「100年に一人の逸材」こと棚橋弘至が一大転機を迎えた。
2023年12月に新日本プロレスリング株式会社の代表取締役社長に就任したのである。
名実ともに新日本プロレス、そしてプロレス界を支えてきた棚橋だが、これまで「プロレス冬の時代」と呼ばれた時期も経験。尊敬するレスラーの離脱、地上波放送の縮小、総合格闘技ブームに押される中で団体のトップとして奮闘してきた。そこから2010年代に新日本プロレスはV字回復を成しとげ、今に至る。
棚橋にこれまでの苦悩とこれからの夢を聞くと、思いがけない答えが返ってきた。
◾️自分に自信がなかった棚橋少年は「強さ」を求めた
岐阜県大垣市に生まれた弘至少年は、自宅そばを流れる揖斐川で泳いだり、愛犬と一緒に川へ飛び込んだりしている活発な子どもだった。中学では野球部に所属し、プロ野球選手を夢見て頑張っていた。そんな彼がプロレスに夢中になったのは高校生になってからのこと。受験勉強の合間に、たまたまテレビで見た新日本プロレス中継を見てハマってしまった。「強さ」に憧れがあったのだという。

「僕は本当に自分に自信がない少年だったんです。ものすごいテレ屋で、女の子と話すと赤面するくらい苦手でした。
でも、プロレスラーって肉体的にはもちろん、精神的にも強いじゃないですか。プロレスを見ていて『この人たちはなんでこんなにも頑張れるんだろう』と。それも1試合だけじゃなくて、年間で100以上試合をしている。負けた次の日もケロッとした顔で。僕は強い人間になりたかったんです。肉体的な強さはもちろんですけど、精神的に強くなりたかったというところが大きいですね」
リング上で自信満々で相手を睨みつけ、自ら「100年に一人の逸材」と名乗る。そんな男にも自分に自信がない時代があったとは驚きだ。しかし次の一言で、やはりこの男は逸材だなと感じさせてくれる。
「…真面目な理由はそうなんですけど、もう一つの理由はモテたかったから(笑)。藤波(辰爾)さん、後は武藤(敬司)さん、カッコよかったですからね」
藤波、武藤とも若手時代は端正な顔立ちと肉体美で女性人気がすごかった。どちらも結婚を発表したときは女性ファンが卒倒したくらいである。
その後立命館大学に入学すると、プロレス同好会とレスリング部に所属し、プロレスラーになるためのトレーニングをスタートさせる。リュックにプロテインやツナ缶を詰め込み、持ち歩いていたそうだ。人よりたくさん食べて身体を大きくしていった。
スーパーでのバイト中も筋トレに励んだ。レジ内で腕立て伏せに夢中になるあまり、お客さんに気づかず行列をつくってしまい、クビになってしまったというのはファンの間では有名なエピソードだ。
新日本プロレスの練習生募集を見て、初めて入門テストを受けたのは大学2年の春。課せられたメニューはすべてクリアしたが不合格だった。秋に再度テストを受けたものの、今度は体調不良でメニューがこなせず、再び不合格となった。翌年2月に受けた3回目のテストでようやく合格通知を受け取る。
すぐにでも大学を辞めて入門するつもりだったが、待ったがかかった。声の主は当時の現場責任者・長州力だ。長州は「1年待ってやるから大学卒業してから来い」と言ったという。
「練習が厳しくてやめていく人も多いし、大きなけがをすることもあります。『卒業してからこい』というのは、そんな若者たちをたくさん見てきた長州さんの思いやりの言葉だったと思います」
入門が許された棚橋を待ち受けていたのは大学の単位だ。その時点で卒業に必要な単位が58も残っていたのである。1年生に混じって大教室の一番前に座って講義を受ける日々。入門までに体力を落とすわけにもいかない。トレーニングも続けた。ハードな生活を送って無事に大学を卒業した。

◾️〝猪木問答〟での「プロレスをやります」発言の真意
そして入寮。棚橋は肉体的にほぼ完成されていたためか、わずか半年でデビューを果たす。
その棚橋に大きな影響を与えたのが武藤敬司である。棚橋は武藤の付き人として同じ時間を過ごしてきたが、2002年1月に武藤が全日本プロレスへ移籍をするタイミングで離れることになる。「お前も来い」という師匠の誘いを断り、棚橋は新日本プロレスのリングに残ったのだ。
