総合格闘技イベント「RIZIN」に異色の経歴を持つプロレスラーが参戦している。彼の名前は関根“シュレック”秀樹。
■子供の頃は「超人」になりたかった
関根“シュレック”秀樹は小学校から大学まで、柔道に打ち込む生活を送っていた。子供の頃に好きだった漫画は「キン肉マン」で、原作の影響を受けて「超人」になりたかったという。柔道部の友人の影響を受けてプロレスにもはまった。当時のめり込んだのはUWFインターナショナルだった。関根は「俺は高田延彦信者」というほどの大ファン。
「警察官試験受けてくれって懇願されちゃったんです。行くだけ行って嫌だったら辞めてもいいからって言われて警察官になりました」
警察官になった関根は交番勤務から機動隊、マル暴担当の刑事と順調にキャリアを積んできた。当時は先輩からのイジメなどもあったという。
トイレ掃除ができていないというだけで勤務時間後、交番の裏で水が入ったバケツを両手で持たされたまま2時間立たされたこともあった。しかし嫌がらせも乗り越えて警部補に昇進。そんな彼に転機が訪れたのは柔術との出会いだった。

■ 「柔道の亜流」と思っていた柔術をなぜ始めたか?
プロレス・格闘技好きの関根が柔術を始めたのは、思わぬ理由からである。
「当時の自分はマル暴担当の刑事として、それなりに情報提供者もいて結果出していたんですよ。でも、その時の上司に意地悪されて外国人組織犯罪の部署へ異動させられたんです。浜松は結構外国人犯罪が多くて、新しく部署ができて自分が行かされたんですね。
関根が当時捜査していたのはブラジル人によるカーナビの窃盗だった。盗んだカーナビを暴力団が買い上げてオークションで売りさばいていたという。そこで犯人の足取りを掴むためにブラジリアン柔術を始めた。自分の憧れである高田延彦を破ったヒクソン・グレイシーはブラジリアン柔術の達人。仇討ちのような気持ちはあったのだろうか。
「浜松は元々柔術が盛んで、自分も地元の先輩からずっと誘われていたんです。でも、柔道が一番だと思ってました。柔術は柔道という本流から枝分かれしたものって頭があったんです。しかも高田さんや船木(誠勝)さんを倒したヒクソン・グレイシーは嫌いでしたし、ブラジリアン柔術も嫌いでした。でも強さはわかっていたので、情報も取れるし、これを機会に始めてみようというのが最初の気持ちです」
柔術始めた関根はわずか4カ月で大会に優勝。2009年には浜松で総合格闘技デビューをするほどの成長を遂げた。
■巨人症だとわかって最初は嬉しかった理由
関根は警察官としての職務を全うしながら、試合にも出場して連勝し続けた。マスクを着用し、素顔を隠して試合をすることもあった。一方で彼の肉体は若い頃から思わぬ変化が起きていたという。
「38歳のときに下垂体腺腫(巨人症)の手術をしたんですけど、医者に珍しいって言われるくらい腫瘍がパンパンに大きくなっていたんです。手術も3時間で終わるところ1日かかりました」
下垂体腺腫(巨人症)とは成長ホルモンの分泌に関わる下垂体という器官のなかで、前葉と呼ばれる部分から発生する腫瘍の病気である。成長ホルモンが過剰に作られてしまい、高血圧や糖尿病をきたしてしまう。また発汗が多くなったり、動悸が起きたりもする。
「自分の場合は、高校生の頃から筋肉が付きやすかったり、人より飯を食べたくなったりしていました。人間がご飯を食べると眠くなるのは、血糖値が上がって大量にインスリンが出てくるからです。人は栄養を吸収するときに眠くなるんですけど、自分の場合は、成長ホルモンがドバドバ出ていたせいでインスリン抵抗性といってインスリンが効かなくなる状態だったんです。
だから血糖値が高いままなので常に眠い状態だけどお腹が減ってくる。
自分で体の変化に気がついて、ネットなどで色々と調べたそうだ。それで「自分はもしかしたら巨人症かもしれない」と思ったという。しかし彼は気づいていながらすぐに治療をしなかった。
巨人症はすぐに治療をすれば命にかかわるようなことはない。10年生存率はほぼ100%と言われている。ただし、種類を問わず腺腫が3~4cmと大きいもの、成長ホルモンないし副腎皮質刺激ホルモン分泌性腫瘍で治療後もホルモン値が正常化しなかったものついては、合併症によって不自由な生活を強いられるという。なぜすぐに治療を受けなかったのだろう。
「天然のドーピングだなと思ったんです。自分はキン肉マンが好きで超人になりたかった。鍛えれば鍛えるほど筋肉がついていくので人を超えられるかもって喜んでましたね」
そうしてどんどんと筋肉とともに体重が増えていくが、とうとう肉体が耐えられなくなった。
「糖尿病がひどくなってしまい、ある日当直明けに立てなくなったんです。それで救急車呼んでもらったら即入院。家にも帰してもらえませんでした」
