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◾️「縄文的」時間

 



 先日、縄文倶楽部なるワークショップに参加させていただいた。



 旅する料理人、三上奈緒さんが主催する「食」を基盤とした学びの空間である。

縄文土器や土偶の発掘の中心地としても知られる長野県井戸尻の考古博物館に集い、美しい高原のなかで1日かけ、火をおこし、採集し、調理し、食べ、語り合い、発想を共有しながら深い対話の世界に埋没していく、そんなイベントだった。



 湧水を探して山菜を取り、縄文土器でキビ粥を炊く。黒曜石で切り刻んだ鹿肉や野菜を、朴葉と泥で包み焼く。これらの体験そのものが、便利に生きる我々の世界を相対化し、外から語る言葉を生み出していくという仕組みは、とても刺激的だ。ここでは、「縄文」というのはメタファーであって、あくまでも近代文明に埋没した我々の中にある野生性の謂であり、身体と精神の毛穴が開いていくような、そして様々な思いが溢れ出してくるような、なんとも貴重な時間だった。





無駄や退屈を恐れるな!「タイパ」世代に忠告「隙間を埋め尽くすのではなく、隙間を生み出せ」【小西公大】
撮影:著者



 この会で最も興味深かったのは、時間の感覚だった。

私たちの普段の生活では、「食」は手早く済ますものであり、「美味しさ」の消費活動であり、栄養素を摂取する行為である。ところが、一日をかけて「食」の周辺を旋回し続けるという――作っては食べ、食べては語り、また採取し、肉を切り、火を継ぎ足し、焼いて、また食べ、語るという――冗長だが濃密な時間を体験してみると、なるほど「食」にまつわる行為は、全ての時間の底流としてある、最も「生」のエナジーに直結する作法なのだと、改めて気づかされる。我々人類が何十万年と種を絶やさずここまで来られた理由は、まさにこの「食」=「生」=「時間」という連携=周回をめぐる基盤や制度を上手に構築してきたことに他ならない。



無駄や退屈を恐れるな!「タイパ」世代に忠告「隙間を埋め尽くすのではなく、隙間を生み出せ」【小西公大】
撮影:著者



◾️「タイパ」の持つ意味



 さて、『三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2022」』で大賞をとった「タイパ(タイムパフォーマンス)」という概念は、この上記の時間感覚の反対の極をなす考え方だろう。時間対効果、効率性と生産性、最小の(時間的)コストで最大の満足度や充足感を得るための手法や工夫。そこにあってはならないのは「無駄」であり、「退屈」であり、非能率的・非生産的な行為である。

直線的に設定され、身体感覚とは切り離された抽象的な時間設定の内側で、どれほどにパフォーマンスや利益、満足を獲得できるのか、という戦いでもある。ファーストフードやコンビニ弁当、ゼリー状だったりスナック型だったりする朝食や、多くの場合20分ほどしか与えられない学校給食など、「食」をめぐる時間配分は、随分と切り詰められてきた。その他の生産活動は「食べるため」だったりするのだが、「食」の持つ豊かさに対しては、随分と蔑ろにされがちである。



 この「タイパ」がZ世代に浸透しているという話を聞くが、思い当たる節は多い。これまでさまざまな大学で若者たちと触れ合ってきた人間として、彼らが陥っている「空白恐怖症」なる現代病に、随分と心を痛めてきた経緯があるからだ。スケジュールに「空き」が生まれることを極度に恐れるこの傾向は、彼らを「時間の隙間」の埋め合わせに奔走させる。



 実際、学生たちは世間が思っているよりはるかに忙しい。大学での単位取得合戦のみならず、サークル・部活やアルバイト、学生団体の運営やインターンシップ、資格の取得や「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」のためのボランティア活動、海外研修・留学や英会話スクール・免許合宿。「押し活」や「ヲタ活」のために多くの時間を(真剣に、真面目に)費やしている若者も少なくない。通学時間や休み時間も、スマホで得られるショート動画や切り抜き動画の消費で埋め尽くされていく。もはやそこには、「遊び」が生まれる余地はほとんどない。



 「大学はレジャーランドだ」「大学は人生の休息期間(モラトリアム)だ」などというしたり顔の大人は多いが、そんなにのんびりと日々を楽しんでいる学生は極めて少ないと感じる。

みんな、何かに追われるように、「隙間」を埋めることに必死なようにみえる。そう、ビジネスパーソンに比しても、彼らの忙しさは尋常じゃない。この状況を「タイパ病」と言っていいくらいだ(ちなみに学生のスケジュールを押さえたかったら、2ヶ月前に告知せよ、というのが大学教員の常識となりつつある)。



無駄や退屈を恐れるな!「タイパ」世代に忠告「隙間を埋め尽くすのではなく、隙間を生み出せ」【小西公大】
文化人類学者・小西公大



 



◾️文化人類学と時間

 



