東大理三に入学するも現代医学に疑問に抱き退学、文転し再び東大に入る。東大大学院博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、現在「てらてつ(お寺で哲学する)」を主宰する異色の哲学者・大竹稽氏。

深く迷い、紆余曲折しながら生きることを全肯定する氏が、「リカレント教育」なる言葉の裏を探る。意識高いビジネスパーソンが陥る落とし穴とは? 



「リカレント教育」という国策看板用語に騙されて〝社畜どころか...の画像はこちら >>



 昨今、少々耳障りな流行語がまた出てきました。その兆しはすでに平成から感じてはいたのですが……。



 平成30年3月23日のことです。故安倍晋三元首相は、総理大臣官邸で第6回「人生100年時代」構想会議を開催しました。この会議で例のキーワードが登場したのです。「リカレント教育」です。この会議での尊敬する安倍首相の発言を、首相官邸ホームページから引用してみましょう。



 「本日、議論を行ったリカレント教育は、人づくり革命のみでなく、生産性革命を推進する上で、鍵となるものです。リカレント教育の受講が職業能力の向上を通じ、キャリアアップ・キャリアチェンジにつながる社会をつくっていかなければなりません。リカレント教育を進めるため、労働者の時間的余裕を確保するとともに、受講の際の負担軽減制度の大幅拡充を図ります。ただし、制度を拡充するのであれば、対象講座をふさわしいものに改善していくべきとの意見もありました。

教育内容の実践性を高めるためには、実業出身の実務家教員の育成に加えて、企業参加の下でのプログラム策定やインターンシップを取り入れるなどの取組が不可欠でございます。産業界の全面的な協力をお願いしたいと思いますのでよろしくお願いします。(中略)働き方が変わる中で、企業内教育にのみ人材育成を期待するのは限界であります。教育機関、産業界、行政が連携してリカレント教育を進めてまいります。この夏に取りまとめる基本構想に向けて、教育訓練給付の拡充、そして産学連携によるリカレント教育プログラムの策定、企業における中途採用の拡大、技術者のリカレント教育等について検討を進めます」





 ああ、こうして疑うことを知らない人たちは騙されていくのですね。



 これまで聞いたこともない言葉を使うことで、本質的な問題から目を背けさせる。「新しい問題」を「新しい言葉」で提示することに、どんな意味があるかと聞かれれば「本質を忘れさせる」と私は答えます。



 しかも、聞いたこともない言葉が国策の看板になってしまうと、その言葉が熟成する間もないままに権威になってしまいます。こうして儲けを企む不貞の輩が現れます。しばらくすると、この宣伝文句にはまったものの減らない不満に嘆く素朴な人たちが続出するでしょう。



 繰り返しますが、私は基本的に安倍首相に敬意を持っています。しかし、哲学をする者の性分なのか、どうしても言葉の背景が気になってしまうのです。

その言葉が誕生する因果とか物語を自分なりに考察し、確認していかないと居ても立っても居られないのです。



 で、「キャリアアップ・キャリアチェンジ」って何ですか? 90歳100歳の人にさらに「アップ」「チェンジ」ですか?  DXに追いつくことが「アップ」「チェンジ」ですか? そもそも「キャリア」って何ですか? 「職業能力の向上」って新しい知識や技術を獲得することですか? それこそ、機械ができることなのではないですか? 向上なんてしなくてもいいじゃないですか! さらにそもそも、「人生100年時代」って何ですか? 死ぬまで苦役を強いられ税金を払えることですか?



 このような疑問を、権威によってごまかしてしまうのが流行語です。特に日本人は外来語に弱いですよね。国外から失笑されていることに気がつきませんか?思想の領域でも、マインドフルネスやらウェルビーイングやら、続々と流行語が生まれていますよね。そして流行に弱い人たちがこぞって、中身を十分に考察することもないまま、自ら考えて試行錯誤することもないまま、これらの流行語を信奉しているようです。憐れです、全く。



 今や「思考奴隷」が量産されています。しかも本人が気づかないままに。至る所に好例がありますが、「リカレント教育」もその一つです。





■短期的にスキルを身につけさせ人手不足を補うもの。それだけ



 本来、「教育」は長期的でかつ双方向的なものです。先生は生徒になり、生徒が先生になり、その関係が相続されながら、どちらも熟していくのが教育なのです。

しかし「リカレント教育」の講座は、短期的にスキルを身につけさせるものが大半を占めています。私の知らない「本来的教育講座」があればいいのですが、寡聞にして知らず。



 確かに、環境整備は大切です。「学びたい」人に手が届くような環境は欠かせません。しかし、学びたくもない人に強いるのは学びに矛盾します。どんな権威も、内発的な動機に劣るのです。そして、短期的なスキルは、さらに次の新しい短期的なスキルによって駆逐されていきます。機械は、次のバージョンにアップデートできなくなれば捨てられるのです。



 アップデートとか、人間に対して気楽に言うなよ!



 取り乱しました。短期的な結果が出せなければ生産性に反します。機械化された人間は、死ぬまで生産性という名の苦役を、流行語の権威にごまかされながら強いられるでしょう。



 「リカレント教育」は、人間を教育・育成するものではなく、機械化させていくものになっていませんか?



 「思考奴隷」は、疑問を持ちません、そして自ら答えを出しません。

それが機械。むしろ、この流れに対して躊躇し、態度を決することができない人たちが、本来の人間力を示しているのです。知らないことは愚かではありませんし、一見無鉄砲に見えても、知っていてなおその選択を選ぶのも愚かではありません。愚かとは、権威に踊らされて疑うことを知らないことなのです。



 「リカレント教育」、なんてかっこいい響きでしょう。「キャリア・アップ」、なんて魅力的なんでしょう!



 まぁ、いいでしょう。私は時代の寵児になろうとか、みんなのリーダーになろうなんて、逆立ちしても天地がひっくり返っても思いません。ただ、豊かで健やかで自由な考えを楽しみたい。だから、めくらましにあっている思考奴隷たちが見えてしまうのです。知識でもスキルでも、「なければだめ」という奴隷的思考です。「なくてもなんとかなる」という健全な思考を養うのが、教育だと私は確信しています。



 さて、ネガティブの哲学者大竹稽は、今回「リカレント教育」に憤っています。

今回はキャリアという視点から考察しましたが、残り二回は「自主性」と「現役」をターゲットにしております。どうぞお楽しみに。





文:大竹稽

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