手術で腫瘍は全部取り除き、現在は毎月2回血液検査をして、「チラージン」という薬を飲んでいるそうだ。

■「後悔したくない!」と43歳で人生最大の決断をする
関根は43歳でプロのファイターに転向することを決意する。周りからは「もったいないから止めろ」と言われたそうだ。当時の関根は警察官として実績を重ねており、平均年収約450万円を遥かに上回る給与をもらっていた。公務員でいれば生活は安定したままだし、退職金も多く得られる。将来の年金を心配する必要もない。周りの人が警察官に留まるべきだと言ったのもわかるだろう。
それでも安定した地位を捨てるのだから並大抵の覚悟ではない。しかし気になるのは家族の反応だ。関根の妻は反対しなかったのか? 彼に尋ねてみた。
「反対しましたけど、自分の好きなことをやった方がいいよと言ってくれました。俺が言いだしたらどんなに反対されてもやる性格というのをわかってるからだと思うんです。妻は美容師で自宅の一階を美容室にしているんですけど、自分も夢を叶えてもらったからあんたも夢叶えればいいよって言ってくれました」
妻からの後押しを受けた関根は19年間勤めた静岡県警を辞職。格闘家として活動をスタートした。このとき43歳。プロレスラーや格闘家として引退を考えてもおかしくない年齢での挑戦であった。
退職後の関根は、アジア最大の格闘技団体「ONE Championship」と契約。この団体はシンガポールを拠点に、日本、中国、タイ、ミャンマーなどアジア全土で定期的に興行を開催している。その団体では負けが続き、結果を残せなかった。その後、日本に拠点を移した関根は復帰戦をTKOで勝利。足がかりを掴んだときに思わぬところから参戦のオファーがきた。「RIZIN」である。
RIZINは、2000年代の総合格闘技ブームの中心的存在であった「PRIDE」代表の榊原信行氏が立ち上げた団体だ。自らを「高田延彦信者」と呼ぶ関根にとって夢の舞台だったのは言うまでもない。何せ「PRIDE」は高田延彦がヒクソン・グレイシーと戦うために作られた場であったからだ。
「元々の夢じゃないですか。断る理由ありませんよね。それにPRIDEはUWFだと思うんですよ。だってRIZINは未だに煽りだったりとか、物語を重視してると思うんです。多分4分の1ぐらいはプロレスのエッセンスが入ってると思うんですよ。当時僕らは佐藤大輔(PRIDEの煽り動画を作っていたクリエイター)さんの煽り映像があって熱狂してというのはあったし、他の総合格闘技とは考えが違いますよね」

■ プロレスと総合格闘技は似て非なるもの!?
しかし、夢の舞台である「RIZIN」の初戦では完敗を喫してしまった。このとき関根は総合格闘技を引退してプロレスに専念すると周囲から思われていた。
「どちらかに専念しようって考えはプロに転向したときからありませんね。プロレスは諦めた夢だった。PRIDEは憧れていた舞台。格闘技ブームの頃、自分でチケット買ってPRIDEを観に行ったときに活躍していたのは桜庭(和志)さん、高山(善廣)さんとかUWFの選手だったんです。俺もあのとき諦めなきゃっていうのは常にあって。そういう場ですよね。だからどっちを選ぶってのはできませんね」
プロレスラーと総合格闘家、似て非なるものの活動を同時に続ける関根に現在のプロレスと総合格闘技についてどんな思いを抱いているのだろう。
「技術的な部分を見ると、プロレスは受けるのが華になっているところがあるし、プロレスと格闘技の競技性が明らかに違うところがあります。今プロレスはカテゴライズされていて、昔のDRAGON GATE(日本の競技性、アメリカのエンターテイメント性、メキシコの技術感をミックスしたスピード感あふれるレスリングが特徴のプロレス団体)のようにすごいテクニックになっています。そういった部分に格闘技性を持ってこられるプロレスラーは数人くらいでしょう」
関根はプロレスと格闘技は別の競技だと思っていない。総合格闘技にもプロレスのような華が必要だし、反対にプロレスにも総合のような説得力のある強さがないと、リング上でのテクニックで観客を納得させる力が生まれないと考えている。
かつて「プロレスこそ最強」という看板を掲げたアントニオ猪木は、モハメド・アリを筆頭に数多くの格闘家と対戦することで証明しようしてきた。1980年代後半に一大ブームを巻き起こした団体UWFは、従来のプロレスでは当たり前だったロープワークなどを排除し、競技性を高めることでプロレスの強さを示そうとした。
猪木の異種格闘技戦やUWFは今の総合格闘技の原型と言われている。彼らが残したものは今のプロレス界にあるのだろうか?