武藤が離脱を決意したのは、猪木の求める総合格闘技路線への反発からだった。当時新日本プロレスは、総合格闘技ブームに押されていた。オーナーのアントニオ猪木は、総合格闘技のエッセンスも入れろと、たびたび現場に介入する。
棚橋は、そんな猪木へ怒りをむき出しにした。それは、プロレスファンの間で有名な猪木問答(※注1)にも現れた。棚橋は猪木に向かって「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」と力強く宣言したのだ。
「猪木さんは『怒り』をプロレスのテーマにされている方、『何に怒ってるんだ?』と質問されたと思います。中西(学)さん、永田(裕志)さん、(鈴木)健三さんは答えても、猪木さんに切り返されてしまった。それでとっさに質問に答えるのをやめようと思ったんです。
猪木さんの問いかけに僕は答えていません。ただ自分の意見をぶつけただけです。猪木さんは異種格闘技戦をやってきたから、総合格闘技を避けることができないのはわかっています。
会社組織に例えれば、入社3~4年の若手社員が会社の創業者に意見するようなものである。とんでもなく凄いことなのは読者にもわかっていただけるだろう。ただ意外なことにその後、内部からの反発はなかったという。
「仮に反発があったとしても、僕には鈍感力があるので気づいていませんでした。さらに僕はめちゃくちゃ頑固で、自分が正しいと思ったことはやり遂げてしまう。自分の発言に自信がありました。僕自身、闘魂三銃士(※注2)のプロレスを見てファンになったし、プロレスラーになろうと思いました。あの時見ていたようなプロレスをもう1回出きれば、ファンになる人が増えると確信していました」
※注1:猪木問答:2002年2月、札幌大会終了後に蝶野正洋が猪木を呼び出し、「このリングを俺に任せてほしい」と直訴。その猪木から「テメエは何に怒ってる?」と問いかけた一連のやり取り。
※注2:闘魂三銃士:1984年の同日に新日本プロレスへ入門した武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也(故人)の三人のこと。1990年代の新日本プロレス人気を支えたレスラーでもある。

◾️ブーイングを浴びることで気づいた「棚橋=猪木」
2006年に棚橋は新日本プロレスの最高峰であるIWGPヘビー級のベルトを手に入れた。
当時の新日本プロレスファンは、チャンピオンに圧倒的な強さを求めていた。しかし棚橋は、強さと言うよりも上手さで勝ってきたレスラーである。強さという点では物足りなかったのだ。しかも見た目のチャラさもあったせいか容赦ないブーイングを浴びたのである。
「自分がチャンピオンになって新日本プロレスを盛り上げていくんだという矢先でしたね。最初は、僕がチャンピオンとして物足りないというブーイングだったんです。でも、段々僕の方からブーイングを煽っていったんですよ」
驚きの発言である。チャンピオンはファンから歓声を浴びてリングに立つのが当たり前なのに、ブーイングを煽るというのは前代未聞と言っていい。
「当時はよりチャラくなって、ナルシストになって、自我を開放していったんです。僕にブーイングが来るということは、対戦相手には声援がいくわけですよね。
プロレスは相対的なものです。僕の場合だと、ヒールとベビーフェイスの位置が逆転していますけど、結果的に会場は盛り上がっている。それがプロレスの仕組みです。だから敢えて僕がヒールの役割を買って出て、自分からもらいにいくようにしてました。
でも最初の頃はブーイングをなかなか受け入れられなくて、長年プロレスを見ている音響のスタッフさんに『どうしたらブーイングを浴びなくてすみますか?』と相談したことがあるんです。そうしたらその人が『タナ(棚橋)くんはそれでいいよ。君はアントニオ猪木なんだから』と言ってくれたんです。
どういう意味かなと思ったんですけど『好きも嫌いもあって本物だから』ということだったんです。その一言に救われてイヤじゃなくなりました。あの時のブーイングは僕を成長させてくれたんです」
