森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。

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第19回 いろいろ作ってきたけれど……



【いつもなにかを作っていた】



 工作を始めたのは、幼稚園の頃で、そのきっかけは、近所の家で3つくらい歳上の女の子が、キャラメルの箱を何個かくっつけて、小物入れを作ったのを見せてくれたことだった。どうやって、それをくっつけたのかときいたら、「ご飯で」と教えてくれた。さっそく家に帰って、母にご飯をくれと頼んだのを覚えている。ご飯粒が接着剤だったのだ。



 やはり、幼稚園のとき、父が製図板で電車の展開図を描いてくれた。彼は建築の設計を仕事にしていたからだ。展開図をハサミで切り出し、糊代にご飯粒をつけ、電車の立体形になったのは、カルチャ・ショックだった。



 小学1年生のときだと思う。

市街地の一角にある噴水を囲む池で、中学生だろうか、少年たちがモータボートの模型を持ち寄り、競争をさせていた。電池とモータで動くプラモデルだった。少なくとも5人くらいが、それらを持っていて、池の片側でボートを手放し、走りだすと反対側へ走っていって、自分のボートを待ち受ける。それを見て、僕はショックを受けた。そのあと、夜のうちに父に模型店へ連れていってもらい、プラモデルのモータボートを買ってもらおうとした。だが、入った店には、そんな品物がなく、その日は買えなかった。プラモデルというものも、そのときまで知らなかったのだが、ボードだけでなく、いろいろな模型があることがわかった。



 プラモデルは、小学校の低学年までで飽きてしまった。高学年になると、少年雑誌を買ってもらえるようになり、工作のページを楽しみにしていた。鉄道模型や模型飛行機があることを知り、いつか自分も作ってみたいと夢見ていた。



 お小遣いは数百円だが、当時は、それで買えるプラモデルがあった。しかし、モータは別売で、プラモデルと同じくらいの値段がした。

さらに、電池も高い。高いのに、すぐなくなってしまう。だから、遊べる時間はほんの僅かだった。



 小学生のうちに、鉄道模型には入門できた。それ以外にも、いろいろ作った。大きなものでは、夏休みに自分一人で裏庭に小屋を建てた。これは、父の仕事の関係で材木が沢山あったからだ。捨てられた自転車を2台つなぎ合わせ、人力自動車も作った(人力だから自動ではないが)。天体望遠鏡も作ったし、室内で飛ぶヘリコプタ(棒の先に取り付けられ反対側のウェイトで釣り合わせたもの)も作った。夏休みの工作では、背丈1mのロボットを作って学校へ持っていった。これはリモコンで動くもので、モータが6つ使われていた。



 同時期に、電子工作にも夢中になり、アマチュア無線技士の免許を取得し、無線機を自作するようになる。

ロケットの実験をしようとして、火薬の材料を買いにいき、薬局で叱られたこともある。





【「作る」といえるのはどこから?】



 ところで、プラモデルは「作る」ものだろうか? そんなの当たり前だ、とおっしゃる方も多いと思う。でも、プラモデルは、「組み立てる」ものではないか。なにしろ、付属する説明書に「組立て説明」とある。そのとおりの手順でパーツを組むと、もともと決まっていた完成品になる。もちろん、色を塗ったり、細部を削ったりして、オリジナリティは出せるけれど、基本的に、よほどの改造を行わないかぎり、まったく違ったものにはならない。でも、レゴなどのブロックに比べると、プラモデルは作っている感じがする。その理由は、接着剤。そして、やはり塗装である。接着と塗装は、それを行うと、元に戻すことができない。ブロックはいつでも分解して初めの状態に戻せる。この「不可逆性」こそが、「作る」という行為の一つの要件といえるだろう。



 普通の工作では、材料を切る、削る、穴をあける、溶かすといった不可逆的な処理が加えられる。キットなど、一部の工作が既に行われているものもある一方、材料が未加工に近い素材であるほど、工作は難しくなり、時間を要する。しかし、その処理の割合が増えるほど、純粋な「作る」行為に近づくのである。



 英語で、「作る」は、ビルド、あるいはメイクである。工作の界隈では、キットではなく完全な自作のことを、スクラッチビルドという。スクラッチとは引っ掻く、傷つける、かき集める、裂く、穴を開ける、彫るといった意味である。これらはいずれも不可逆的工程といえる。



