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◾️「個人主義」が徹底している場所

 



 衝突しそうになってもトラブルにならない理由はいたってシンプル(カンボジア、ベトナムをバイクで旅して気が付いたこと)。そこに、徹底した「個人主義」が見えてきた。



  私はカンボジア、ベトナムを110㏄の原付バイクで旅をしている。そこに生活している人たちと同じスピードで旅をしていると、そこに住んでいる人たちの生活が見えてくる。そして、毎日、目の前で起こるいろいろなことを目撃し、さらに自分自身にもさまざまなことが起きるのだ。昨日もこんなことがあった。



  標高約1600mに位置するベトナムの避暑地であり、棚田や少数民族の村々で有名なサパは、国内外に知れ渡っている。その風景の美しさはことさら有名なのだが、そのサパにライチャオから入るためには、長い、長いオークイホー峠道を走らなければならない。

今回は、幸いにも天気が良く、絶景を眺めながら、そのオークイホー峠を越えた。「最悪の天気にならなくて良かった」と思っていたが、風がなかなか強い。その上、蛇行する登り路を上がってきたこともあり、老体に残されたエネルギーはもう残り少ない。



 サパに入った頃には疲れもピークに近い状態になっていた。ところが、「そこにホテルがあるだろう」と予想していた場所にやって来たのに、目指すホテルが見当たらないのだ。そこは下り坂ということもあり、意識してゆっくり走っていたのだが、それでも見つからないのはどういうことだろう。

しびれを切らし、グーグルマップで確認すると、いつの間にか通り過ぎているではないか。もう一度はっきり確認できる場所まで坂道を上り、再び下り始めた。それもさらにゆっくり下りたのだが、何ということか、またしてもよく分からない。



 その時は疲れと少々の焦りもあったのだろう、後ろを確認せずに急ブレーキをかけてしまったのだ。すると、突然のクラクション。バックミラーには、ぶつかる寸前のところで止まっているバイクが映っていた。

「ごめん!」咄嗟に浮かんだ言葉だ。何か言われてもおかしくない状況だったにもかかわらず、ぶつかる寸前でブレーキをかけ私を回避したバイクの男性は、私を軽く一瞥しただけで何事もなかったかのように通り過ぎてしまった。





カンボジア・ベトナムで体験した「個人主義」と「強かに逞しく生きる力」【西岡正樹】
サパの棚田



 これまで1か月以上もカンボジアとベトナムをバイクで旅をしてきたが、同じような状況で見知らぬ人々に迷惑をかけたことは、何度もあった。しかし、〔相手が私に対して声を荒らげることは1度もなかった。また、同じような場面を見かけたことは数えきれないほどあるが、それでもお互いが声を荒らげるのを見たことがない〕



 日本ではどうだろう。地域差もあると思うが、何回か同じような状況に出逢うと、1度は声を荒らげるか、威嚇するような目をして通り過ぎる人を見掛けることになるのではないだろうか。

また、ずいぶん前になるが、私がイタリアを旅した時には、渋滞の中お互い様のような状況であっても、クラクションを鳴らすと同時に叫びあう人たちを、これまた数えきれないほど見た。



  繰り返すが、私はカンボジアとベトナムを1か月近く、バイクで旅をしているが、目の前で繰り広げられるドラマにあきることはない。私が旅している所は、だいたい私自身が初めて訪ねる所がほとんどだ。だからあらためて言うことではないかもしれないが、どこの国でも同じような体験を繰り返してきた。しかしこの2つの国では、今まで何気なく見てきたことでも気になることが多く、それを含めて、より面白がって旅しているのは間違いない。



カンボジア・ベトナムで体験した「個人主義」と「強かに逞しく生きる力」【西岡正樹】
オークイホー峠を越えた



 



■路肩からバイクを発進させる時、ほとんどの人は後ろを確認しない

 



 これもバイクに乗っていないと気が付かないことかもしれないが、〔路肩からバイクを発進させる時に、ほとんどの人は後ろを確認しない〕ということに気づいた。

私の目算でも、その確率は9割に達するのではないか、と思っている。その該当者は、老若男女、バイクに乗る人全てであると考えてもらっても構わない。



 Facebookにこの件について投稿すると、友人から「インドネシアの人も同じだよ」という連絡がきた。「そうか、これはカンボジアとベトナムの2つの国というより、東南アジア全域に当てはまることなのか」と思った。



 そのことをカンボジア人の友人とベトナム人の友人にぶつけてみた。



 カンボジア人の友人の第一報は次のようなものだった。





 「一般の人は確認せずに発車しているのが普通ですが、自転車にいつも乗っている私は後ろを確認してから前に進んでいます」





 読みながら笑ってしまったのは申し訳ないが、やはり、あらためて問われると、「この慣習はあらためなければならない」とほとんどの人が思うことなのだろうな、と。友人の一報で理解できた。その後に送られてきた内容を読むと、友人のまじめさがにじみ出ていたので、この内容にも私は「ニンマリ」してしまった。





  「譲り合うことが大切です。しかし、みんなは相撲取りのように気合で運転しています」



 「交通についての公民道徳が、子どもの時から教育されていないというのも理由にあると思います」



 「カンボジアの伝統教育では、親から引き継いでいることが多いです」





  これを読んでいて「ふと」思うことがあった。それは、私の目の前に繰り広げられる「マイペースなバイクの乗り方」や「衝突しそうになってもトラブルにならない対応の仕方」などは、カンボジアやベトナムの人たちが長い間「生きることに精一杯」であったことと、繋がっているのではないかということだ。



