ジャニーズ騒動。
前回の記事(美空ひばりとジャニー喜多川、大物たちへの手のひら返しバッシング。
そこから局面が移り、最近では別の騒動との共通点も感じている。岡田有希子の自殺によって起きたユッコシンドローム騒動だ。
アイドルとして活躍していた彼女は、1986年4月に所属事務所のあるビルから飛び降り、18歳で死去。主演ドラマ「禁じられたマリコ」(TBS系)で共演した年上俳優・峰岸徹への片想いと失恋が原因とも取り沙汰された。
とはいえ、やや陰謀論的な噂(じつは石原プロモーションの某俳優が絡んでいて、峰岸はダミーにされたらしい云々)も出て、真相は藪の中に。ただ、はっきりしていたのは彼女の死後、子供や若者の自殺者数が増加したことだ。いや、この年の1月から青少年の自殺が目立つようになり、彼女もその渦に巻き込まれたとも考えられるが、彼女の死がさらに拍車をかけた。
結果として、この年の青少年自殺者数は前後の年より1.3倍を記録。メディアはこの現象を「ユッコシンドローム」と名付け、それが彼女をめぐる扱いに大きな影響を与えることになる。その死について語ることはタブー視され、翌月に出るはずだった新曲は発売中止。生前の映像も歌声も流されることはなくなった。
この背景には、前出の陰謀論的な噂についての政治的忖度や、遺族(芸能界に拒否反応を示した彼女の父親)に対する道義的忖度も関係していたが、最大の動機はやはり、実際に自殺が増加したことへの社会的忖度だったのだろう。これにより、彼女はまるで自殺幇助の犯人みたいに見なされ、その存在自体がなかったことにされてしまう。前出のドラマタイトルではないが「禁じられたユッコ」という状況だ。
しかも、その状況は恐ろしいほど長く続いた。発売予定だった遺作「花のイマージュ」が限定版CD「メモリアルBOX」のなかで世に出たのは死後13年たってからのこと。その頃からようやく、ラジオなどでもその歌声がまれに聴かれるようになった。最優秀新人賞を受賞した日本レコード大賞の振り返り企画などでも、彼女の場面がカットされなくなるのはそのあたりからだ。
つまりはそれくらい「芸能界の闇」みたいな扱いを受け、人としても文化としてもキャンセルされ続けたのである。
一方、今回のジャニーズ騒動においても、キャンセルが起きている。
事務所名やグループ名の変更、トップの交代やタレントの引退、曲の封印やCM契約の解除。「NHK紅白歌合戦」では44年ぶりに出場者がゼロになりそうだ。レコ大がジャニー喜多川に贈っていた特別音楽文化賞も取り消され、タレントたちが「ジャニーさん」のエピソードを楽しく語ることも今はない。
岡田有希子のときのように、まるごと消されたわけではないが、彼女はあくまで個人であり、芸能界での実働も約2年にとどまった。これに対し、ジャニーズは半世紀以上にわたって莫大な数のタレントと作品を生んできたことを思うと、こちらもかなりの消されようである。
また、岡田について「自殺幇助の犯人」みたいにされたと書いたが、ジャニーズについても法的な意味ではほぼ「冤罪」にすぎない。雑な証言に雑な報道、事務所に好意的でなかった勢力の報告書に乗せられ「法を超えて」救済するなどと公言してしまった対応ミス。要はジャニー喜多川を大悪人に、ジャニーズタレントたちを悪の味方に仕立てて叩きたい空気感に抗えず、濡れ衣を着せられただけのことだ。
叩く側が時々、錦の御旗みたいに持ち出す裁判の結果にしても、その実態は「週刊文春」の記事をジャニーズ側が名誉毀損だと訴えたもの。セクハラと思われる事実も認定されたが「文春」も損害賠償金を支払わされた。法的な証拠は後にも先にもこれだけなので、現在の叩き方、追い込み方は明らかに行き過ぎだろう。
にもかかわらず、なぜそこまでキャンセルしようとするのか。岡田有希子のときも感じたことだが、こういうとき、人や事務所、作品を消そうとするのは、芸能を愉しめない人たちだ。芸能を好きではないというか、その作品にもスキャンダルにも人間ならではの業がにじみ出ることを思えば、つまりは人間そのものを好きになれない不幸な人たちである。
そこで思い出されるのが、芸能を愉しむ達人だったナンシー関がマイケル・ジャクソンについて書いた文章。
「たとえばマイケルは猿のバブルス君(今も生きてるのかなあ)が大好きである。親友だ。猿だけど。もう、バブルスを抱いて成田空港に降り立ったマイケルってだけで、私は本当は十分うれしいのである」
また「マイケルは童貞だ」という噂についても、
「これは主語がマイケル・ジャクソンでなければ噂としてさえ成立しないだろう。やっぱり『人柄』と言うしかない」
といった調子で絶賛(?)した。
なお、この時期、マイケルは少年への性的虐待疑惑騒動の渦中にあったが、無実を主張。ただ、仕事上のキャンセルが相次いだこともあって、示談による金銭的決着を選択した。さらに、その12年後にも同様の騒動が起きたが、このときは裁判をやり、勝訴している。つまり「冤罪」だと証明したわけだ。
それはさておき、ナンシー関の愉しみ方が優れているのは、一貫して自分を「客」あるいは「野次馬」の立場に置いているところだ。しかし、最近は「客」や「野次馬」では飽き足らない人が増えた。
ちなみに、こうした傾向は1980年代半ばの「ロス疑惑」騒動あたりから始まっている。それこそ「週刊文春」が「疑惑の銃弾」と銘打ち、悲劇の夫と見られていた三浦和義が保険金目当てで妻を殺させたのではと告発。三浦のどこか魅力的なキャラクターもあいまって、大きな注目を浴びた騒動だ。
が、裁判では無罪となった。その後、米国で逮捕され、自殺してしまったものの、法的にはあくまで冤罪である。
筆者は40年近く前、この騒動が好きになれず、同世代の友人に「マスコミは告発なんてしてはいけないと思う」と言ったら、ひどく驚かれた。おそらく、告発こそがマスコミの仕事のひとつだと考えていたのだろう。その友人はその後、新聞社に就職したはずだ。
そして今、当時抱いた思いはますます強まっている。正義を気取り、不公平な報道に走りやすいというか、世間の喜びそうな正義のためならどれだけ歪んだ報道も辞さないマスコミなど、芸能あるいは芸術にとって百害あって一利なしだからだ。
まして最近は、ロス疑惑の頃と違って、大衆が「客」や「野次馬」では満足しなくなっている。今回のジャニーズ騒動では、慰安婦問題、草津町長セクハラ冤罪事件といったものを演出したり、たきつけてきた人たちが旗を振り、一部の大衆が一緒になって叩くという構図がいっそう露わになった。「温泉むすめ」のような萌え絵による盛り上げ企画を妨害する層とも、それは重なっている。
ジャニーズも萌え絵も、日本が長年かけて築き上げてきた文化であり、それを消そうとすることは、宝物を奪ってゴミ箱に捨てたり、燃やしたりするのと同じことだ。
たとえば、KinKi Kidsがジャニー喜多川に捧げた「KANZAI BOYA」という曲がある。ジャニー独特のセンスや口癖を愛情をもっていじったもので、じつに味わいの深い内容だ。こういう曲も当分、披露されることはないのだろう。
あぁ、もったいない。ここはもう、ジャニーがもったいないオバケとなって、叩いている人たち全員の夢に現れてほしいくらいだ。
文:宝泉薫(作家、芸能評論家)