子どもの頃は自分に自信がなかった棚橋が、自らブーイングを煽るほどにまで成長したのである。いつから自信を持てるようになったのか。
「実は子どもの頃から自分より運動神経のいい子とか、頭のいい子に自然と目が向いていたんです。生まれながらの上昇思考で、自分より良いものを目標にして頑張ってくタイプだったんじゃないかと、自分で分析しています」
自分より上を見ていたから自信が持てなかった。でも諦めずに頑張ったことでそのラインに近づき、「100年に一人の逸材」と自称できるほどに。自信とは一朝一夕で身につくものではない。時間をかけて努力を積み重ねてきたからこそだろう。

◾️初対面の人と話すときに気をつけていることは
棚橋がIWGPヘビー級チャンピオンになった頃の新日本プロレスは、観客動員が大幅に落ち込んでおり、倒産寸前の危機にあった。
しかし棚橋は諦めずに試合や練習の合間を縫って、熱心に営業活動へ取り組んだ。試合のプロモーションへ全国各地を渡り歩き、テレビやラジオなどにも積極的に出演。芸能事務所とも契約した。当時、初対面の人と話すときにどんなことを心がけていたのだろう。
「プロレスを知らない人に対してのラジオだったり、イベントだったりが多かったんですよ。その場で『プロレスラーです』と言って、プロレスの説明をしても興味を持ってもらえません。だから棚橋弘至という人間に興味を持ってもらおうと思いました。そこで肉体づくりだったり、人となりや失敗したエピソードだったりを話して僕に興味を持ってもらう。それで『この人何をしているんだろう』と調べたらプロレスラーだった、という流れができればと意識していましたね」
トークの鉄板は「恐妻」ネタだ。棚橋の奥さんは中学校の同級生で、彼をプロレスラーというフィルターなしで見てくれる存在だという。一方、やっと巡業が終わって帰宅しても、棚橋の膝の傷みなどお構いなしに愛犬の散歩をさせる「恐ろしい」存在なのだ。
「それがいいんです。家庭に仕事を持ち込むなと言われますけど、プロレスも同じだと思います。プライベートでも試合のこととか考えると無口になってしまうので。だから(フィルターなしで見てくれるのは)とてもありがたいです」

◾️逸材だけが気づいていた「レインメーカー・ショック」
プロレス界にも会社組織と同様に世代闘争がある。アントニオ猪木しかり、ジャイアント馬場しかり、長州力や藤波辰爾、武藤敬司、蝶野正洋しかり、多くの有名レスラーがそれを経験してきた。
棚橋も下からの突き上げを感じている。象徴的な出来事が「レインメーカー・ショック」だ。
2012年1月4日の東京ドーム大会で、棚橋は当時のIWGPヘビー級王座連続防衛回数の新記録となる11回を達成。年始から最高のスタートを切った。
その棚橋の前に立ったのが同日に凱旋試合を行ったオカダ・カズチカだった。そのオカダが棚橋に向かってこう言い放った。
「これからは逸材に変わって、レインメーカーがプロレス界を引っ張っていきますので、棚橋さん、お疲れ様でした」
会場からブーイングがオカダに飛んだ。それもそのはず。オカダの凱旋試合はさしたる盛り上がりも見せずに終わったからだ。ファンからは「まだ早い」という意味のブーイングだったのだ。しかしベルトへの挑戦が認められたオカダは一発で棚橋に勝利。この年、オカダはプロレス界を席巻することなる。当時を振り返って棚橋はこう語る。
「あの年は34歳で肉体的にも精神的にも充実していたし、前年にプロレス大賞MVPも受賞して絶好調だったんですよね。レスラーとして脂が乗っていた時期でもあったんですよ。
でも1月の東京ドームの後、2月に(オカダに)負けたんですけど、その間に短いシリーズがあって、前哨戦を毎日のようにやったんです。そこでオカダのすごさに気づいたんです。お客さんもほとんど気づいてなかった。だからこそ『レインメーカー・ショック』と言われて、今でも語り継がれているのとで、僕もまだレインメーカー・ショックの傷が治りきってないです。かさぶたが残ってます(笑)。
