渡る。
「ああこれで終わりだ、やっと帰れる」と失いかけた意識の中で安堵する。カメラの外側に待機していたスタッフたちが心配そうにウェットティッシュなどのケア用品やバスローブを抱えて近寄ってきた。
「ありがとうございます。
屈託のない笑顔でそう伝え、身体に残るわずかな力を振り絞り、足早にカメラの前から立ち去った。
身体中のいたるところに精子やローションがべっとりとつき、顔面に押し付けられて溶けきったアイスクリームが髪の毛にまとわりついている。シャワー室の鏡には、そんな散々な姿の女が映し出されている。こんな風になるのならば、開始前のメイクさんの頑張りは全て無駄かのように思えてしまう。鏡の中には先ほどまでの明るい女優は存在していなかった。二人がかりで押さえつけられた手足は所々こすれて赤くなっていた。頭上のシャワーから熱いお湯をどんなに噴き出しても、心の中に停滞している淀んだ何かが綺麗に流れることはなかった。ただただ擦り切れた部分にお湯が沁みてきて、分かりやすい痛みの形となって突き刺さった。
参宮橋にあるスタジオから新宿御苑の自宅へ向かってタクシーを走らせる。住所を伝え、話しかけるなと言わんばかりに早々にイヤホンで耳をふさぐ。甲州街道に出て新宿駅の横を通り、御苑のトンネルの前で脇道に入る。24:00前。
窓の外の風景を眺めているうちに自宅前に到着した。タクシーを降りて、オートロックを解除し、エレベーターに乗り込み11階のボタンを押す。玄関を開けて、仕事用のトートバックを乱雑に置き、そのままソファに倒れこんだ。そこでようやく今まで張りつめていた緊張の糸がプツンと切れ、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。
【過呼吸を引き起こして、一度撮影が止まったとき】
今でも目をつぶれば簡単に思い出すことができる。喉の奥まで物体を突っ込まれて、苦しくて何度もえずいて唾液と涙まみれになったこと。だんだんうまく息が出来なくなって、目の前が真っ白になったこと。
月日がいくら経ったとしても、私が自覚している以上に奥底に抱え込んでしまった淀みは深く影を落として、私の中から綺麗に消え去ってはくれない。カットがかかった瞬間にフィクションだから、演技だから、そんな風に片づけられたらどんなに楽だろうか。頭の中では「仕事だから」と割り切れているはずなのに、未だに精神的な部分はただれたままで、じりじりと焼けるように蝕まれる感覚がある。
あの頃の私は焦っていたのだろう。仕事の幅を広げないと「自分自身の快不快」よりも「渡辺まおが求められていること」―もっと言及するならば「こんな撮影あるよ。無理だったらあなたじゃなくて他の人に回すけど、どう?」といったものまで追いかけすぎていたのだと思う。
その頑張りが特に何の意味もなさないと気づいたときには、既に後の祭りで、私の終わりが徐々に近づいてきていた。
【業界に対しての恨みを言っているのではない】
この回の最後に一点誤解のないように説明しておきたいのは、「そんな出来事があったので業界を糾弾したいです」なんていう理由でこの事柄をわざわざ思い出して書いているのではない。
ただ、私は過去の自分―当時無我夢中すぎて自分の感情に説明をつけることをしないまま放置されていた存在に、現在の俯瞰で見れるようになった私が手を差し伸べ、過去に起きた出来事について解くことで、過去の自分を赦し、救済できればと思うのだ。
(第6回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定