早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【ついに送信ボタンを押してしまった】
私のメールフォルダの下書きには一通のメールがお守りのように保存されている。
内容はいたってシンプルなもので、担当編集に宛てた「今週原稿を休ませてもらえないか」というものだ。最初にこのメールを書いたのはいつだっただろうか。はっきりとしたことは思い出せないが、何も浮かばないときや想定以上に進みが遅いとき、書いている内容がいまいちしっくりこないときなど、このメールを眺めていると、不思議と気持ちが落ち着くのだ。
「まだ送信ボタンを押すことを躊躇っているうちは大丈夫だ。」
そんなことをぼんやり考えているうちに、いつの間にか頭の中を支配していた迷いや雑念が消えていき、気がついたときには真っ白い状態に近かった原稿が生み出された言葉でびっしりと埋め尽くされている。それが連載当初から毎週のように繰り返されてきた。結局はどうにかなる。
先週、ついに送信ボタンを押してしまった。
実は押した瞬間のことはよく覚えていなくて、数十分後に届いた担当編集からのメッセージではっと我に返ったのだ。「ああ、ついにやってしまった」と深い後悔の念に駆られたが、そうなることを望んでいたのが自分自身であるというのは一番よく理解していた。ベッドの上に寝転び、真っ白い天井を理由もなく眺める。全身の力が抜けていく。
これまで休むこと、そして前に進まないことは悪だと決めつけていた。もし行動に移したとしたら、不安や罪悪感が混じり合った感情に苛まれるだろうと考えていたし、そんな感情を抱くことすら私にとっては恐怖だった。
【罪悪感に苛まれる私に足りなかったもの】
私に足りなかったものは思考と精神の余白だったのかもしれない。切迫した状況に自らを突き落とし続けた結果、いつの間にか「こうしないといけない」と縛り続け、見えるはずのものまで見えなくなってしまっていた。視野が狭まるほど、思考が狭まり、堂々巡りしてしまう。
ここ最近、答えが出せているようで何の答えも出ていなかった。頭の中に霧がかかったような状態で、一度答えらしいものを出せたとしても、少し時が経つとぽろぽろと論理が崩れていくような感覚があった。それが長く続くと、あんなにも芯が通っていると信じていた自分という存在が掴みどころがない不安定なものに思え、白くないものが白く見え、黒くないものが黒く見えるようになっていた。
先週、張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまった。普段ならば「何を扱おうか」とずっと思考を突き詰め、「あ、この言葉いいな」「この一文を必ず使いたい」なんて思いつくはずなのに、一向に私が動き出す気配を感じ取れなかった。
どこか解放感に溢れていた。それは書く行為から逃れたことからくるものではなく、私が私に課していたものからの解放、というのが正しい。そこから今日まで普段と変わった生活を送ったわけではない。仕事を丸々休んだわけでも、どこかに旅行に出かけたわけでもないが、これまでよりも足取りが軽く、頭の中の雑念が取り払われ整えられていた。きっと「止まっても大丈夫」と思うこと自体が、私にとっては何よりの薬になったのだろう。
進むことが正義だった。決断し続けることが正義だった。そうやってうまくやってきたし、そうやってきた自分自身を否定するつもりはない。きっとこれからもそのやり方は大きく変わることはないだろう。
ただ、今は保存してきたメールの代わりに、進むために止まっても良いというお守りのような心の余白を持っている。そう思うだけでいつもよりも思い切り、そして強く前に踏み出せる気がするのだ。
(第45回へつづく)
文:神野藍
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