「説得力を出すという意味で必要なのがそういったプロレスも格闘技もできる人材だと思うし、それが猪木さんだったり、佐山聡(初代タイガーマスク)さんが言っていたストロングスタイルだと思います。佐山さんはストロングスタイルプロレスという団体をやっていていつもこう言っています。
『UWFも何もかも全て入れたのがストロングスタイルでありプロレス』
そこに戦いがあるということですよ。この歴史の流れがすごい面白い。今、自分がその中に入れてもらえているのはすごい嬉しいですね。この状況を考えると、どっちかってできないんですよ。両方できてこそプロレスだと思います」
「プロレスラーは本当は強いんです」と言った桜庭和志は総合格闘技戦で連戦連勝して、自らの言葉を証明してきたのは今から20年ほど前のこと。その勇姿を見ていた関根は再びプロレスラーの強さを証明し、格闘技のエッセンスをプロレスに伝えようとしている。その活動を彼は「天啓」と言った。
「今のマット界でそれができる人間ってどれくらいいますか? ものすごく少ないと思います。だからこそ嬉しいんです。オファーがくればプロレスも総合格闘技も出ます。この感覚は変わりませんね」
プロレスラーはかつて非常識の代名詞的な存在であった。人ができないことを平気でやってのける存在として生き続けたいというのが彼の望みなのかもしれない。

■ アラフィフでもまだ間に合うから大きな花を咲かせようよ
プロレスと総合格闘技を股にかけて活躍する関根に、筆者は一つ聞いてみたいことがあった。それは2022年9月に行われた「タカ・タイチ・デスペマニア」の前に起きたSNS上でのやり取りのことである。関根はこの興行で参戦が決まっていなかったが、デビュー30周年記念試合が決まっていたTAKAみちのく(1990年代に世界最大のプロレス団体WWF(現WWE)で活躍した日本人レスラー)へSNSで対戦要求をしたのだ。
TAKAは「自分の試合はもう決まっているから」と断ったが、関根は後に引かず申し出を続けた。その粘りが通じたのか、TAKAは5対5のタッグマッチながら関根との対戦と記念試合の2試合に出場することになったのだ。実はTAKAみちのくと関根は昭和48年生まれの同い年。同年代へのエールだったのかずっと気になっていた。
「僕らはベビーブームの頂点ですよね。昭和48年前後を合わせるとみんなすごく人数が多い世代。人口分布で言えば、天才だったり、今いろんな組織を引っ張ったりしている人間がここから出ていないとおかしいくらい。確率的に一番の天才が出ないといけないところだと思うんです。
だけど社会に出たとき、上の世代からいじめられたり、そもそも就職氷河期で芽が出なかったりしたかもしれない。結婚もできずに歳を重ねてきた人もたくさんいます。ベビーブーマーが結婚できないから少子化が加速した面がありますよね。
でも、このまま落ちぶれていいのかって言いたいんですよ。まだ俺らはできるぞって。だからこそTAKAさんとやりたいと思ったんです。だって彼は僕らの世代の天才ですよ。若いときにアメリカで活躍して、今ジャストタップアウト(TAKAみちのくが作ったプロレス団体)でも若手をすごく育てている。自分ら世代の代表なので、まだ活躍してほしいですよね。若い子を潰さずに前に出す気持ちはわかります。でも僕ら世代の代表選手だから対戦要求をしたんです」
やはり彼なりの叱咤激励だというのがわかり、筆者は胸がいっぱいになった。そこで同世代へ向けてメッセージがないかを尋ねてみる。
「同年代は自分も含めてまだ1回も花を咲かせていない奴が世の中たくさんいますよね。みんなに『俺たちまだいけるぞ。かませ犬じゃないんだから最後のパワーを振り絞って一回花咲かせてみようよ』と言いたいです」
2021年の大晦日。さいたまスーパーアリーナで行われた「RIZIN33」で17歳年下のシビサイ頌真(しょうま)との死闘を制した関根は動くことができず、リングにしばらく横たわったままだった。ようやく立ち上がり、勝ち名乗りを受けるときは号泣。ダメージを受けて塞がった左目からも大粒の涙を流していた。マイクを握った彼はこう言った。
「病気があっても、どんな困難があっても、諦めなければ良いことがあるから」
この言葉は同年代へのエールでもあったそうだ。
「僕らが子供の頃、50歳は終わったおじさんたちでしたよね。インターネットとかインフラがすごい整ってきて社会は変わった。今は一瞬で情報が世界を駆け回る時代です。新しい価値観とかが生まれているのだから視野を広く持って諦めずに何でもチャレンジしてみようよって言いたい。おじさんでも若い人でもチャレンジすれば成功できる土壌があると思うので頑張ってください」
関根“シュレック”秀樹のリングネーム「シュレック」は、米国のアニメ映画に登場する醜くも心優しいキャラクター”シュレック”の名を冠したもの。その名の通り「心優しき」男であった。
文:篁五郎