 自らの大学生活を振り返っても、文化人類学を学んできた感覚からいっても、この状態は、少し異常事態に思える。VUCAと呼ばれる見通しの効かない未来に対する恐怖心の増大や、「自分みがき=自己研鑽」「自己実現」の大号令による焦りや、ICT機器やSNSの普及による消費行動の変化(特に隙間時間にマーケットを拡張させる「時間資本主義」の浸透)など、その要因は複合的なものだろうが、あまりにも囚われ過ぎている、と感じるのは私だけだろうか。



 人類学を学ぶと、「時間」というものが近代以降、空疎で抽象的で直線的なものになりつつ、私たちの生活を大きく縛るものとなっているという、その感覚や状況から逃れることができる。

この学問は、世界のさまざまな文化形態において、時間があまりにも多様に、豊かに設定されてきた人類史的な知見を身につけることができるからだ――循環(周回)する時間、可逆的(元に戻れる)な時間、緊張/弛緩(伸び縮み)する時間、曲線的な時間などなど。



 実際に私たちは、耐えられない冗長で退屈な時間と、夢中であっという間に過ぎ去る時間の双方があることを知っているし、空腹などの身体感覚や生理などの周回する時間があることも知っている。四季にも敏感でいたいし、例年お祭りの季節はワクワクし、死者を悼む服喪の時間を大切にしたりする。過去の出来事に囚われて動けなくなったり、未来の出来事が突然ふって湧いてきたようなデジャヴ感覚も経験する人は多いだろう。しかし、私たちの採用してきた近代的時間は、それらの感覚を退け、時に排除し、あくまでも直線的で抽象的に設定された時間に従わせようと、私たちを追い込む。どんなにお腹が空いていなくても、食事の時間は確実に設定された通りに、厳かに取り行われる。

大地震や豪雪などの天災でも、出社に間に合うよう慌てふためく人々の姿が典型的だ。



 こうした時間をベースにして、さらにその隙間にあらゆる消費行動を詰め合わせていこうとする発想が、「タイパ」概念の根幹にあるのではないか。工場での生産効率と労働者の科学的な管理法を求めて19世紀末から20世紀初頭に生まれたテイラーシステムなる生産管理の方法が、いまだに深く根付いている現代社会において、私たちは何の疑問も抱かずにそのシステムに従属することを選択してきた。私は、そのことを否定するつもりはない。生産性や効率性が重要な指標となる分野も多いし、PDCAサイクルを高速で回すことで得られる利益もあるだろう。問題なのは、私たちの社会がこうした時間感覚に、多様な可能性を制限・排除してまでも全振りしてしまったことだろう。その感覚は、教育や働き方を通じて、私たちの日常生活全般を支配するようになる。まだ生産活動に完全に従事していない学生ですら、「タイパ」を称揚するような社会なのだから。



無駄や退屈を恐れるな!「タイパ」世代に忠告「隙間を埋め尽くすのではなく、隙間を生み出せ」【小西公大】
撮影:著者



 



◾️タイム・チューニングの世界へ

 



 したがって重要となるのは、時間感覚をその都度の状況に合わせつつ切り替えようとする、「タイム・チューニング」のスキルだろう。直線的な時間が重要なのはわかるが、どこかに曲線的、循環的、可逆的な時間を確保する感覚、すなわち多様な時間を切り替えていくような作法が求められているのではないか。なぜなら、合理性と効率性と即時性を備えたAI技術やDX化が、私たちの社会のあり方を根底から変えてしまったからだ。この分野では、スピード感や正確さにおいても、人間は足元にも及ばない。では、この時間を少しずつAIとChat-GPTに受け渡しつつ、私たちは豊かで多様な時間を楽しむようにしようではないか。



 なぜ私たちは、身体と感情と感覚に寄り沿った、多様な時間を取り戻せばならないのか。それは、最も人間らしい自然な流れに身を委ねることで得られる、発想力や想像力、思考力の芽吹きの源泉が、そのような余白的で「無駄」とされてきた時間にあるからだ。よく言われることだが、ギリシア哲学があれほどの深度を持って世界の真理に向けた言語化作業を進められたのは、とにかく時間がふんだんにあったことによる。「労働」は全て奴隷が担っていたからだ。ならば、僕らは「労働」を、最も処理能力の高い最先端テクノロジーに担わせればいい。



 大学の恩師は、「ダラダラする時間がリベラルアーツの条件だ」と言っていた。けだし、名言だ。こうした論理は、私が生きてきた過程でも、実感として感じている。忙しい時ほど、遊び心と発想力を失ってしまう。思考が停止する。ぼーっと時を過ごす湯船の中でこそ、アイデアが生まれたりするのだ。その感覚が私のなかに息づいている。アメリカ西海岸的な企業文化でマインドフルネスが大流行りしているのも、根っこは同じだと思う。



 隙間を埋め尽くすのではなく、隙間を生み出すこと。 



 直線的な時間の傍に、等身大でリアルな時間を確保し、切り替えていくこと。心身の声に耳を傾けながら、自分にしか作り出すことのできない時間の流れを、少しでも取り戻すこと。それが、次世代の私たちの社会にとって、「豊かさ」と活気をもたらす重要な鍵となると感じている。





文:小西公大