 完全なスクラッチビルドのことを、特別に「フルスクラッチ」と呼ぶ。これは、市販のパーツを使わないで、すべてを自作することだ。なかには、ネジ類まで自作に拘る人もいる。また、その工作に必要な道具も自作するような人もいる。



 だが、そんな人でも、金属材料や木材は市販のものを買っているのだ。

それらは、工場で加工されている。金属は鉱物から精製され、形を整えて出荷される。木材も木を加工したものだ。だから、材料のどこまで自分が関わるのか、というレベルになる。



 無線機やアンプを沢山作ったけれど、これらの工作は、電子パーツ、たとえば、真空管やトランジスタなどを使用する。それらを自分で作ることはできない。できないことはないが、極めて困難だ。では、電子工作というのは、工作といえないのだろうか。



 実物でも、たとえば建築工事において、現場で作られているものは少ない。ドアや窓は、パーツとして運び込まれる。木材も工場でカットされた状態で搬入される。壁も屋根も、使われているパーツは工業製品だ。

つまり、フルスクラッチとはいえない。





【「お手軽」が僕の工作の方針か】



 僕の場合を話そう。工作室には、旋盤もフライス盤もボール盤も設置され、鉄、ステンレス、真鍮、アルミなどの素材から自由に加工することができる。木工でも電動工具を取り揃えている。溶接機はもちろん、プラズマカッタもグラインダもバンドソーも持っている。これらの工具は総額で数百万円するはず。この値段を払うなら、専門業者に委託して、作ってもらった方が安いかもしれない。



 しかし、自分の手で作ること、わざわざ遠回りし、しかも下手くそな加工をする、失敗もする、そんな工程が面白い。趣味というのは、そういうものだろう。



 それ以前に、何をどうやって作るのか、と考えることが面白い。設計図があり、組立て説明に従って作る行為は、誰かから指示されて労働しているような気分になって、少し面白くない。ここが仕事と違う点である。



 僕は、模型が好きだが、実物のとおりに作ることは少ない。実物というお手本があるだけで、作る行為が労働に寄ってしまうからだ。



 目的や目標がない方が面白い。毎日悩ましいことがある方が面白い。はっきりいうと、どうしたら良いのかわからない、どうやっても上手くいかない、もう諦めるしかないのか、という方が楽しいのだ。



 手取り足取り指導されたら、きっとつまらなくなる。ネットで調べて、「こうしたら問題が解決するよ」と教えてもらうと、もう興醒めだ。その瞬間に、いわれたとおりに働く労働者になり、仕事になってしまうからである。



 最近の僕は、誰かが諦めて手放したガラクタを修理し、復元している。ガラクタをオークションなどで手に入れるのは、悩ましい問題を買っているようなものだ。そして、その問題が自分の力で解決したとしても、べつにそんなに嬉しいわけではない。「あ、終わっちゃったな」という程度である。そうではなく、問題に直面して、没頭する時間が面白い。あれやこれやと可能性を想像し、頭を使っているとき、爽快な気分になれる。これは、ジョギングなどのスポーツと同じだろう。頭が運動しているのだ。



 だから、僕の工作は、手と躰を動かして、頭にも「動いたら?」と誘っている行為だと思える。これは庭仕事でも同じ。また、プログラムだって、小説執筆だって同じだ。問題を見つけたときは、ほんのりと生きていることを思い出せる。





【一番新しいMacが動かなくなった】



 一昨日くらいから、Mac(Appleのパソコン、マッキントッシュのこと)が頻繁にシャットダウンするようになった。4年くらいまえに買ったもので、文章を書くために使っていた。触っていなくても、突然画面が暗くなり、やがて再起動する。失われるデータは僅かで、数分の仕事をやり直すだけで済むが、中断するのは困りものだ。いちおう、OSを再インストールしたり、各種の対策を試したりしてみたが、ハードの問題らしく、解決しない。しかたがないので、新しいMacを注文しつつ、別のMacで仕事をしている。



 デスクには3台のMacが常時働いているから、1台がダウンしても、仕事に支障はない。でも、気になっていろいろ試すから、時間は取られる。これも、問題を抱える状況が面白いと感じるせいだ。既に数時間は楽しめた。



 庭園の樹木が葉を出し始め、それらが少しずつ広がってきた。あと1週間くらいで、全域が木陰になりそう。今朝の気温は0℃だったが、日中は15℃くらいになるだろう。夏が近づいている気配はする。けれど、まだしばらくはジャケットが必要だろう。







文:森博嗣



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