早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【クローゼットの中に仕舞い込まれたものたち】
浴槽から出た私と、部屋の隅で息を潜めるように小さくなっていたあの子の視線がぶつかる。私に対してこういう態度をとるときは、あの子なりに理由があってのことだった。「何かしたな」と視線を部屋の中に移したときに、目の前で発生した事態を瞬時に理解したのだった。どうやらあの子が2ヶ月前に買ったばかりのブーツの一部を噛みちぎったらしい。羊の革で作られたそれは、さぞ噛みやすく、美味だったことだろう。特に何も言わずに、転がっているブーツの片割れを拾い上げ所定の位置に戻す。その後でただ一言「駄目」とだけ気持ち低い声で発すると、部屋の隅にいたあの子が申し訳なさそうに足元に擦り寄ってきた。
こういうときにあまり犬に対して怒りを覚えることはない。
ただ、それでも悲しいとか、やるせない感情は湧いてくる。今回ならば、ほんの数ヶ月前にそれなりの値段で購入し、綺麗に大事に履いてきたものだ。そんな状況に私がどうしようもない気持ちに襲われないわけがない、そう自分でも確信していた。
「噛まれていない方も同じぐらいになるまで履きならせばいいか。」
自分の口から出た言葉なのに、唖然としてしまった。
私が信じ込んでいた私はこんな風に事態の収拾をつけなかったはずだ。洋服や鞄、靴にいたるまで、この場所に行くならこれを身に付けても問題ないという基準で選ぶ人間だ。匂いがついたり、汚れそうな場所には大事に保管しているものを持ち出すことはまずしない。それに加えて、自分の大事にしているものに傷がつくのが何よりも嫌で、出来ることならばずっと綺麗なままで存在していてほしいと思ってしまうのだ。そんな癖があるため、購入したけれどほんの数えるほどしか着ていない服や履いていないヒールがいくつもクローゼットの中に存在している。
【私は傷をどうしても愛せなかった】
何年間か、所有しているという事実が心の安定に繋がっていた時期があった。
「この仕事頑張ったらご褒美を買おう」
それと同じで耐え難い苦痛で生み出されたお金を、綺麗なものに換える。記憶も感覚も全てそうやって塗り替えたかった。だからこそ、傷や汚れが一つもない状態が正義で、それ以外は私にとって要らないものだった。その傷を愛することはできず、それは所有しているものに対してもそうであるし、私自身に対してもそうであった。
代替品で埋められていた部分を、いつの間にか自分が本当に大事にしたいものや必要なもので満たせるようになっていった。そんな風に自分が変化していることに気がついたのもつい最近のことだ。犬が起こした出来事もそうだが、現実でも心の中でもスペースをとっているものたちの清算をつけていこうとちょうど思い始めたところであった。
いつの間にか行動や価値観が変わっていたんだと気がついた瞬間に「ああ、ちゃんと遠くまで歩いてこれたんだな」という確固たる自信に繋がっていく。「明日から変わろう」と決意して行動に移すのも勿論大事で、ついついそればかりに価値を置いてしまいがちではあるが、こうやって長い時間をかけて、自分でも気がつかないぐらい緩やかさで変化していくのも悪くない。
そして、抱えているものたちの経年変化を受け入れられるようになった今、次は私が私に対しての受け入れ方や愛し方も徐々に変化していくのだろう。自分のことながら、そんな私の変態もこれからの楽しみの一つである。
(第39回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定