でも、オカダが出てきてくれたから2010年代に新日本プロレスの飛躍があったのは間違いないです。彼がいなければ中邑(真輔)もWWE(※注3)へ行っていませんしね。オカダの登場は新日本プロレスを変えましたよ」
それから棚橋とオカダの戦いは新日本プロレスの黄金カードとなった。2013年、2015年、2016年の東京ドーム大会ではメインカードを飾り、多くのプロレスファンを興奮させた。2018年には、当時IWGPヘビー級チャンピオンだったオカダが棚橋の連続防衛記録に並ぶ11回を達成。新記録を阻止するべく棚橋が立ち上がったこともある。
そしてオカダが凱旋帰国前に、棚橋の後継者と呼ばれていた内藤哲也は次期エースの座から転落。そこから路線を変更して這い上がり、今ではプロレス界のトップにまで登り詰めた。オカダ・カズチカという存在が、内藤にとっても大きな存在だったと言える。
※注3:WWEとは、世界最大のプロレス団体。日本でもAbemaで生配信されており、世界中に放映されている。ハリウッド俳優のドウェイン・ジョンソンは、ザ・ロックというリングネームでリングに上がっている。

◾️「社会人1年生の気持ちで」棚橋社長が抱く夢
そして現在。新日本プロレスリング株式会社の社長に就任した棚橋は、忙しい日々を送っている。試合がないときは出社し、業務の合間にトレーニング。試合がある日は反対にリモートで業務をこなす。どんな心境なのか。
「僕は大学卒業してすぐに新日本プロレスに入門しました。プロレスラーは周りの人が気を使ってくれるので、一般的な社会常識や、挨拶の仕方、TPOに応じた対応を学んでこなかった。その部分を埋められるよう社会人1年目の気持ちで頑張っています」
そして現役レスラー社長の立場をフル活用している。
「コロナ禍で落ち込んだ業績を戻すのは当然ですけど、現役レスラーでありながら社長というのを最大限に生かしたい。例えば法人営業もそうですけど、棚橋を使える商談とかあったら是非声をかけて欲しいですね。僕自身が企業さんへ『スポンサーお願いします』とご挨拶しますし、新日本プロレスはSNSのインプレッションがこれくらいあって、どの世代にどれくらいのファン層を抱えていて、協賛企業様のプラスになりますというところをお伝えできると思います。だから社長業も100%、プロレスラーも100%でやっていきます」
棚橋は社長になって新しい夢を抱いている。それは就任会見で語った3つの公約だけではない。
「夢は、都内にプロレスの常設会場を持つことです。もちろん後楽園ホールというメッカがありますけど、業界の規模を大きくしていくためには、1大会の動員数を増やさないといけないという思いがありますので、そういう会場をつくりたい。
新日本プロレスが使用していないときは他の団体さんへ貸し出したり、音楽や演劇の会場としても使用してもらったりするような。そんなアリーナがつくれたら、周りに飲食店や色んな施設ができて、さらに良い影響が与えられるんじゃないかと」
現役レスラー社長として汗を流す棚橋は今年48歳。氷河期世代真っ只中である。そんな棚橋に同世代へのメッセージをお願いした。
「人生は不思議なバランス感覚に支配されています。これはもう神様の仕業なんじゃないかなと思うんです。何でもバイオリズムがあって、いいときもあれば、悪いときもある。僕はね、死ぬときはプラスマイナスゼロになると思うんです。
例えば青春時代とか、氷河期を経験した人間は、これからいい時期が待っている。これからプラスの時期が来ると思います。40、50過ぎて、どうかと思うときはあるんですけど、これから人生でいい時を迎えると思って生活してほしいですね。
いいときと悪いときの平均値で通ったら、プラマイゼロで終わる人生の方が素敵じゃないですか。だからこれからいいことばっかりが待ってるよっていうマインドで生活していきましょう」
棚橋弘至にも苦しい時期があった。しかし彼は、少しずつ努力を積み重ねてきて乗り越えた。いい時期には、驕り高ぶらずリング上で愛を叫び続けた。太陽として雨と戦い続けて新日本プロレスの象徴となった。それが今の姿である。かつて「太陽のエース」と呼ばれた逸材は、今でもプロレス界を更に飛躍させるべく新しいステージで奮闘中だ。
文:篁五郎