 「生きることに精一杯」の人たちは、生きていくために自分で、または家族で、何でもやらなければならない。誰に頼ることもなく自分のことは自分でやってきたのだから、何か行動を起こす時は、自ずと自分のペースで行うことになるし、誰かに何かを期待することもないのだろう。唯一、頼りにできる、期待できる存在が、自分自身であり、家族なのだ。



 このような生活を続けていると自分のペースで行動することが当たり前になり、相手に合わせて行動することが面倒になるのではないだろうか。その上、交通教育やルールをしっかり学んでいなければ、ルールに沿って行動するよりも自分のペースや感性、そして慣習に従って行動するようになるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。



 また、他の車やオートバイと衝突しそうな状況になっても、彼らの中でトラブルにならないのは、お互いが他人に多くを「期待していない」からであり、お互いがそれぞれのペースで動いていることが分かっているので、目の前のバイクが自分の思っているような動きをしなくても、それが当然だと受け入れられるのだ。



カンボジア・ベトナムで体験した「個人主義」と「強かに逞しく生きる力」【西岡正樹】
道路いっぱいに広がって走るオートバイの群れ



  



■欧米とは異なる「個人主義」がカンボジアやベトナムにはある



 



 カンボジアやベトナムの人たちの中にいると、欧米とは異なる徹底した「個人主義」が、人々の中に根付いているように見える。欧米の「個人主義」についても、私は旅を通して学んだのだが、欧米の人たち、とりわけ西ヨーロッパや北米の人たちは、自分と他者との距離感をとても大切にする。だから、自分の領域やペースは断固として守るが、他者の領域やペースもとても尊重する。だから、他者の領域を自分が犯しそうになると必ず言葉をかけ、言葉によって自分と他者との距離感をうまく調整していた。



 しかし、カンボジアやベトナムの人たちの行動は、むしろその逆で、相手との距離感をほとんど考えずに行動するのだが、相手が自分の領域に無断で入ってきても、それを許容できるのだ。その徹底した振る舞いは、それは、それは驚きに値する。



 私がカンボジアをバイクで走り始めた当初、目の前にやってくる数多くのバイクの動きは予測不可能で、それぞれがそれぞれのペースで動いているのに唖然とした。目の前はカオス状態なのだ。



 「いやぁー、これはどうすればいいんだ、俺は何を、誰を基準に走ればいいのだ」と思った。ところが、初めは慌てふためいていた私なのだが、いつの間にか誰かに合わせるというよりも、周りを観察しながら「自分のペース」で走り始めていたのだ。



 その時、私が納得したのは、「基準のないところに基準を求めればさらに混乱するだけだから、それぞれが周りを見てその中で自分なりにベストなものを選択して行動すればいいのだ」ということだった。そう思うと、目の前に起こる予測不能な出来事に対して、私の苛立ちが面白いほど小さくなっていった。



 それぞれがそれぞれのペースで行動するから、人と人の距離がとても近くなることもあるし、さらに人と人が交錯することも度々あるけれども、そこには言葉は存在しない。道路上では、自分の存在を知らせるクラクションがあるだけだった。



カンボジア・ベトナムで体験した「個人主義」と「強かに逞しく生きる力」【西岡正樹】
逞しい隻眼の老女



  



■体の小さい隻眼の老女と「強かな逞しさ」

 



 翻って日本の現状はどうなのだろうか。何度も言うが、「停滞と混迷を続けている中、我々は自分たちをしっかりと見つめ直す時期に来ているのではないだろうか」と私は思う。



 私はベトナム人の友人にも、カンボジア人の友人に送った質問を同じようにしてみた。



 「ベトナムの人は、バイクを発車させるのに後ろを確認しないで発進させるのはどうしてなの?」



 すると、



 「それは私にとって難しい質問です。きっと、ベトナム人は2つの目ではなくもう1つの目で見ているのではないかな」



 という冗談とも本気ともいえるような返事が来た。



 カンボジア、ベトナムの旅は、誠にもって驚かされる日々の連続なのだが、欧米とは異なる徹底した「個人主義」を目の前にして、私が思うことは、我々日本人がいかに中途半端な行動をしているか、ということである。日本人は「民主主義」という名の「個人主義」を手に入れたのだが、この「個人主義」は自分たちの生きざまを反映していないから、とても脆弱である。一言で表すなら「逞しくない」のだ。(ただ与えられたものは、努力しないと自分のものにはならないってことですかね)



 どちらが良いのか、という言い方はここではふさわしくないので考えもしないが、欧米型の「個人主義」(私の勝手な命名)も東南アジア型(南アジアも入るかも)の「個人主義」(私の勝手な命名)も一言で表すなら「逞しい」のである。(旅から得た実感)私は今回の旅を通して、我々日本人が失って久しい「逞しさ」を、東南アジアの「個人主義」の中に見たのだ。言っておくが、私が言う「逞しさ」はマッチョな逞しさではない。どのような状況になっても生きていく力を持つ〔強かな逞しさ〕である。



 



 私は、前述のサパでひとりの老女に逢った。黒モン族の女性だと思われるのだが、体は小さく杖をつき、隻眼であった。光を失った青白い片目、薄汚れた民族衣装に私はたじろいだのだ。(当初、物乞いかと思った)そんなことを思った私が恥ずかしくなるような老女の交渉術。その術中にはまり、私はミサンガを3本買うことになった。「可哀そう」という言葉が頭によぎるような私の「浅はかさ」を、老女は見抜いていたのである。



 今の私には、この老女のような逞しさはない。この逞しさは、人間が生きていくために必ず必要なのだ。失ってはいけないものなのだ。欧米型であろうと、東南アジア型であろうと、確かな「個人主義」を表現し続ける人たちには、この「逞しさ」がある。私が今回の旅で確認したことでもある。



 



文:西岡正樹