早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでほしい」 赤裸々に綴る連載エッセイ「私をほどく」第44回。「進むことが正義だった。決断し続けることが正義だった。」でも、これまでの私に足りなかったものとは。





【ついに送信ボタンを押してしまった】



 私のメールフォルダの下書きには一通のメールがお守りのように保存されている。



 内容はいたってシンプルなもので、担当編集に宛てた「今週原稿を休ませてもらえないか」というものだ。最初にこのメールを書いたのはいつだっただろうか。はっきりとしたことは思い出せないが、何も浮かばないときや想定以上に進みが遅いとき、書いている内容がいまいちしっくりこないときなど、このメールを眺めていると、不思議と気持ちが落ち着くのだ。



「まだ送信ボタンを押すことを躊躇っているうちは大丈夫だ。」



 そんなことをぼんやり考えているうちに、いつの間にか頭の中を支配していた迷いや雑念が消えていき、気がついたときには真っ白い状態に近かった原稿が生み出された言葉でびっしりと埋め尽くされている。それが連載当初から毎週のように繰り返されてきた。結局はどうにかなる。

心のどこかでそんなことを考えながら、目の前に原稿に打ち込んでいた。





 先週、ついに送信ボタンを押してしまった。



 実は押した瞬間のことはよく覚えていなくて、数十分後に届いた担当編集からのメッセージではっと我に返ったのだ。「ああ、ついにやってしまった」と深い後悔の念に駆られたが、そうなることを望んでいたのが自分自身であるというのは一番よく理解していた。ベッドの上に寝転び、真っ白い天井を理由もなく眺める。全身の力が抜けていく。

日頃あんなに喧しいぐらいにあれこれ思い浮かんでは、ああでもないこうでもないと考えが巡っていたのに、この世界にたった一人取り残されたかのように私の中は静寂に包まれていた。久しぶりのことであった。こんなにも心がざわつかずに、穏やかともまた違う静かな状態が訪れたのは。おかしなことかも知れないが、休むという行為がこんなに簡単であっけないのかと思う自分がいた。



 これまで休むこと、そして前に進まないことは悪だと決めつけていた。もし行動に移したとしたら、不安や罪悪感が混じり合った感情に苛まれるだろうと考えていたし、そんな感情を抱くことすら私にとっては恐怖だった。

だからこそ、そんなことが起こらないように、何かを選び続け、答えを出し続けることをある意味〈義務〉として自分自身に課していた。人から見れば、「行動力がある」とか良いように評価されるのだろうが、私はそんな良くできた人間ではない。怖がりだから選び続けているだけだった。





【罪悪感に苛まれる私に足りなかったもの】



 私に足りなかったものは思考と精神の余白だったのかもしれない。切迫した状況に自らを突き落とし続けた結果、いつの間にか「こうしないといけない」と縛り続け、見えるはずのものまで見えなくなってしまっていた。視野が狭まるほど、思考が狭まり、堂々巡りしてしまう。

そうなることで答えがより見えなくなり、本来ならば感じなくてよいはずの焦りに襲われるようになる。



 ここ最近、答えが出せているようで何の答えも出ていなかった。頭の中に霧がかかったような状態で、一度答えらしいものを出せたとしても、少し時が経つとぽろぽろと論理が崩れていくような感覚があった。それが長く続くと、あんなにも芯が通っていると信じていた自分という存在が掴みどころがない不安定なものに思え、白くないものが白く見え、黒くないものが黒く見えるようになっていた。



 先週、張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまった。普段ならば「何を扱おうか」とずっと思考を突き詰め、「あ、この言葉いいな」「この一文を必ず使いたい」なんて思いつくはずなのに、一向に私が動き出す気配を感じ取れなかった。

そこには、不安や焦りなんてものもなく、ただただ「無」が広がっていた。その中でずっと保存してあったメールの送信ボタンを無意識的に押してしまったのだろう。



 どこか解放感に溢れていた。それは書く行為から逃れたことからくるものではなく、私が私に課していたものからの解放、というのが正しい。そこから今日まで普段と変わった生活を送ったわけではない。仕事を丸々休んだわけでも、どこかに旅行に出かけたわけでもないが、これまでよりも足取りが軽く、頭の中の雑念が取り払われ整えられていた。きっと「止まっても大丈夫」と思うこと自体が、私にとっては何よりの薬になったのだろう。





 進むことが正義だった。決断し続けることが正義だった。そうやってうまくやってきたし、そうやってきた自分自身を否定するつもりはない。きっとこれからもそのやり方は大きく変わることはないだろう。



 ただ、今は保存してきたメールの代わりに、進むために止まっても良いというお守りのような心の余白を持っている。そう思うだけでいつもよりも思い切り、そして強く前に踏み出せる気がするのだ。



(第45回へつづく)





文:神野藍





※毎週金曜日、午前8時に配信予定