森羅万象を観察し、深く思考すること。そこに新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白いものになる――。
第9回 右肩上がりでない未来
【持続と維持の大切さ】
体調不良を何度か書いたので、お見舞いのメールなどが多数届いた。その後は元気ですので、ご心配なく。一方、奥様(あえて敬称)のスバル氏は、目の手術や足の捻挫などで、ここ最近は一人で歩けない状況。秋にガーデニングに頑張りすぎたせいかもしれない。いずれも病気ではなく怪我の部類なので、時間が経過すれば治るものだから、こちらもご心配なく。犬たちは、いたって快調。庭園鉄道もクルマも快調。
寒い季節になると、怖いのは停電だ。
とはいえ、自分の庭で運行している小さな鉄道でさえ、完璧な状態を維持することは難しく、つぎつぎとトラブルが発生し、その修繕・復旧に追われる毎日であるから、人のことはいえない。なにかを作り上げるのも大事だけれど、それ以上に、それらを維持することに頭を使わなければならない。
つい、完成したら万歳、あとはもう幸せな毎日が待っている、と思いがちだが、あらゆるものが劣化する。日本の産業というのは、発展するシチュエーションばかりに注目しがちで、発展ののち頭打ちとなるだけで、とたんに斜陽だ、じり貧だと溜息をつく。もう少し、ものごとを持続する行為、じわじわと生き延びる方策、そういった水平飛行の姿勢に目を向けても良いのでは、と思う。「粘り強い」と、わざわざ評価するほどのことでもなく、滑空するように自然体で高度を下げるのも、ある種の「健康」といえるだろう。
年寄りこそ、そういった境地になれるチャンスといえるのだから、「発展志向」の社会に率先して水を差す役割を果たしてもらいたい。そんなタイプの政治家が不足しているのは、「発展志向」に取り憑かれた業界からの献金が、政治家の偉さの指標になっているせいでは、と想像する。
【ライフサイクルコスト】
古いおもちゃを沢山持っている。機関車の模型は100年以上まえの製品も珍しくない。動力は、ゼンマイか、あるいは蒸気機関、つまりアルコールを燃料として火で水を温め、発生した蒸気でピストンを動かす仕組みだ。こういったおもちゃは、その後はモータと電池に駆逐され、すっかり消えてしまった。室内で火を使うおもちゃなんて、現代では危険すぎて許容されない。近頃の子供は、火を間近に見ることさえないのだ。
100年もまえのおもちゃが、今でも動く。金属が錆びるけれど、気をつけていれば大したことはない。
先日、ドイツの人から突然メールが来た。彼が持っているドイツ製の古い機関車のシャーシが変形してしまい、直せなくなった。ダイキャスト、つまり鋳物でできていて、亜鉛が使われている。50年くらいまえ、おもちゃによく使われた技術だが、劣化して、膨張したりひび割れたりする。彼の機関車のシャーシもバナナみたいに曲がってしまったのだ。ネットで検索して、同じ機関車の所有者を探したところ、10年まえに僕がアップした動画を見つけ、連絡をしてきた。「今もそれを持っていて、もし正常ならば、寸法を測って教えてほしい」という要望だった。
ドイツでは、同じ機関車を持っている人が見つからなかったようだ。50年くらいまえに数百台生産されたものらしい。
工業製品は、それが作られる過程、使用される過程、廃棄される過程を想定して、デザインしなければならない。太陽光発電は使用過程では省エネで環境に優しいけれど、製作されるときにエネルギィを使い、破棄されたのちにも環境負荷がある。そういったトータルの性能を評価しなければ、本当に環境に優しいのかはわからない。
新しい燃費が良い自動車を買うよりも、古い自動車を直しながら長く乗る方が環境負荷が少ない。省エネだからと新製品に飛びつくことは、むしろ環境的にマイナスとなる。生産する業界は、そういった不都合なことを表に出さないから、消費者は惑わされるだろう。「ライフサイクルコスト」というのが、この視点である。
「省エネ」「環境保護」と宣伝された新商品が作られているが、実は、そういった新しいものを作らず、なるべく長期間同じ製品を使い続ける方が地球に優しい結果となる。
【地球環境保護のためには?】
ここ数日、工作室で古い模型の修理をしていた。
蒸気機関というのは、ひと昔まえのテクノロジィである。鉄道は、その後はディーゼルになり、そして電気で走るようになった。かつて沿線では石炭の排煙に苦しんだし、運転士もトンネルを抜けるときは命懸けだった。今は、自動車がようやく電気で走るようになりつつあり、排気ガスから解放されるクリーンなイメージを人々は抱いている。
だが、その電気はどうやって作られているのかというと、石炭や天然ガスを燃やす蒸気機関であったり、エンジンによるものであったりする。つまり、なにも変わっていない。もちろん、発電所に集約することで高効率にはなる。しかし、送電や蓄電で失われる分も比率として大きい。
二酸化炭素を増やしてしまったことが、温暖化を招いていて、異常気象による大雨や大型台風の災害につながっている。今までは大丈夫だった備えが、これからは万全とはいえない。平野に住んでいれば堤防が決壊して洪水になるし、山に近ければ土砂崩れが懸念される。対策としてインフラを整備すると、そこでもまたエネルギィが必要となり、二酸化炭素を増やしてしまう。
どうすれば良いのか? 答えはわりと簡単で、人口を減らせば良い。そのうえで、安全な地域で、新しいものをなるべく作らず、既成のものを維持して暮らしていく。人は移動せず、創造的な活動はヴァーチャルで行う。争いを避け、産業の発展、経済の発展を諦めること。商売で大儲けしようという資本主義の夢を捨てること。さて、これができるだろうか?
今いけいけで稼いでいる人たちは反対するだろう。そういう人たちから献金を受けている政治家も反対するだろう。ここ100年ほどは、つまりこんな具合でぐずぐずと問題をさきのばしにしてきた。人は皆どうせ死ぬのだから、自分が生きている間くらいは贅沢がしたい、と考えてきたのだ。子供のため、子孫のためなんて、綺麗事ばかりいいながら……。
【仕事がなければ不自由はない?】
スバル氏は、キャスタ付きの椅子を通販で取り寄せ、それに座って家中を移動している。アルミ製の軽量松葉杖も購入して、屋外へも出ていく練習をしている。僕は、何十年か振りにリンゴをナイフで剥いた程度で、特に不自由なく過ごしている。
不自由を感じないのは、仕事がないからだ。仕事があったら、こうはいかないだろう。多くの人は、仕事があることが普通で、当然で、自然だと思い込んでいるけれど、実はその反対で、特別で、異常で、不自然な状態なのである。生活するためにやむをえず仕事をしなければならない、という特殊な環境に陥っている。どうしてそうなってしまったのか、スマホに手を当てて考えてみよう。
文:森博嗣